若松孝二『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』
久しぶりに映画館*1に足を運んだ。この数年、1960年代の回顧録や、団塊世代の自叙伝の発行が増えている。ひしひしと、この時代に青春を送った人たちの「語り残さねばならぬ」という気持ちが伝わってくる。一連の若者たちの革命運動へのコミットの中で、たくさんの人たちがゴミのように死んだ。そして、それはまだ、総括も自己批判もなされていない。私は、父や母ですら、団塊の次の世代である。まったくこの時代のことを知らないからこそ、興味を持ってきた。
というわけで、こまめにこの手の作品はチェックしているので観てきた。
3時間以上の長編だが、大まかに3部に構成されている。「1960年から1968年の学生運動」「連合赤軍の結成と展開」「あさま山荘での銃撃戦」の3部である。
1部の学生運動を概観していく映像は圧巻だった。当時を記録した白黒のフィルム映像による、国会突入や街頭での投石、バリケード封鎖という運動の過激化の描写と、再現フィルムによるブント台頭、赤軍への分派、内ゲバという党派内闘争の過激化が重ねあわされ、追い詰められていく運動体の様子が浮き彫りになる。淡々と挿入される逮捕者の数、犠牲者の数に圧倒される。肉体的な死の恐怖に晒されるともに、社会的な死の予感にさいなまされ、若者たちが疲弊していくさまが伝わってきた。国家政策への抵抗は、常に後者によって脅かされる。世界的に巻き起こったこの運動は、間違いなくレジスタンスであった。(いまだに、若者たちの青春として矮小化されがちだが)若者たちが命がけにならなければ、自分の身を革命に投げこむことはできなかった。そのエネルギーと消尽の過程は観ているだけで身震いした。
おそらく、この1部は、観るべき映像であった。しかし、問題は2部以降である。もう、ここから先は苦笑するしかないような内容だった。
2部では、遠山美枝子をヒロインにした「悲劇の聖女物語」である。対するヒールの永田洋子が「すげえ悪いヤツ」に描かれていることに、私は萎えまくった。1部から、遠山さんは格別の扱いで描かれている。美人で控えめでがんばりやさん。なぜか重信房子*2との(男が妄想しがちな)美しき女の友情みたいなのが延々と描かれ、「なんやこれ?」と思っていた。それが2部では、永田さんが、遠山さんに<女同士の嫉妬>によっていじめまくり、その様子に男たちまでもが眉根を寄せる、みたいな構図に変わる。
象徴的なのは、山岳ベースで、遠山さんが処刑される場面だ。遠山さんは総括による自己批判の中で、自分で自分の顔を殴ることを命じられる。ぼこぼこに腫れ上がった顔を、永田さんに「見てみなさいよ」と鏡を向けられる。そして、自分の変形した顔に悲鳴をあげる。いや、だから「なんやこれ?」という感じだ。もう、とにかく、顔、顔、顔。美人の遠山VSブスの永田。なんでやねーん。
連合赤軍における、「女性性」をめぐる問題には、大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍』の鋭い考察がある。永田洋子が、女性性を抑圧し、「女による女殺し」を遂行していくまでの、組織内動態が描き出そうとする。
「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)
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たとえば、大塚さんは次のように指摘する。(引用部の傍点は割愛しました)
遠山批判を通じて連合赤軍の人々が何を批判しようとしていたのかはむしろ永田洋子の以下のような回想の方がそのニュアンスを正確に伝えているように思う。執拗に繰り返される遠山批判の一場面である。
(森は)続いて遠藤氏を叱りつけるように批判し、さらに遠山さんも批判した。それは遠山さんが女性であることを意識して活動しているという批判によって女性であることそれ自体を否定するものであった。私は、その批判はよくわからないまま、必要な批判なのだろうが、私の女性の自立の主張とどこか違っているなという思いで聞いていた。(『十六の墓標』、傍点部著者)
永田がここで「私の女性の自立の主張」と表現し森の遠山批判とさりげなく対峙させている「感情」はやがて八〇年代に「フェミニズム」と名付けられる感受性であり、早すぎたフェミニストとしての永田の本質を物語っているように思え興味深い。この点は改めて触れるとして「遠山批判」として始まったものが結局は森たち男性による女性性そのものへの否定へと姿を変えていったことがこの証言からははっきるとわかる。(16ページ)
続いて、大塚さんは、連合赤軍内に「女性性否定」という思想があったことを明らかにする。
