田山絵里「飯島愛 孤独死の真相 〜プラトニック・セックスの果て〜」

 昨年、12月に急逝した飯島愛の追悼本が出版された。

飯島愛 孤独死の真相―プラトニック・セックスの果て

飯島愛 孤独死の真相―プラトニック・セックスの果て

その死の謎を追求したという触れ込みであり、さっそく書店で購入して読んだ。しかし、ひどい出来である。筆者は入手先も明らかにできないような断片的な情報つなぎ合わせ、ケータイ小説を模したような文体で、飯島さんの心情を代弁する。インスタントラーメンのような悲劇に練り上げ、最後には「純粋な愛さん」と飯島さんを持ち上げ、「彼女は天使になった」と結ぶ。*1筆者は最後に次のようにまとめる。

 振り返ると、飯島愛は何度かブログをやめる宣言をしたが、そのたびに彼女の誕生日である10月31日をきっかけに復活した。誕生は彼女にとって特別な日になっていた。
 どんなに困難な局面があっても、誕生を迎えるたびに、心にやすらぎを得ることができ、自分と両親のつながりを感じ、生きる原動力にしていたのだろう。彼女は本当に大事に育てられ、ご両親のことを愛した女性だった。
≪あのね、大切な人達&アタシのお誕生日なの。お父さんお母さんありがとう。みんなありがとう。色々あるけど、生まれてきて良かったよー。(2008年ん10月30日22時50分35秒)≫
(234〜235ページ)

このような家族物語への回収には、文脈があるだろう。飯島さんは、自伝の「プラトニック・セックス」で父親から激しい肉体的暴力を受けていることを綴っている。そして、その著作の中では、両親との和解が示唆され、ハッピーエンドの家庭劇が描かれている。エンドページには「パパ、ママ。こんな娘でごめんね」(文庫版、319ページ)と書かれている。

PLATONIC SEX (小学館文庫)

PLATONIC SEX (小学館文庫)

このラストについて、文庫版では二人の解説者が正反対に解釈している。まず、香山リカの解説を見てみよう。

(前略)著者の文体はテレビの語り口調そのものにあっけらかんとしており、この手の手記にありがちな浪花節的な”人間賛歌”とは無縁のテイスト。さらには、「恩師との出会いが私を変えた」「母親と抱き合って号泣」といった予定調和的なハッピーエンドも用意されていない。家族とのわだかまりこそなくなるものの、ラストのページに至っても筆者は言う。「セックスしているときだけがかぎりなくひとつになれる気がする。」
 しかしこうして表面的でともすれば安っぽい“感動”を描かなかった分、本書はある大きなものを獲得するのに成功している。
 それは、強烈すぎるほどのリアリティーだ。(後略)
(332ページ)

次に、大岡玲の解説である。

 物語の終盤、有名になった”不良少女”は両親と和解する。深く深く傷ついていたはずの彼女の心は、少なくともこの物語の中ではあっけないほど簡単に癒されてる。
(略)
 つまり、飯島愛へと変身した不良少女は、許し許されることで大人になり、魂の遍歴は幸せの港にたどりついたのだ。幸せな大団円。
(略)
 著者個人にとっては、幸せな結末は望ましいものだろう。大多数の読者にとっても救われた感覚をもたらすかもしれない。が、このハッピーエンドの細部には、まだ解決していない、というか、たぶん永遠に解決されえないいくつもの違和の芽がひそんでいる。
(326〜327ページ)

