ラズロ・テンゲィ"L’experience de distance et la memoire historique"(「隔たりの経験と歴史的記憶」)

 ラズロ・テンゲィの"L’experience de distance et la memoire historique"(「隔たりの経験と歴史的記憶」)という講演会に行ってきた。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/clph/090307.pdf
webで公開されているチラシをみて行ったのだけれど、案の定、ほぼ全員スーツで参加していた。*1リクールを取り上げた講演で、歴史や記憶についての議論がなされた。学術的な講演だったので、歴史記述についての議論の変遷や、現象学における過去の扱い方についても述べられていたのだが、ざっくりカットして、私の興味があった部分のみを、メモ代わりに上げておく。*2
 テンゲィさんは、「隔たりの経験」について繰り返し言及する。「隔たりの経験」とは、過去と現在を切り離すことである。要するには、「過去、…であった。しかし、今は…ではない」と、「…」が過去であることを認識することだ。この経験により、私たちは「過去の過去性」を掬いあげることができる。
 私たちは、過去を振り返る時に、記憶を再構築する。そのとき、記憶は選択され、筋を通される。その筋とは、狭義の「物語」には限らず、なんらかの枠組みでもありうる。そのため、常に既に過去は物語性を孕んでしまう。だからといって、「すべては物語だ」と言うのではない。少なくとも、その過去が過去であること(過去の過去性)だけは実在する。つまり、過去と距離(distance)をとり、現在と切断することが、「隔たりの経験」である。この経験がもたらす効果を、テンゲィさんは「疎隔化」と呼ぶ。
 このような経験を持つ私たちは、記憶から歴史(集団的記憶)をいかに構築するのか。歴史的過去を現在から切断し、疎隔化するのは、歴史(学)的認識である。テンゲィさんは以下のようにまとめる。

(前略)リクールの考えでは、歴史(学)的認識を記憶の達成物をたんに拡大延長したものとみなすことはできない。歴史(学)的認識の過去への関わりは、記憶のそれとは異なっている。歴史(学)的認識は、過去を目覚めさせ、表象=再現前し、喚起し、再現するのではなく、むしろ過去を再構築する。実際、リクールによれば、歴史(学)的認識とは「過去の真なる再構築」と規定してよいものなのである。*3

すなわち、記憶が歴史(学)的認識になるのではない。歴史(学)的認識と記憶の間には、断絶がある。これが、歴史(学)的認識がもたらす、疎隔化である。だが、ここで過去の過去性を担保するのは、記憶である。記憶が根を下ろすことで、過去の実在性が認められ、過去が過去であるとされるのだ。
 さらに、記憶は遡及作用的に影響を及ぼすことができる。「起こったことは廃することはできないが、起こったことの意味は一度で決定されるわけではない」*4。それは、理論的解釈の多様性だけを指すものではない。「道徳的重み」も視野に入れられている。その理由が述べられているので、引用する。

なぜなら、過去への関わりとは、つねに昨日の死者たちへの負債という関係だからである。この負債の関係さえも、全く変化しえないものではない。記憶の遡及作用力によって、その意味が変様することがありうるからである。はたして負債の関係には「取消不可能という痛ましい感情」が結び付いているのか、それとも赦しによってこの関係に何らかの贖いへの視野が開かれるのか。そのどちらであるかに全ては掛かっている。記憶の作業はこの意味において主たる役割を果たす。なぜなら、赦しが遡及作用的な影響を行使できるのは、過去の記憶を変形することによってだからである。*5

このように、「赦し」をもたらすために、記憶の遡及的作用は必要だとされている。*6こうして、記憶は「生きた歴史経験」をもたらし、未来投企へと結び付けられるという。
 歴史記述が行われるとき、記憶は個人の生きた経験から切断される。そして、歴史的な意識へと展開される。重要なのは、この展開の行為である。記憶に触発され、過去に対し働きかける個人の行為が、「生きた歴史経験」を生じさせる。こうした行為を果たすのは、歴史家でも歴史哲学者でもなく、市民である。市民は、「果たされなかった約束」すなわち「死者たちをかつて動かしていたもの」を目覚めさせ、活性化させる。テンゲィさんの講演は次のように結ばれる。

 このような過程において生きた経験に与えられた役割は、過去の出来事の筋立てを、物語的統合形象化を、要するに歴史物語をつねに生じさせる。なぜなら、現在を過去から引き離すと同時に、未来へと位置づける隔たりの経験は、つねに物語においてこそ、それに最もふさわしい表現を見出すからである。ただし、今後主題となるのは、疎隔化の機能を満たしうるものであるような物語である。そのような物語のみが、隔たりの真の経験を表現できるからである。*7

 この後、質疑応答が行われたが、活発にフロアからも質問が出た。そこで、なぜ、隔たりの経験が必要なのかについて、テンゲィさんは補足している。全体主義は、集団全体を引っ張る装置として、自らの政治的な主張を正当化する歴史物語や神話を必要とする。神話が動員されるとき、歴史の現世化が欲される。こうして、過去が現在に取り憑き、神話的過去を現在に実現させるストラテジーが展開される。しかし、隔たりの経験は、現在と過去を切断する。神話の現世化に抵抗するのだ。例としては、東ヨーロッパがあげられた。かつて、マルクスに関する文脈による解釈は潰されていた。たとえば、レーヴィットキルケゴールマルクスを結びつけたために、また、ルカーチハイデガーマルクスを結びつけたために、潰された。そういう意味で、歴史的に位置づける(隔たりを持たせること)は、全体主義への抵抗になりえるのではないか、ということだった。
 さらに、市民の間で「共通の物語」を持つ、ということは可能なのか、という質問がでた。テンゲィさんは、様々な物語の対立は、観念やイデオロギーより、もっと深い所に根ざしているという。それは、世界経験は還元できない、ということである。歴史学の客観性は、専門家集団で作られた「ある一つの」枠組みである。それはとても重要な枠組みである。しかし、様々な世界経験に根ざしているため、共通の物語はありえない。そこで、民主主義が必要となる。たとえば、現在のドイツでは、歴史的客観性がありつつ、イデオロギー的な歴史もあり、こうした歴史も必要とされることになるだろう、と述べられた。

 以上、私のメモに基づく、簡単なまとめである。全然関係ないけど、テンゲィさんのフランス語で行われた講演は、聞いてて寝そうになるくらい、優雅で美しかった。フランス語できない私でも、うっとり聞き惚れた。ちなみに、テンゲィさんは、昨日は英語で講演して、明日はドイツ語で講演だそうです……。

*1:私もスーツ着て行ってきたよ

*2:ていうか、たぶん、報告集が出るだろうから、ほんまに興味ある人は、そっち読んでくださいね。リクール読んでないし、全然まとめる自信ない。

*3:引用元は配られた邦訳レジュメ11ページ、訳は杉村靖彦、傍点は略した

*4:同上

*5:同上

*6:メモとして書き加えておけば、リクールの赦し論は、デリダの赦し論と大きく異なるのだろう。デリダは、記憶の変形がおきた時点で、「それは赦しではない」とする。負債が負債であり続けるからこそ、赦すのだ。また、赦しは独異な存在として行われるため、個人の赦しが集団の赦しには結びつくことはない。

*7:レジュメ、12ページ