映画では、処刑もまるで永田さんが率先して行ったように描いている。しかし、大塚さんは、森が遠山さんへ「唇を殴れ」などとし、彼自身の女性嫌悪により暴力をエスカレートさせていったことを分析している。また、次のような指摘もある。(引用部の傍点は割愛しました。)
例によって森のねちっこい女性批判が始まりその矛先が金子に向けられる。森の批判は彼女が自分に色目をつかっている、というものだった。永田の『十六の墓標』から引用してみよう。
森の発言があまりにおかしいと思った私は、わけのわからない怒りがわきそれを否定しようとして、金子さんに、
「森さんをどう思う?」
と聞いた。金子さんは、少しとまどっていたが笑いながら、
「目が可愛いと思う」
といった。
(傍点著者)金子は女たちを「かわいい女」として抑圧してきた森に対し逆に「かわいい」の語を投げつけるのである。男女間の支配関係の語としてのみ引用していた「かわいい」を最高指導者である森に投げ返した彼女の発言はそれこそ革命的、なものだったとぼくは思う。
(25ページ)
これらの分析は、映画に登場する女性たちを、ほぼ真逆の視点から描いている。映画では、女性たちは、永田さんの圧政におびえ、またそれに乗じて、「かわいい女」たちをいじめる。しかし、大塚さんの描き出す女性たちは、「かわいい女」を求める男性に対し苛立ち、「私のあり方」を主張する方法を模索し、あるいは混迷していく。
大塚さんは、連合赤軍の男性兵士に「女性兵士は性的道具である」という認識があったことをはっきりと指摘している。連合赤軍で「女である」ということは、二級兵士であり、揶揄の対象であり、また服従させられる階級であることだ。そこで、男性兵士と同等になるための努力を、永田さんは積み上げようとする。しかし、その努力とは、「男に男として認められる」ための努力であった。そして、大塚さんは、「男に認められたい」という家父長制的欲望に永田さんの踏み外しの端を見る。
私は、永田さんが「女による女殺し」を遂行して行ったのは、永田さんが「すげえ悪いヤツ」だったとは考えない。永田さんの業は、男性組織内で生きる少なくない女が背負う業である。組織内で、「かわいい女」としてではなく、一人の人間として「男に認められたい」と切望する。しかし、それを求めることで、自らの女性性を否定するような、男性の女性嫌悪に身を添わせることになってしまうという矛盾。この矛盾を抱え込ませるのは、男性優位の社会である。しかし、そうであっても、永田さんが自ら犯した罪は、何ら免罪されることはない。彼女の人殺しは、人殺しにすぎない。たとえ、<私>に殺させるものが、私の外部にあったとしても、それは、<私>が引き受けざるをえない責任である。私は、永田さんの連合赤軍で置かれたであろう状況を想像すると、心底同情するが、その罪を情状酌量するつもりは毛頭ない。彼女は単なる人殺しである。
一方、このような永田さんの罪は常に矮小化されて映しだされる。「女性性」を受け入れられない、「男になりたがる」女として、貶められる。それは、連合赤軍内の男たちであろうと、外の男たちであろうと、現在映画を撮った人たちであろうと、共通した視線である。エンドロールの参考文献に『「彼女たち」の連合赤軍』はあげられていなかった。撮った人たちはおそらく読んでないわけではないだろう。しかし、撮った人たちには、永田さんに「すげえ悪いヤツ」でいてもらわなければならない事情があるのだろう。
私にとって、映画で描かれた永田さんの像は嘲笑の対象であるが、大塚さんの描く永田さんの像が恐怖の対象である。なぜなら、後者の分析の中に、「女の姿をした私」を私は見出すからである。私が、そして友人が、その隣の女性が、永田洋子になってもおかしくなかった。しかし、前者の永田洋子には、私はならないだろう。なぜなら、この映画で言えば、私は永田洋子でありながら、遠山美枝子であるからだ。私が社会で生きていくことは、加害者でありながら、被害者になることだ。その一面であることはありえないし、分割も不可能だ。ただ、「殺す私」と「殺される私」を内包して、「自分の手なんぞ汚したことはありません」と生きていく。この映画に対する「何もわかっちゃいないね」*3という気分は、次の批評によってさらに深まった。
平岡正明 (評論家)
遠山美枝子は美しい女だった。鏡の中の醜く腫れ上がった顔が自分だと認識してからの数秒の、哀しい悲鳴が、試写会の椅子で見ているだけでもつらかった。遠山美枝子に扮した女優さんが哀しい経験をしたことがあるのか、あるいは女という存在の核には他からうかがい知れない哀しさがあるのかはわからない。しかし若松孝二という映画監督の凄味については、二、三のことが俺にも言える。その創造力の残酷さは、さすがに『日本暴行暗黒史・異常者の血』の監督だ、というのではことの半分、三時間にわたる『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は暴力の作家若松孝二の、残酷シーンにおいても頂点と言うべきだ。
