個人として、でいいのか?
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/03/10
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僕らの年代は六十前後になりました。そろそろ定年退職する年齢だし、会社を離れ、ひとりになって考え直すにはいい時期じゃないかと思います。転換期というか、もう一度それぞれのかたちで理想主義みたいなものを取り戻す道を模索するべきなのかもしれません。僕自身も、漠然とではあるけれど、まわりを見渡してそういうことを感じています。そういう責務があるのではないかと。
(168ページ)
それは結構なことだと思う。*1責務を感じるだけではなく、実際にぜひ何か行動に移して欲しい。若者に対して説教するのではなく、自らが転向したところから問い直すといいんじゃないだろうか。
それはともかくとして、私は春樹さんの今回の件でネットで起きたことについての指摘は、少し的外れだったように思う。「個人/集団」の連関についてはもう少し言えることがあるだろう。
一時期流行った、「自分から出発する」というのは耳触りのいい言葉だ。しかし、それを突き詰めていったところには、「自分探し」や「自己責任」というナルシシスティックな自己への閉じこもりがあるのではないか。自分を批判するにも、他人を批判するにも、自分から離れられない。他人と何かを共有する普遍的な思考へと結びつかない。「私は私、あなたはあなた」という言い回しで批判を避け、他人と自分を切断しようとする。
その結果、「私の考え」をどんどん深めていくのだけれど、誰にも傷つけられない秘密の宝物として、胸にしまってしまうのだ。そして、この宝物を肯定してくれる人と共感し合うことだけが、「繋がり合い」である。つまり、絶対的な「私の考え」を、他人が肯定してくれることだけが、「個人と個人の繋がり」になってしまう。そのとき、他人と自分の間の違いは無視され、まるで「私とあなたは一体である」かのような幻想が生まれる。そして、そのような他人が居るということは奇跡であり、いつかそうした人と巡り合えるのを待っている。こうして、他人が自分との違いを主張すれば退け、共通点を主張すれば受け容れる。自分と同じであることが、集団化することの条件なのである。
同じ集団主義でありながら、これは春樹さんが批判するような、学生運動のような原理に盲従する集団とは全く違う形での繋がり合いだ。洗脳すべき教義も、掲げるべき理想もない。そこには、正義はなく、甘い思考停止がある。また、前近代的な村意識とも少し違うだろう。先行して集団があり、そこに所属しているから繋がり合うのでもない。個人はそれぞれに孤立し、帰属すべきとされる集団からの疎外感を持っていながら、突然、ある契機を持ってある個人と個人が密着し、一体化した集団となる。
これは、インターネット上の繋がりに似ているかもしれない。気に入らない意見は、ブラウザ操作で、あっという間に目の届かないところにやることができる。かと思えば、気に入った意見は繰り返し同じメンバーで共有していることを確かめることができる。もしくは、気に入らない意見を、同じメンバーで罵倒することもできる。メンバー同士は、個人でありながら、まるで深く繋がりあっているかのような幻想を味わうことができる。
もし、春樹さんが、ネット*2が集団化しているように見えたとすれば、上記のような繋がりで盛り上がっていたことが原因に思える。おそらく、一人ひとりは、別の考えを持っているだろう。自分から出発し、自分の考えを深めた結果、「イスラエルはよくない」と結論に達し、各々が春樹さんのスピーチの話題へと群がった。そして、同じ批判をしている人と<奇跡的であるかのように>出会い、集団化して盛り上がるのだ。もちろん、奇跡でも何でもない。論理的に考えると、たいてい「イスラエルはよくない」と結論に達するだろうし、そしてスピーチの件に一言言いたくなる。だが。そこに奇跡を感じてしまうのだ。普段、孤立しているから。
乱暴な言い方をしているし、春樹さんのスピーチに関して、お互いに批判がなかったと言いたいわけではない。むしろ、内部での議論は多かった。それでも、どうしてあんなに盛り上がったのか。はっきり言って、「村上春樹がエルサレムでスピーチをするかどうか」なんて全然たいした問題ではない。なのに、どうしてこんなに盛り上がったのか。また、私は春樹さんがネットについて言及するたびに、動揺する。たかだかネットである。烏合の衆である。なのに、有名作家の行動に影響を与えている。私はこれらのことに興味がある。
私は、いままで、ネットが社会を動かすというような論調は、引いて見ていた。しかし、もう少し考えなおさないといけない、とこの件では思った。個人から出発して繋がり合うような集団。その力で社会は良い方向に動くのだろうか。