近況
今年のベルギーは、直近の200年で一番雨が多いとも言われるという悪天候続きでした。何度も水害が多発し、夏なのに雨が多く、太陽が恋しい夏でした。そうはいうものの、ベルギー国内の各都市を訪問して、楽しい時間を過ごしました。
ベルギーはワクチン接種が順調に進んだこともあり、すっかりバカンスムードでした。イタリアやギリシャに遊びに行った人も多かったようです。カフェやレストランもオープンし、街のあちこちで賑やかな歓声が沸いていました。まだまだ、先のことはわからないですが、私もしばらく開放的な気分にひたれたのはよかったです。(日本の現状を聞くと、つらい気持ちにはなりますが……)
こちらの友人と、ベルギー西部のイーペルにあるフランダース・フィールズ博物館を訪問し、第一次世界大戦についての展示を観覧しました。イーペルは、世界で初めて毒ガス兵器が使用された土地です。多くの兵士たちが亡くなったり、失明したりしました。展示は5年前にリニューアルされ、個人の記憶に焦点を当て、プロの俳優が兵士や周辺地域の住民の手記を読み上げ、証言を伝える動画がいくつも流されていました。
私は数年前から、ヨーロッパで第一次世界大戦についての博物館や史跡をめぐっています。第一次世界大戦は、100年が経過し、体験者はみな亡くなっています。「当事者」がいなくなったあと、かれらの声をどうやって伝えるべきかのかを学びたいと思っています。
私は、戦争、犯罪、公害などの被害・加害関係に焦点を当てて研究をしていますが、「時間」というのはとても重要な要素です。深いトラウマを残すような記憶は、時が経てば忘れるものではありません。それと同時に、記憶は個人のなかで形を変えていきます。単純に「和解」や「赦し」に至るわけではありません。個人の中で、「その時の記憶」に加えて、「覚えているとはどういうことか」「忘れていくとはどういうことか」の哲学的な観想が醸成されていくことも少なくないのです。人は生きていくなかで変わっていきます。それに寄り添いながら、どうやって記憶の伝承を続けていくのか。そのことが、今の私の大きな研究テーマでもあります。
そんなふうに考えていると、アフガニスタンで大きな政変がありました。私は大学院の修士課程では中東についての研究者が多いコースにいたのもあり、9.11以降の20年後の出来事に打ちのめされました。私自身は、2001年の時点で、アフガニスタン空爆には反対の立場でした。当時は議論や活動をする仲間もおらず、一人でチョムスキーの映画を観に行ったりしました。大学院では、当時の政権とタリバンとの対話の試みについても学びました。アフガニスタンで活動されていた中村哲さんの講演を聞きにいき、感銘を受けたこともあります。私は決して、アフガニスタンの問題に真剣に取り組んできたとは言えないのですが、いくつもの出来事の記憶が重なり、ただ苦しい気持ちになりました。これから、タリバン政権の造っていく国が、アフガニスタンに住む人々にとってより良いものであることを祈ります。
同時に、いま、ヨーロッパにいることに対して、苦しい気持ちにもなります。声高に「女性の権利」や「難民支援」が叫ばれていますが、NATOの空爆により、アフガニスタンの街は破壊され、人々の貧困は深刻なものになりました。私自身は、ヨーロッパの滞在で、自由や民主主義、福祉や教育を享受しています。でも、それは私が、日本国籍をもち、この価値観に追随しているから与えられた環境です。ゲーティッドコミュニティのように、線引きされた特権的な社会にいるにすぎません。私はタリバンが素晴らしいと言うつもりはありませんが、空爆から始まった破壊と暴力の20年間を、すべてタリバンの責任に帰することはできないと考えています。何十にも積み重なったアフガニスタンの苦難の歴史と、そこを生き抜いてきた人々の知恵に敬意を払いたいと思っています。
なんにせよ、私はいつも、一つの感情や論理で、なにごとかを見ることはできないですし、断片的に考えていることを、いずれ統合していきたいです。
秋以降は、英語論文を2本、書くつもりです。今年も科研費に応募する予定です。二度連続で落ちているので、今度は通したいと思っています。私は学振PDも何度も落ちて、ラストチャンスでようやく採用されました。最終的に通れば、それまで落ちたことはノーカンですから、気にせずどんどん出すことにしています。初めて、学振DCに応募して落ちた時にはショックを受けましたが、そのときに先輩に「落ちることに慣れますから」と言われたことを思い出します。就職にせよ、科研費にせよ、民間予算にせよ、落選通知を貰い続ける人生ですが、めげずに出していこうと思っています。