(http://www.wakamatsukoji.org/mesagge.html#hiraoka)
この文章を読むと、「女という存在の核」があるとするのならば、「それをつくり出している者こそが、お前だ」という冷たい気持ちに私の心は満たされる。私たちは、毎日自分の顔を殴りながら、その顔を化粧で隠して生きている。そうするのは、間違いなく私だが、そうさせるのは、間違いなくお前だ。蚊帳の外から女を鑑賞しようとするような、この態度が連合赤軍の組織動態を生み出したのだ。
この「女の悲劇」という一大ドラマを作り出そうとする2部の後に続く、3部は滑稽なシチュエーションコメディだった。森さんや永田さんというトップが逮捕された後、若い連合赤軍のメンバーはあさま山荘に立てこもる。彼らは、もうすでに自分たちの末路を予感している。しかし、依然として(数名しかいないのに)すべてを会議で決める。「異議なし」「総括を求める」という革命用語でないと、コミュニケーションがとれない。すでにそこに革命精神はなく、とにかく形式を守ることによって、自分たちの行動は革命であると信じようとする滑稽さである。
また、これまで散々、自分たちの仲間を殺しておきながら、母親からの訴えに涙を流し、心を動かされる。「そんな都合の良い…」と思うような幼い心情も、彼らの若さを思えばわからなくもない。しかし、それはやはり滑稽でもある。母を求める息子の姿が、あられもなく映し出され、そこにはなんの恥じらいもない。観ている私は居心地が悪かった。その上、なぜか、管理人の女性(美人)がえらく重要人物として描かれる。そこには「かわいい女は守らねば」という男らしさが全開で、だんだんと「ああ、これは『男たちの大和』みたいな映画だったわけね」と私のフェミニズム的怒りも、諦めの域に入ってきた。*4
で、最後に最年少の未成年メンバーが、連合赤軍全体へ叫ぶ。「俺たちは勇気がなかったんだ」と連合赤軍を批判する。……ああ、間違えた、この映画を観に来ちゃったのは、私の失敗です、と思った。要するにこの映画は、この未成年メンバーに、団塊のオヤジたちが自己投影するために作られたのだ。それも、無垢な少年に自分を重ね合わせ、「あのころの俺たち」の革命として、自己批判なき総括をすまそうとしている。つまり、批判すべき自己の確立すら試みられないのだ。自らの滑稽さは隠蔽され、ドラマチックな、なし崩しヒューマニズムに回収される。
「あのころ」(1960年代)は、過去にあるのではなく、現在の政治状況に亡霊のようにつきまとっている。それを誠実に分析しようとするのは大嶽秀夫である。
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また、後に詳しく紹介したいと思っているが、「あのころ」の新左翼の思想の中に、「新自由主義」の萌芽があったことを明らかにするという、面白い本である。
総括すべきは「あのころ」の俺たちではなく、現在の新自由主義が席巻する社会を生きる、<私>である。「あのころ」の自己を批判し、その中から、これからどう生きるのかを見出し、報告する。それが、総括である。
しかし、大嶽さんのような著作には敬意を払いたいが、同時に「もう自己解体は限界なのかもしれない」とも思う。これから10年後には、次々と他者による「あのころ」の解体の成果があがるだろう。そうして初めて、連合赤軍とはなんだったのか、は明らかになるのかもしれない。
追記:
どうでもいいが、宮台真司がちょい役で出ている。「あれっ宮台さんにそっくりな人が…」と思うと、エンドロールで出ていた。あれだけメロドラマを批判する宮台さんが、ばりばりのメロドラマに出ているってーのもねえ。(いや、別にいいですけど)
*1:今月は、面白そうな映画が目白押し。「ジプシー・キャラバン」や「4ヶ月、3週と2日」「シアトリカル」「私大好き 草間弥生」「バレエリュス」。それから見逃してしまった「娼婦とサッカーボール」など。何本観れるかな…。
*2:この人がすさまじい人生を歩んだことは推察できるし、特異な人だとは思うが、映画の中ではちと美化されてやしませんでしたか?この人の、出国後の人生は知りたい。
*3:もう、どうしようもない、と思うような描写もこの映画では続く。森さんと永田さんのセックスシーン(しかしセックス後しか描かない)では、もうあまりの陳腐さに噴出してしまったし、永田さんが「共産主義のためには、私は森さんと付き合ったほうがいいと思う」という台詞を女丸出しで言わせる演出は、あほみたいだった。
*4:右翼も左翼も、オヤジの考えることはあんま変わらんねえ。