この後、大岡さんは、もし違和の芽を開花させることができれば、飯島さんが作家へと大成するかもしれない、と続けている。
 二人の解説者は、「プラトニック・セックス」がハッピーエンドであったかどうかという認識に違いがある。しかし、最終的には、家族物語に回収されないものを飯島さんが抱えていたことを指摘している。両解説者の解釈のように、私も「プラトニック・セックス」は殴られた子どもが、家を出て生き延びようとする物語として読んだ。こうした非行少年と呼ばれる子どもたちの中で、男子が暴力行為に加担していくのに比べて、女子は極端に性的行為に加担していきやすい。
 その中で、飯島さんは逆境をものともせず、芸能界で売れっ子になっていく。自らが性的な視線に晒される中で、その視線を操り、地位やお金に換えてきた。かつて、「娼婦/主婦」の対立軸があり日本の女性運動で繰り返し議論された。ウーマンリブで両者の間に引き裂かれる女の痛みが語られた。飯島さんは、もっと後の世代だ。娼婦と言うよりはセックスワーカー。「セックスが好き」「自由になりたい」という気持ちは、バブル経済の影響もあって、消費活動に結び付けられる。そして飯島さんは、肩肘張らない性的に解放された女性像になっていき、一般の女性からの支持も得る。しかし、不良時代、水商売時代、AV女優時代、芸能人時代、いったい彼女には何があったのだろう、と思う。
 私は、飯島さんが引退するにあたって組まれた、テレビの特集番組を観たことがある。あるタレントが「愛ちゃんは繊細だからテレビの世界で傷ついてしまったんだと思う。でも、いつでも芸能界に戻ってきたらいいんだよ」と語りかけると、飯島さんは泣きながら「私はそんな人間じゃない、もっとずるいことを考えていた……ごめんなさい」と謝っていた。スタジオはシーンとなり、語りかけていたタレントも戸惑っていた。私の中でも、強烈に印象に残っているが、彼女が何に対して謝っていたのかは、いまもわからない。
 飯島さんは「おかねが欲しい」「セックスしたい」「有名になりたい」「若くて美人でいたい」といった欲望を隠さなかった。その上で、「そんな欲望を追及しても幸せにはなれないんだよね」と言ってみせた。飯島さんは、ブログで繰り返し、コンドームの普及や性病予防を呼びかけていた。亡くなる寸前まで、コンドームを販売する会社の設立に奔走していた。「私はバカだったけど、みんなは賢くなってね」と、より若い人たちに語りかけた。
 飯島さんが亡くなったあと、あっという間に彼女は聖女化された。いつのまにやら、心優しく誰にでも馴染める気さくさと、人の苦しみに心を痛め、HIVの啓発活動を通して社会貢献する誠実さを併せ持っていたことになった。死者に鞭打つな、ということかもしれない。だが、あまりにもこの物語は説得力を欠いているのではないか。彼女を追い詰めたのは、暗躍する非合法組織だったのだろうか?彼女は、若いころの恋人の背中を追い求め、愛に生きたのだろうか?家族のもとへと帰り、癒されたのだろうか?そして天使になったのだろうか?もちろん、そうだったのかもしれない。だが、彼女が追いつめられていたとするならば、私たちはもっと簡単に思いつくことはないだろうか。
 たとえば、飯島さんのAV女優時代のポルノが流出し、無修正でインターネット上でまき散らされた問題がある。飯島さんは、無断配布した人を、提訴し損害賠償請求までしている。これは、マスコミのせいにもできない問題である。私も、彼女への罵倒を何度か目にした。それは、いわゆる売春婦差別であり、女性の肉体を揶揄するものだった。
 少なくとも、「愛ちゃん、ありがとう」と言うところではないように思う。もっとほかに考えるべきことはあるのではないか。飯島さんの死は、謎の死である。しかし、なんとなく私たちは、「彼女が謎の死を遂げること」自体は、謎であるようには思えない。「何かあったのだろう」と推測する。もちろん、闇の組織について調べるのもいいかもしれない。でも、もっと簡単に考えの糸口は見つかるように思う。たとえば、インターネット上のポルノや、ポルノに登場する女性に向けられる言葉を見れば。

*1:同じく有名セックスワーカーを取材し、ルポルタージュを書いている作品で、私が気に入っているのは加藤詩子「一条さゆりの真実」(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070715/1184430913