日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」

日本記号学会第28回大会 遍在するフィクショナリティ

期日: 2008年5月10日(土) ,11日(日)
会場: 京都大学文学部 (京都市左京区吉田本町)

5月10日(土)
14:30‐17:30 シンポジウム・「すべての女子は《腐》をめざす─BLとフィクショナリティーの現在」

http://www.jassweb.jp/2008/04/post_8.html

なんかすごいシンポジウムだった。参加料1500円を払って参加したのに、「オヤジ(たち)の猥談」を延々聞かされた。あ、ありえねー。別に目ざさなくたって、このシンポジウムは十二分に腐っていた。悲惨。
 真面目に書くと、セクシュアリティについて論じられている、基本的な主題についてすら、踏まえられていないトークが続いたという、あまりにもレベルの低いシンポジウムだった。クィアのクの字が登場するどころか、無頓着に「普通」という言葉が飛び交う。私から見ると、それこそ「異常」なセクシュアリティについてのシンポジウムだった。
 無造作に、BLの男性が男性をレイプするシーンが予告もなし*1にスライドで映し出されたり、チラシやパンフレットに性的な描写のある漫画が載せられたりしている。それらのイメージは珍奇なものとして扱われ、「それに欲情する人」は「私たち」の外側に設定されている。そして、二人の男性パネリストは、「BLの作品を最後まで読み通せたことがない」と公言した。ここでは「なぜ、自分は読み通せないのか」という問いはなく、単に「くだらないからだ」という結論に陥り、自らのセクシュアリティを問い直すことはなく、「腐女子セクシュアリティ」を「化け物のセクシュアリティ*2としてネタにして、もて遊んだ。
 1997年に、キース・ヴィンセントは以下のように述べた。

 (引用者注:「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」という)この特集を、私たちは一つの愛のための「動き」として考えている。このプロジェクトのための膨大でかつ困難な翻訳と執筆の仕事を敢えて可能な限り当事者(すなわちゲイ男性、レズビアン、そしてHIV感染者)に依頼する方針を採った。このような私たちの「当事者主義」が場合によっては一種の本質主義として映ることは承知している。必ずしも「専門家」の技術を持っていない人たちが、当事者だからといってよりよい翻訳者や読者や著者になれるわけがないというのも確かである。それでも敢えて当事者中心主義で進めたのは、当事者たちがまた、別の知識を持っているとも私たちが信じているからである。
 「別の知識」というのは、たしかに履歴書に書いて有利になるような類のものではないかもしれない。しかしそれは十分に価値を持つものだ。これは九六年に法政大学出版より発刊された『ホモセクシュアルたち』という愚書を見れば明らかである。レオ・ベルサーニのHOMOSの翻訳本を称しながらもまったくの別物と変わり果てたこの本で、訳者なる人物は「この手のものにはあまり関心がなく、また知識もなかった」と自らの「当事者性」を忌避している。問題は彼の(あるいは可能性として彼の率いる学生の)「誤訳」ではない。さらに彼の「何であるか」のアイデンティティから生じたものでもない。問題は、この本の扱う「ホモズ」に、彼がアイデンティファイしたくなかったという事実から生じたものである。陳腐に聞こえてもけっこうだ。それは「愛」が欠損していたということなのである。

(キース・ヴィンセント「誰が、誰のために?」『現代思想』臨時増刊特集「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」16ページ)

アカーの実践と、ゲイ・アクティヴィストの呼びかけはいったいなんだったのか。10年以上たっても、ヴィンセントさんの言葉が新鮮に響く、この現状は非常にまずい。
 また、パネリストはもちろん、会場の参加者もセクシュアリティに対して議論を重ねてきた風にはみえなかった。「アナルセックス」という単語が、壇上で発せられただけで、クスクス笑いが起きる。男性パネリストは「BLなんて十代で卒業すべきだ」「ゴスロリで大学に登校する学生は痛々しい」*3などという発言をした。会場は、笑いでそれを迎えた。あれは、何を笑っていたのだろうか。「<私たち>のセクシュアリティは普通だよね」という確認の笑いだろうか?
 結局、パネリストの男性も、会場に参加していた多くの年配の男性も(また、男性でない人もそうなのかもしれないが)セクシュアリティについて語る機会があまりにも少ないのだろう。お互いに笑い話や飲み会の肴としてしか、自分の性の話をしたことがないのではなかろうか。性的な話題を口にするだけで、大盛り上がりをする会場に、ドン引きしてしまった。私自身は、性的な話題を口にすることは、すごく抵抗があるし、しんどい。照れてふざけてしまうこともある。だが、それをパブリックな場に持ち込んで、マジョリティ同士で確認するようなことはしたくないと思った。反面教師にしよう。*4
 パネリストとして参加した永久保陽子は、一方的に聞き取りされ、分析される対象に置かれていた。その構図が、またひどかった。それでも永久保さんの本を手に取る機会ができ、興味がもてる部分もあったので、それだけはヨシとしようと思う。

やおい小説論―女性のためのエロス表現

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しかし、このシンポジウムって、よく、これで金とろうと思ったよね…せめて、喋る内容くらい準備してきたらどうなん?身内でやったらええやん。(でも、開会の挨拶は立派でよく準備されていたので、企画者が悪者というわけでもない気はする。)

*1:つまり、暴力的なシーンが、参加者の目に飛び込んでくることになる。

*2:追記:「化け物のセクシュアリティ」のように扱う、という比喩で、この言葉が実際に使われたわけではありません。言葉が足りませんでした。すいません。

*3:この際に、あるフロアの女性参加者の服装を指しながら発言は行われた。きわめて暴力的な行為に、私には感じられた。少なくとも私は、「大学教授であり壇上にあがっている人間が、そういう発言することが怖い」と思ったし、「一刻も早くその場から立ち去りたい」と思った。そして、前半終了後の休み時間に退室した。

*4:今まで、そういうことは、私もしてきただろうし、すごく反省した。みっともない。