生死を考える際、個別/普遍の連関をどう思考するか

 下の記事id:mojimojiさんからお返事をいただいた。
mojimoji「個別的/具体的な思考が抽象的思考を支える
以下の部分を取り上げる。

 もう一つ言っておきますと、ここでの「抽象的な」あるいは「普遍的な」意味での「殺すな」は、どのようにして出てきたのか。個別的な状況に対して「殺すな」を言おうとする衝動に駆られるからこそ、それを可能にする普遍的な概念を探すわけで、そうして辿り着くのが「普遍的な「殺すな」」ということだと思います。ですから、僕にとっては、まず最初にあるのは、どうしたって個別的な状況の問題です。

 実は、mojimojiさんとは、一年半くらい前から「承認」について議論をしている。*1いまだ決着はついてない*2のだが、面白いことにこの議論の私とmojimojiさんの立ち位置と、今回の議論の立ち位置が逆転している。「承認の議論」については、私は具体的な承認抜きには、抽象的な承認は構想できないとしている。mojimojiさんは、具体的な承認抜きに、抽象的な承認を創造することはできないのか、と問いを立てている。
 上の承認の議論で扱っているのは「生」の問題である。私たちは、いかに「生きていける」と思えるのかという、「生の希望」への問いだ。逆に、今回の議論で扱っているのは「死」の問題だ。

 mojimojiさんは次のように言う。

 「人」という概念だってそうです。具体的なAさん、Bさん、Cさんたちがいて、それらの誰をも「殺すな」と思うから、AさんもBさんもCさんも含むような概念が作られて、「人」と名付けられる。元々、そんな風にしてできているものだと思います。存在は言語より先にある、世界3より先に世界1がある、ということです。

mojimojiさんは、「殺すな」と思うものたちの集合を「人」と名付けることにより、「人」という概念が作られるという。私の念頭にあるのは、「殺すな」と思えないものたちの存在である。すなわち「人とは思えない」ものたちである。
 たとえば、ナチスの残虐行為に対して「人とは思えない」と言い方がなされる。また、アガンべンは、ナチスに捉えられ虐待される中で、<回教徒>と呼ばれていた人たちもまた、「ひとではないものたち」である、と収容所内の人びとに認識されていたことを明らかにしている。また、まったく別の文脈だが森岡正博は「脳死の人」の中で、脳死状態に陥った人や母体外に出た胎児を「ひとでなし」とやや挑発的に書いている。

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

脳死の人―生命学の視点から

脳死の人―生命学の視点から

これらは、「ひと/ひとでないもの」の線引きをどこにするのか、という問いを突きつける。私たちは、あるものたちに対して「ひとでないもの」と認識するが、それは本質的なものではなく、構築的な文化の産物である。「人」という概念は、あやふやで曖昧で、線引きし直すことのできるものだ。
 当然、人は「誰をも「殺すな」と思う」、という定義もありえない。あるイスラエル人は、パレスチナ人に対して「殺すな」とは思わないかもしれない。なぜなら、そのイスラエル人は、パレスチナ人を「ひとでないもの」と認識しているからだ。そのとき、そのイスラエル人はパレスチナ人を「ひとでないものだから殺してよい」と言い、そんなことができるイスラエル人に第三者は、「おまえこそがひとではない」と言えるかもしれない。
 そもそも、なぜ私たちは「殺すな」と思うのだろうか。私にはこれも問いである。私たちは、人を殺すことができる。その可能性を持って生まれてくる。なのに、なぜその可能性を自ら封じようとするのか。かつて「なぜ人を殺してはならないのか?」という問いが流行ったことがある。では、「なぜ私は人を殺さないのか?」根源的な理由はないだろう。なぜか、「殺すな」という命令が生きている。
 逆に、なぜ私たちは「殺せ」と思うのだろうか。これもよく考えてみるとわからない。例えば、復讐の問題がある。自分の子ども殺された人が、「犯人を殺したい」「死刑にして殺してくれ」ということがある。それに対して「殺しても何にもならない」という人がいる。これは、合理的に考えれば正しい。犯人を殺しても自分の子どもは帰ってこない。また、犯人が、自分の子どもを殺されたときと同じくらい痛みを感じる、というのは犯人の感受性を信頼しすぎていないだろうか。しかし、このようなことを言うのはナンセンスであろう。これらのロジックが、復讐を望む人の切実さを減じることはない。
 なんにせよ、私たちにとって「殺せ/殺すな」という問題は重要であるだろう。それは、私の直観では「死の恐怖」に関連している。私たちが「殺せ/殺すな」と言ったとき、そこに託されているのは、生物としての活動を停止させることではなく、「死の恐怖を味わうこと」ではないか。つまり、私たちが人間の本質として先じて持つのは「死の恐怖」であり、それを共有できるものに対して初めて「殺せ/殺すな」と思うのでないか。そうであれば、私たちがなぜか、魚を殺すことよりも犬を殺すことに対して、大きな忌避感を持つのか、というような問題にもつなげて考えていけるのではないか。*3

 なんにせよ、「生の希望」について議論したときと、「死の恐怖」について議論したときで、私とmojimojiさんの立場が入れ替わるのが興味深い。二つの問いは「生死の問題」として括られるが、「個別/普遍」の連関の問題について、決定的な違いを持つのかもしれない。面白かった。

 ほかにも、mojimojiさんに聞いてみたいことはいろいろある。たとえば、補足(1)の同胞について。上に挙げたような、「ひとでない」と思うようなものと連帯はできないのだろうか。もしくは、アニマルライツの問題はどうなるのだろう?(2)にも関連していて、動物は不正な扱いに対して「不正義である」という異議申し立てができない。つまりmojimojiさんにとっての正義は「批判可能なものたちの正義」であり、声をあげられないものたちが疎外される正義ではないのか。要するに、ハーバーマスが陥った「議論不可能性」の問題にどう対処するのか、など。
 と、このようにいろいろ書いたけれど、mojimojiさんの主張の大枠は理解できたように思うので、私の方はいったん筆を置こうと思います。上の疑問も今後の課題、ということで。レスポンスありがとうございました。

*1:発端のエントリはこちら→http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20071119/p1 続きは、http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20071128/p1http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071201など

*2:てういか、たぶん、永遠につかない

*3:これ、全然自分で何言ってるのかわかんないんだけど「存在が消えたあと、その存在の味わった死の恐怖は残るのか?」っていうことが知りたい。いや、結論だけ言えば、恐怖の痕跡は残るが、恐怖それ自体は残らないんだよね。だから、復讐って、彼が死の恐怖を味わう場に立ち会い、自分の中にその痕跡を残すことを求めるって感じになるのかなあ。