大澤信亮「触発する悪――男性暴力×女性暴力」(「フリーターズフリー」2号)

 もう店頭に並んでいるのだろうか。(私は見本誌をいただいている。)

フリーターズフリー vol.2 (2)

フリーターズフリー vol.2 (2)

特集2は「性暴力」で4人の論者が各々に論じている。

■ 「モテないという意識」を哲学する
 森岡正博
■ 「レイプされたい」という性的ファンタジーについて
 小松原織香
■ 触発する悪―男性暴力×女性暴力
 大澤信亮
■ 性暴力についてのノート
 杉田俊介

どれも今まで書かれたことのない議論が展開されているので、読み応えはあるだろう。私も、どの論文にも言いたいことがある。
 しかし、ちょっと笑ってしまったのは、小松原と大澤信亮さんが、同じ大澤真幸「<自由>の条件」に収録されている「レイプという悪」についての議論の同じ個所を、まったく逆方向に引用していることだ。単純化して言ってしまえば、小松原は大澤真幸さんの議論を支持し、大澤信亮さんは批判している。なんせ、連続して収録されているので、あまりの逆方向っぷりが面白かった。*1
 その議論のベクトルの逆向きはいいだろう。そうした思想的な違いが同じ雑誌に連続して載るというのはいいことだとも思う。また、大澤真幸さんの性愛論は、いままでまともに取り上げられたこともなく*2、私も言いたいことはある。しかし、今回の大澤信亮さんの論文の書き方で、どうしても最悪だと思うところがあるので、念のため指摘しておく。
 大澤信亮さんは、フェミは女性のふるう暴力を軽視してきたという。そして次のように指摘する。

問題は、個別的な女性暴力のケースがいかに積み上げられようと、それらすべてを「男のせい」として自己を問わない精神構造にこそある。たとえば、予想される切り返しは、「女性にそのような暴力を強いたのは男社会だ」というものだ。この安全装置を外さない限り、すべての議論が無意味になる。(167ページ)

この部分は、何を指して、何を批判したいのか、さっぱりわからない。たとえば、DV被害者妻が、夫を殺害したとき、その追い詰められた人間が殺人に至る心理過程フェミニストたちは必死に説明し、構造的暴力で起きた防衛だとして裁判を闘った。これが大澤信亮さんが批判したい女性暴力なのか?「たとえ、DVがあっても人を殺してはいけません」みたいな?誰が誰に何をして、大澤信亮さんは、誰を撃とうしているのか。さらに、こう述べられる。

 だが、繰り返せば、私はフェミニストに「認識を改めろ」「安全装置を外せ」と要求するのではない。むしろ彼女たちの認識に身を委ねようと思っている。逐一細かに反論を企てるのではなく、差し向けられた問いを正面から受け止め、身に染み込ませることだ。それは「自殺しよう」と語ることである。だが、人を自殺に追い込む限り――そんなつもりはなかったという言い訳は通用しない――、それなりの覚悟はしてもらおう。(168ページ)

こわっ!こんな恫喝をされながら、どきどきして読みすすめていくと、最後のほうにはこんな一節が出てくる。

 田中美津は言う。「野蛮には[野蛮]。殴られたら殴り返せだ」(世界は「野蛮」を待っている)。こういう人をシンボルにしてきた女性運動の意味とは何だろうか倍返し、倍々返し、十倍返しの応酬によって世界を血の色に染め上げる実践に、一生をかかえて身も心も捧げていく覚悟。まさか自分に都合よく「やり返し」が終わるとは思っていまい。この復讐の連鎖を断ち切る力とは何か。経済的に、社会的に、倫理的に。
(178ページ)

「こういう人」とか言われているが、田中美津が一生を血塗られた実践に身をささげたのか。そんなわけない。田中美津は、運動末期にメキシコに飛んで鍼灸師になった。私はもう、今の田中美津に聞くべきことは「女性」とか「暴力」とかではなく「冷え性の治し方」だと思っている。引退した革命家に、完遂できなかった革命の話を聞いても、「時代が変わったんだな」と思うしかない。なぜならば、完遂できなかった革命だけが、歴史を動かせるが、その動きは革命家の意とは外れた方向に向かうからだ。ひとりのカリスマ(と見なされる人)が革命を作るのではなく、革命の中でひとりのカリスマが名指され、その人はその時代の輝きを永遠のものにすることを要求される。しかし、それは不可能であり、カリスマは堕落するか、死ぬかしかない。*3
 私には50代後半から60代の女性の友人がある。彼女たちは、無名の草の根フェミニストで、主婦であったり、シングルであったりする。自分が育ってきた機能不全家族や、夫とのDV、そして言えなかった性暴力のフラッシュバックの中で、フェミニズムにであい、「私は私でいい」という感覚を得るために闘ってきた人たちだ。仕事をして、賃金を得ることが、どれだけ自分を解放してくれたのかを素朴に語る。お勉強フェミニストの私は、その生き生きとした語りの前で、資本主義の功罪について話すのはナンセンスだと心底思っている。そして、ぼそりと「でも今でも男の人に反論することはできないのよね。口が凍っちゃう」と言うのだ。そして、大澤信亮さんが論文でやり玉にあげた女性たちは、この世代の女性たちなのだ。
 私は、その語りの前で、圧倒的に世代の差を感じる。私は目の前で男性が私を批判するならば、反論する。しかし、そのことが不可能である人に、批判することは暴力になりうるのではないか。*4だから、彼女たちの言葉を代弁しようというわけではない。むしろ、私を撃てと、私は言いたいのだ。もう「殴られたら殴り返せ」ではなく、言論の力で議論できる20代30代のフェミニストの向けて、その言葉を吐け。幻想となった女性運動がはなってきたイデオロギーを内面化させ、「自殺するしかない」と言うのではなく、目の前の反論するなまみの女として現前する、私のような女を撃て。*5
 私が女をやって生きていく今のこの過程で、男に対して「殴られたら殴り返せ」と言いそうになることは山ほどある。でも言わない。そういう私に向って、大澤信亮さんが、何か言うのなら、受けて立とう。まだ、市場に出回る前に、反論出すのもどうかな、と思ったけど、我慢できずに書いてしまった。(ちなみに、大澤信亮さんの論文の内容はぜひぜひ読んでください。単なるバックラッシュ論文ではないですんで)

*1:私は大澤真幸「性愛の資本主義」もお気に入りの本だけど、びっくりするくらい大澤信亮さんとは違う読み方をした。今回の大澤信亮論文が、その本を要約部分を読んで「え?そんな話だっけ?」と思ったくらいだ。私も何回も読んでんのに!)

*2:私の知る限りフェミからはスルーされている

*3:そして堕落しようとも、今も生き延びて、たまに出てきて若い女の子に説教しようとする田中美津を、私は「もう黙っといてくれ」と思いつつ、ミーハーでウキウキした気持ちで「ハイハイ」と受け入れてしまう。これは革命に遅れてきた人間の、単なるファン心理である。

*4:これは私の女性の友人が指摘したことでもある。それも、「反論できる私はいいが」という枕詞をつけて。

*5:こういういことを言うと、嬉々として私に「女の暴力性」について指摘してくださる方が現れることがよくある。しかし、私は大澤信亮さんに対して呼びかけているのであって、そこの今、興奮しちゃってるあなたではないよ、とあらかじめ言っておく。