上野千鶴子・辻元清美「世代間連帯」

 上野千鶴子の「おひとりさまの老後」が売れている。

おひとりさまの老後

おひとりさまの老後

上野さんは、団塊の世代の女性たちに、自らの貯蓄を子どもに残すのではなく、老後生活へと投資すべきだという。認知症になり、自己決定が難しくなる状態になる前に、介護施設や高齢者向けの賃貸マンションへ移住することを勧める。上野さんは、子どもから介護されることへの期待をやめ、介護サービスのよりよい消費者になることが必要だという。「おひとりさまの老後」はベストセラーとなった。

 その風向きにストップをかけるのが、辻元清美である。辻元さんは、上野さんが主張する「団塊の世代の逃げ切り」は「既得権益の持ち逃げ」であり、若い世代には通用しないという。こうしたロスジェネ世代からの追撃にこたえる形で、両者の対談が収録された。

世代間連帯 (岩波新書)

世代間連帯 (岩波新書)

上記のような前口上はついているものの、中身は世代間ギャップについての言及は少なく、具体的な政策提案が中心になっている。「仕事、住まい」「家族、子ども、教育」「医療、介護、年金」「税金、経済、社会連帯」「世代間連帯」という章立てになっており、社会問題に対する見通しを立て、いかなる政治的解決が可能であるのかを検討した、リアリスティックな本である。またおりしも、昨日の総選挙により社民党は新連立政権に与党として参加する可能性が高い。野党ではなく、与党として、辻元さんの政治手腕が実際に発揮されることも期待したうえで読みたい。
 さて、辻元さんはロスジェネ世代からの発言を行っているわけだが、これは奇妙でもある。ロスジェネ世代は、1970〜1984年生まれを指す。その上に位置するはずの、バブル世代、さらにロスジェネの中でもバブル世代に近い感覚を持つ団塊ジュニア世代が飛ばされているのである。彼らは、まさにこれから10年、介護に直面するはずの子どもたちである。
 上野さんは、「親の支配から抜けられない子どもたち」を介護の重圧から解放することが必要だという。彼らは、親の期待を背負い、良い学校に入り、良い就職をしてきた。さらには良い介護までを期待されている。子どもの側は、親の資産を期待し、お互いの共犯関係として切ろうにも切れない親子関係になっているという。とりわけ、いつまでも「母の娘」役割に縛られる女性たちに危機感を持っているようだ。しかしながら、こうした上野さんの主張に批判を投げ返してくるのは、バブル・団塊ジュニアの下の世代である。議論の俎上にあがるはずの、肝心の「母の娘」たちは沈黙し、蚊帳の外である。
 上野さんもまた、バブル期に爆発的に本の売れた書き手の一人である。好景気の中、女性の労働運動も次々と裁判で勝利を収める。フェミニストだと名乗らなくても、「女性は自由である」と信じることのできた初めての世代である。女性たちがフェミニズムの泥臭い運動を離れ、消費による快楽を楽しむようになっていく中、上野さんは彼女たちを率先して擁護し称揚してきた。よりよい条件で賃労働に励み、収入を得て消費者としての力を持ち、その後家庭生活に入っていくパターンを、女子の賢いサバイバル戦略として認めてきた。当時の上野さんの読者は、40代の女性にもたくさんいるはずだ。
 だが、ぽっかりと彼らは論争の空白として抜け落ちている。たとえば、東浩紀は1971年生まれでロスジェネ世代に入るが、上の世代に近いような感覚を持っているだろう。東さんは、2001年に、次のように語っている。*1

(略)世代論で付け加えれば、今日はなぜかもうすぐ三〇歳のぼくが「若者」を代表しているけど、実際にはぼくより一〇歳、一五歳下の人間がほんとの若者ですよね。この世代はサブカルチャー的には『エヴァンゲリオン』を中学生や高校生で見ていた世代なんだけど、彼らはぼくたちとは違うテイストを持っているように思う。世代としてのまとまりが、七〇年近辺生まれの世代よりもむしろ強いと感じる。『エヴァンゲリオン』の影響は意外と大きくて、ちょうど同じ時期に少年犯罪や少女買春についての過剰な物語を押しつけられた世代ですから、けっこうみんな「キレる自分」「アダルトチルドレンな自分」を引き受けていて、たがいに似ているんですよ。その点、ぼくたちの世代はあまりそういう括られ方もされていないですからね。「団塊ジュニア」くらいですか?(48〜49ページ)

