個別的に「人を殺すこと」を思考することは可能か

 id:mojimojiさんから、「「殺すな!」の空虚さについて」へのお返事をいただいた。
mojimoji「「殺さないでくれ」の意味」

 後半部分から読んでいく。

 ちなみに、「イスラエル人が殺されることを、同胞が殺されることとみなしている」は、まちがってはいません。ただ、正確に言えば、「同胞が殺されている」のみならず、「同胞が殺している」ということでもあります。ハマスのロケットについても、イスラエル空爆についても、です。同一化については、同一化という言葉が何を意味しているか正確にはわかりかねますが、少なくとも言えることは、仮にイスラエル人との同一化が僕にあるとすれば、同じくらいにはパレスチナ人との同一化もあるであろう、ということです。

mojimojiさんが、イスラエルを同胞とみなすならば、二つの問いがある。
(1)私たちはイスラエルの何を知っているのか?
 私はイスラエルの人々の、パレスチナ人への(外部からは不可解にみえるほどの)恐怖も、殺人者と世界から名指される国の国民であることの屈折も、懲役義務があり自らの手でパレスチナ人を抑圧することの罪も、知らない。私は、パレスチナについて誰かに問われても、平静でいることができる。
 北原みのりは、エッセイで次のような体験をつづっている。北原さんは、道端でアクセサリーを売るイスラエル人と知り合いになったことがある。

その彼と一度だけ、パレスチナの話をしたことがある。というか、彼がぶち切れた、というのが正しい。エルサレムって誰のものさ、みたいなことを気軽に話したつもりが、それはもちろん彼にとっては気軽な話ではなく、いきなり大声でまくしたてられた。
「わからないくせに、話すな! 誰がどう間違っているかというのは、火を見るより明らかな話だ!」
兵役直後で洗脳されているのかな、なんて風に当時は考えたものだが、それ以来、その話は絶対にしなかった。そもそも「兵役」という言葉すら私にはあまりにも遠い世界で、リアリティがなさすぎた。タイで2、300円で買ってきたリングを5000円で売る生活の方が、まだ、理解ができた。
(http://www.lovepiececlub.com/kitahara/2009/01/nobody-is-right.html)

国際政治上では、彼らと私たちは同じ過ちを犯す同胞かもしれない。しかし、彼らと私たちは同じ延長線上にはないのではないか。
(2)それは中立ではないのか?
イスラエル人に同一化しつつ、パレスチナ人に同一化することと、「中立であること」はどう違うのか。

 この(2)の問いを敷衍して、前半を読む。
 mojimojiさんの主張はこういうことだろうか。本来ならば、イスラエルに「(パレスチナ人を)殺すな!」と命令し従わせた上で、ハマスに「(イスラエル人を)殺すな!」と命令するべきである。しかし、現時点で前者が履行できていない以上、ハマスに「(イスラエル人を)殺すな!」とは言えず、「殺さないでくれ」としか言えない。しかし、これでmojimojiさんの言う、パレスチナ人に同一化しているのと同じくらい、イスラエル人に同一化することは果たされていると言えるのだろうか。
 同一化することが可能である、という仮定をはずして、この問題を考えてみるとしよう。あらゆる暴力において、100パーセントの被害者も、100パーセントの加害者もいない。そこには圧倒的な権力関係があるにせよ、暴力と言う出来事には、必ず入り組んだ人間の営みがある。権力の強いものが殺すにせよ、弱いものが殺すにせよ、その暴力の当事者しか知りえない経験である。殺す人と殺される人には、両者にしか共有されない瞬間がある。その意味で、第三者はどこまでも第三者である。だからこそ、第三者には「どっちが悪いのかわからない」などと言うことは許されない。可視化された権力関係を読み解き批判しながら、両者に向けて「殺すな!」としか言いようがない。
 しかし、mojimojiさんは、第三者としてではなく、当事者に同一化した形でこの問題を考えている。mojimojiさんは、イスラエル人としてパレスチナ人を殺すことと、パレスチナ人としてイスラエル人を殺すことを、別のこととしてとらえる。このときmojimojiさんは「人を殺すこと」をどうその身に引き受けるのだろうか。すなわち「人を殺すこと」について、どうやって個別性を持たせるのか――私はある人を殺すときと、別の人を殺すとき、その行為をいかに峻別するだろうか。

 以上を踏まえると、思考を進めるときに、「人を殺すこ」とに個別性を持たせること自体、倫理的に、問わねばならないのではないか。つまり、今まさに私が目の前の人を殺すその瞬間以外に、個別的に「人を殺すこと」を思考することは可能なのか。やはり、それは想像の産物でしかならず、抽象的な「人を殺すこと」でしかありえないのではないか。だからこそ、始点に戻るが、抽象的な「人を殺すこと」には抽象的な「殺すな!」という言葉しか差し返せないように思う。