赦しと和解とは違う、という注釈
mojimojiさんが次の記事で私の、「原田正治「赦せないからこそ、会いに行く」(『くらしと教育をつなぐ We』)」*1という記事を参照している。
「『和解』の手前で、その2」
http://www.mojimoji.org/blog/0230
この記事では、「和解」と「赦し」が明確に区別されていない。この点に引っかかったので注釈的に書いておく。(全体の論がなにかあるわけではない)
先に述べておくが、私は「赦し」がよいことだとも考えていいないし、推進すべきだとも考えていない。また、原田さんの「赦し」の考えに賛同しているわけでもない。逆に、「被害者が傷つくから」という理由で「赦しについて語るな」という立場も支持しない。人間は、赦すことがある。その事実があるだけで、赦しについて思考する意義が、十分にあると考えている。
さて、私が「赦し」について考えるときに依拠するのは、デリダの赦し論である。デリダは「和解」と「赦し」をそれが基づく原理において区別する。単純化して整理すれば、「和解」は「交換の原理」に基づき、「赦し」は「贈与の原理」に基づく。「和解」は、加害者が謝罪や告白、悔い改めの態度をあらわすことと引き換えに、被害者がそれを受け入れることで行われる。だが、デリダのいう「赦し」においては、被害者は何も得るものはないにも関わらず、赦すのである。そして、加害を繰り返し続ける加害者こそを赦せ、というのである。
繰り返すが、私はこのデリダのいう「赦し」が優れているとか、推進すべきであるとかを考えているのではない。デリダの思考をたどる中で、「本源的な赦し」がそう定義されていくことに、納得している、ということである。また、そのようなデリダのいう赦しとは、「不可能な赦し」であるとも考えている。
このデリダの赦し論に依拠した上で、私は「和解」と「赦し」とを区別して考えるべきだとしている。和解が行われても、赦しが到来しない場合もあるだろうし、赦しが到来しても和解が行われないこともあるだろう。両者は密接に関係しているが、同一ではない。両者を混同して、和解交渉のテーブルに着くことと、赦す・赦さないの問題を、いっしょくたに考えることは避けたほうがよい。「交渉可能なもの」と「交渉不可能なもの」とは別なのだ。この違いは、「政治的に解決可能なもの」と「政治的に解決不可能なもの」との違いでもある。
また、デリダが注意を呼びかけるのは、赦しは個人間でしか行われないということだ。この点においては、朴裕河の「和解のために」で述べられているデリダ解釈に対して、疑義を申し立てることが必要かもしれない。*2どちらにしろ、政治的問題に「赦し」の概念を持ち込む際には、それを個人間に還元してしか語れないことを念頭に置くべきである。
さらにmojimojiさんは次のように語る。
確実に言えることは、被害者の思いは加害が行われる前の状態にに戻すことだということと、それだけは絶対に叶わないということだけだ。
http://www.mojimoji.org/blog/0230
私は、被害者を「被害を受けた人」以外の表現で、その心理を一面化して語ることを拒む。これでは「加害が行われる前」すらも想像できない被害者を、そのカテゴリーから追い出すことになる。また、第三者が「加害が行われる前」を勝手に推測して、「その状態に戻りたいはずだ」と述べることも、また被害者の言葉を奪うこととなる。確実に言えることなどはない。だが、mojimojiさんの記述に対して賛同する被害者が多いであろうことは、同意する。
それから、「被害者遺族」と「被害者」とをmojimojiさんは同一として語る。しかし、心理的レベルにおいて、被害者遺族と被害者との間に差異があることは、精神医学の調査でデータが出ている*3。最も大きいな問題として、死者は証言できないという問題がある。殺された被害者は、その真実を語ることができない。また、当然のごとく、当人間の赦しも起きない。この語れない存在が付きまとうという問題があるかぎり、被害者遺族と被害者とは別様の心理状態を呈するだろう。
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追記
私はmojimojiさんのいう「加害が行われる前の状態に戻す」を、加害の時間的先後関係において考えていた。(たぶん、mojimojiさんもそうだろう)
しかし、仮定法として「加害が起きなかったらあるような状態を望む」という意味なら、もう少し考えるべきことが出てくるように思う。いま、手元にないが、どこかで斉藤環が「PTSDとは、『この災厄が身に降りかからなかったとしたら』という仮定法的発想を失った状態だと書いていたように思う。「今ここに生きている私」は、偶然に災厄が降りかかったために今の状態に置かれているにすぎず、「ほかのありようの私」もあったいうふうに考えるのが、いわゆる「正常な」考え方である。要するに「こんなはずではなかった」と運命を恨むことである。ところが、「こうでしかありえなかった」と災厄を<過剰に>引き受けてしまうことがある。それが、精神分析的な意味でのPTSDだということになろうか。
今の私の文脈上では、この上の、「PTSD」と「正常な」という区分は、恣意的に線引きすることで話を整理しただけであり、病理的な判断としては使っていない。すなわち、精神分析におけるPTSD的であるような現実認識を、異常なものとして治療対象とするのではなく、包括するものとして「赦し」について考える端緒にしなければならない。あるいは、この現実認識こそが、なにか「赦し」のキーになってくるかもしれない。
私の直観としては「加害が行われる前の状態に戻す」ことを、加害者に表明できる被害者は、すでに対話可能な状態にあるように思う。すなわち、何を欲するのか知っている/欲することができる被害者だということだ。
たぶんこの本かこの本。
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*1:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100128/1264680155
*3:諸澤英道「被害者感情を好転させる要因・悪化させる要因」(『現代のエスプリ』1995年7月号、66〜76ページ)もしくはhttp://d.hatena.ne.jp/font-da/20080512/1210556138