東さんの指す「若者」とは、1982年生まれの私の世代である。この分析は私にぴったり当てはまる部分がある。「ロスジェネ世代」と銘打つことでやっと自分たちの世代を可視化できた、直近の世代とは違い、私は暗黙裡に特定された「私たちの世代」を語れてしまう。これは上の世代から見ると、単純化され知性に欠ける「無防備なまとまり感覚」なのかもしれない。良きにせよ、悪きにせよ、そうした感性を持つということである。世代感覚を持つ強みは、具体的な「自分たちの母や父と自分」の介護ではなく、高齢者を「世代的なまとまり」として対象化し、抽象的な「彼らと私たち」の介護について思考できることである。これは個人の問題ではなく、社会の問題として介護を論じやすいということだ。
 むろん、上野さんの世代とロスジェネ世代、ひいては私の世代が連帯することは重要であろう。しかし、肝心の自らが煽りたててきた「母の娘」たちを中抜けにした連帯でよいのだろうか。「彼女たちをどうするのですか?」とさらに、「母の娘の娘」役割を遂行中の私は思うわけである。
 さて、世代間連帯の話題を離れ、上野さんの「おひとりさまの老後」について、もう少し考えておきたい。団塊世代たちの女性は、老後に不安を持っている。金銭的な不安ももちろんあるだろうし、誰に頼ればいいのか、という心理的な不安もあるだろう。だが、一番の不安は、老後生活に明るいビジョンを描けないことだろう。彼女たちは、実は介護においてババを引いてきている。彼女たちの多くは、自分の母や義母を介護しているとき、介護保険がなかったため、非常に苦労をした。介護サービスも充実しておらず、介護施設も家族として見るに堪えないものが多かった。だが、同時に、介護施設に預けることに対して「姥捨て山」であるという批判もあり、葛藤を抱えた。「十分に介護してあげられなかったことへの悔い」を背負う女性たちは、少なくないはずだ。*2
 上野さんは、「今はもっと良い介護サービスがある」と言うことで、この介護の歴史を乗り越えようとする。そして、もっと安く、もっと被介護者の尊厳を保てるように、消費者としてサービスの洗練を求めていくことが重要だとする。だが、彼女たちは見てきたはずだ、母や義母の姿を。彼らの記憶を、「ああ、時代が変わってよかった」と。拭い去っていくことはできるのだろうか。自分の娘に愛による無償労働をさせるのではなく、他人の娘*3に金を払って介護労働させる。どちらも金と権力で若者を買うのだが、他人同士の方が売買契約はスムーズだ。そもそも資本主義社会では、誰かが誰かを買うことを是認しているのだから、介護だけを聖域化するわけにもいくまい。コストダウンをはかって、移民労働者の受け入れも始まった。こうした消費至上主義社会を描くことで、「自分はお金があるから大丈夫」と言い聞かせながら老いていく。これが、上野さんの描く、幸せな、豊かな老後なのだろうか。
 両親の老後について、不安を口にしたとき、介護労働者の友人が私に言った。「いざとなったら、介護者を集めて無償介護やったらええ。そうして生き延びてきた人はちゃんとおる」もちろん、無償介護のほうが、有償介護より尊いと言うつもりはまったくない。介護者には、もっともっと賃金が払われるべきであり、感情労働についても評価されるべきだ。その上で、考えたい。介護にまつわる人間のエロスとタナトスを無視して、老いて死にゆくことなど考えられるのだろうか。

*1:東さんの下の本は南京大虐殺云々で非常に叩かれたけど、「うはっ、このときこんなこともう言ってんのね」というくらい東さんの時評の読みが鋭い部分も散見されます

*2:この点について、2年ほど前に書いたことがあるhttp://d.hatena.ne.jp/font-da/20070407/1175955958

*3:介護労働者は圧倒的に女性が多い