リアルのゆくえしれず
東さんの歴史認識について、ネット上で論争が起きていたらしい。*1そして、以下で、東さんが補足として歴史認識について書いている。
東浩紀「歴史認識問題についていくつか」『渦状言論』
私は「4.付録」を読んで「あー、そうなんや」と思ったのだけれど、ブックマークを見ている限り、多くの人は反感を持ったらしい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html
私はかねてから東さんの発言について、「なんで南京大虐殺?」という疑問があったので、とりあえずその謎が解けて良かった。話の内容自体、当時の熱意ある若者*2だった人の証言として面白かったし、もう少し聞きたい感じだ。
あとの東さんの「どんな醜悪な意見であっても耳を傾けろ」は原理論としては理解できる。やっぱり、南京大虐殺がなかったと断言するひとであっても、それを理由に投獄されたりしてはいけないと思う。*3だから「南京大虐殺がなかったと考えるなどとんでもない」とは言わない。けれど、人間の耳というのは、うまくできていて、本当に聞きたくないことは、聞こえない。だから、私が「南京大虐殺がなかったと断言するひと」の声は聞きたくないにもかかわらず、「ポストモダニズム系リベラル」*4であろうと努力して、「南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える」ことにしても、私には「南京大虐殺がなかったと断言するひと」の声は届かないだろう。正確にいえば、私に言葉は届くだろうかが、声は届かない。たぶん、そういう事態が起きるだろう。
こういう事態は、現在進行形でよく起きている。慰安婦の証言集会が良い例だろう。彼女たちは声をあげている、そしてその声に場所は与えられている。けれど、彼女たちの声は、届いていない(ように彼女たちには感じられる)。「場を与える」という問題ではないところで、私は歴史認識をめぐるトラブルは起きているように思う。(もちろん、トラブルという言葉は否定的にだけ使っているわけではない)それで、どうしたもんかと、私はずっと考えている。
私は「慰安婦はいたと断言するひと」と「慰安婦はいなかったと断言するひと」との間の、これまでの論争は重要だったと思う。が、これから先、必要なのは、国家の公的機関による歴史の実証的調査だろう。「慰安婦が強制だったか否か」「謝罪すべきかどうか」ではなく、「誰に何が起きたのか」を明らかにすべきである。そういう意味では、私は東さんの「歴史家じゃない人が、論争しても泥沼化するだけ」という主張は、これから先の歴史認識をめぐる問題を解決するに向けて、押さえるべき点だとは思う。この問題がナショナルヒストリーの問題である以上、国家がでばってくるしかない。
一方で、では泥沼の中で起きていることを見ることも重要である。歴史認識をめぐる問題では、歴史認識以外の問題もそこで湧き出てきている。それは派生的に出てきた問題だとしても、それだけで取り上げるに値する問題だろう。具体的に、私が何をしようとしているのか、というのはあまり言えないので、こうしたウジウジした書き方になってしまう。けれど、一筋縄でいく問題でもないだろうから、こうしてウジウジ考えるしかないように思う。
追記
ブックマークコメントで、id:toledさんの記事を紹介してくださった方がいます。(大変長いです。)
「永遠の嘘をついてくれ」
この問題に、私は向き合うべきだそうです。私の記事との関連はよくわかりませんでした。ので、単なる感想です。「無知への逃避」を好んで、「嘘」に酔いたがる人がいることはわかります。ただ、私がいつも危惧するのは、その中には必ず「マジ」の人がいることです。そして、良きにつけ悪きにつけ、また、独裁者にしろ革命家にしろ、ことを起こすのはいつも「マジ」の人です。それに煽られる「大衆」を批判することも大事なのですが、やっぱり私は「マジ」の人のすさまじさに関心を持ちます。