近況

 先日、ベルギーも含めた低地地方で大規模な洪水が起きたため、知人・友人から安否を気遣うメールをいただきました。幸い、私の住んでいる地域は目立った被害はなく、今日は空も晴れており、いつもどおりの生活を続けています。

 大雨が降った時期は、私はちょうどスペイン北部のバスク地方に住むLaÿna Drozさんを訪ねていました。今月末に開催予定のオンラインワークショップや、ほかの研究プロジェクトについて対面で打ち合わせをするためです。私たちは、facebookメッセンジャーなどでこまめに連絡はとっていますが、やはり会って話すとぐっと踏み込んだ内容を議論できてよかったです。Laÿnaさんとは日本で知り合ったのですが、私がヨーロッパに移ったことで共通の話題も増えて話は尽きませんでした。

 また、せっかくのバスク訪問に合わせて、出版されたばかりのフェルナンド・アラムブル『祖国』(河出書房新社、2021年)の日本語版を入手しました。旅のあいだも読んでいたのですが、どんどん物語世界と風景が重なっていき、酩酊感がありました。 

  「政治的目的による殺害」の当事者である、被害者家族と加害者家族の9人の人生がタベストリーのように織り込まれて展開されていきます。「謝罪と赦し」がテーマになるのでしょうが、必ずしもそこだけに焦点を当てる必要はないと思います。私は下巻の160ページから始まる「92 最愛の息子」の節が一番心に残りました。自分が、なぜ「修復的正義」を研究し続けてきたのかを思い出すような一節でした。被害者・被害者家族が抱く「Why me?(なぜ私?)」の問いと真実を求める切実な声、それに応えられるのは加害者本人だけであること。その一点が、私が修復的正義にこだわる理由です。加害者の言葉の多くは薄っぺらく、被害者・被害者家族の苦悩と比べるとあまりにも軽い。にもかかわらず、その言葉を被害者・被害者家族が求めることがあります。それは第三者の立ち入れない世界です。さらに、そこでは被害者家族・加害者家族の内部も引き裂かれます。「誰も取り返せない過去」と向き合うときに起きる、関係の修復と断絶の繰り返しが、修復的正義のプロセスにはあります。

 修復的正義で重視されるのは、結果ではなくプロセスです。和解や相互理解は、「あっても良いもの」であれど、そこに向かって努力する必要はありません。ひとりひとりが、答えを出していくプロセスがあり、それを見守る人々がいること。そして、忘れられていた過去がもう一度日の当たる場所に晒され、再検討され、関係者によって倉庫の中に整理され、しまわれていくこと。私にとって修復的正義はそういう虫干しのようなプロセスです。傷は無くならないし、癒されない。でも、前よりもよい方法で保存し直されます。

 おそらく、この小説には反発や批判もあると思います。私も、この小説の政治的効果をもったり、誰かを追い詰める可能性があると考えながら読みました。それでも、読む人の心を動かし、前に考えていたことを別のことに変えてしまうような、文学の力をもった作品だと思います。たとえばホシェマリは、私が若いときに出会った男性活動家と似ていて、物語の前半では嫌悪感がありました。ところが、後半では、私は自分の内部に彼との共通点を探そうとしていました。この私の変化は、微細な人間の心の機微を描き出す作者の文章の力によるものだと思います。

 ひとつだけ残念なのは、訳者の「あとがき」です。訳者の解説はバスクの歴史を踏まえ、簡潔で明確でとても優れています。しかしながら、訳者は「”祖国”とは自分の帰る場所、自分の言語なのだろう。バスク人にとっての「くに」は母国語バスク語であり、私たち日本人にとっての日本語だ (373)」と書いています。この二行を読んだとき、私は日本という国の現実に引き戻された気がしました。日本は、日本語を植民地に押し付け、かれらの言葉を奪ってきました。「バスク人」は言葉を奪われた側ですが、「日本人」は言葉を奪った側です。また「日本語」を使う人は「日本人」だけではありません。それを「私たち日本人」と括ってしまうことは、そうではない人の存在を無視することになります。こうした二行が、優れた『祖国』という作品の最後に書かれてしまうことこそが、日本の民族主義・排外主義と暴力性の象徴のように、私には思われました。もちろん、この二行があることは、訳者の翻訳の労や作品の質をなんら毀損するものではありません。しかしながら、この二行は本当に残念でした。