リンダ・ジンガロ「援助者の思想」

援助者の思想―境界の地に生き、権威に対抗する

援助者の思想―境界の地に生き、権威に対抗する

 腰が重くて、なかなか手に取れてなかったのだが、今日買ったら、やめられなくなって一気に読んでしまった。予想通り、「援助とは何か」「当事者が語ることとは何か」を正面から論じている。
 著者のリンダ・ジンガロは、「生きる勇気と癒す力」で、日本の性暴力業界でも有名な、サバイバー当事者のカウンセラーである。一部のサバイバー業界では、カリスマ的な人気を誇る。

生きる勇気と癒す力―性暴力の時代を生きる女性のためのガイドブック

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一方で、「抑圧された記憶の神話」などで、過去の性虐待経験をクライアントに誘導的に尋問し、「まるで、それがあったかのように思い込ませる」という偽記憶症候群が告発される状況が、アメリカに巻き起こる。そのとき、やり玉にあげられたカウンセラーの筆頭が、ジンガロでもある。

抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって

抑圧された記憶の神話―偽りの性的虐待の記憶をめぐって

ところが、この本の帯には、「援助の領域で必要とされるものを、もう”癒し”とは呼ばない」とある。ジンガロは、これまでの自己イメージを壊し、まったく別の内容の論文を記している。ジンガロは、質的調査としてインタビューを行っているのだが、その中で「例話」という方法を用いている。「ありそうなエピソード」について語り合う中で、自身の被害や抑圧の経験を開示することなく、「被害や抑圧の経験を知った後、生きてきたもの」として語ろうとしている。*1ジンガロがここに焦点を当てたのは、「語ることを依頼されたり、自分自身について語る責任があると思っている人が、社会問題に関連する本人のつらい体験を”語る”ことでどのような代償を支払わされるのか」(12ページ)という点が、これまでの議論で抜け落ちてきたからだという。
 とにかく走り読みをしたので、全体を批評したり要約することはできないが、とりわけ今、私の印象に残った箇所を抜き書きしておく。(訳がややわかりにくいようだ。日本で先行出版されているので、英語版は今のところ手に入らない。)

・ある問題の当事者でありながら、その問題の援助者になった人(境界に位置する援助者)に生じる困難について

 ”境界に位置する援助者”は援助者という社会の主流の一員としての資格を権威の基盤として持っているものの、そのアイデンティティと信用性は周縁化された集団の一員であるという本物さと深く結びついている。境界に位置する援助者は、社会の主流の人として”パス”することを選ばなければ、つらい選択を迫られる。つまり、語る状況、どのような”真理”を語るのか、どのような”語りの声”を用いるかについての選択をしなければならない。保険医療、社会福祉、カウンセリングにおける守秘義務のルールによって、公の場でクライアントの経験に”ついて語る”ことは許されない。その結果、援助者自身以外の個人を特定する周縁化について語れない。しかし同時に、援助者はクライアントに自己開示することを思いとどまらせるという職業倫理を持っている。また援助者自身の被害体験や抑圧の経験を公の場で開示することは、自分の専門資格への脅威んあることがある。少なくとも、援助者は自己開示することは、専門職として要求されるクライアントとの距離を侵害することを意味する。その中での自分の存在を表現し、過去の自分から今ここへ、どのようにたどり着いたかを説明しようとする中で、援助者は支配的な言説によって定められ、予め与えられた役割、英雄か被害者かという比喩に代表される単純化された役割の間にある空間にいなければならない。
(78ページ)

・「私たち」として語ることについて

 ”自分を実現する”語りの足場は、世界の中の各自の”かけがえのない”位置を表現するために私たちが用いる言葉と共に、自己開示により私たちが属していると表現することを選んだ集団との、そしてその集団についてのやりとりを経て共同で組み立てられる。この実演を受け止める文化的状況を私たちが選んでいる訳ではないが、”声をあげること”によってその状況との対話が始まり、影響を与えることになる。影響を与えるために、私たちは境界を越えて語る、主流社会の言葉で置き換えられた”翻訳されたアイデンティティ”を通して語ることを余儀なくされる。意図を持った表現として”私たちという言葉を用いることは、私たちの物語がやりとりを通じて作られることに目を向けさせ、私たちがお互いを認識する言葉に敬意を払う。そして、表現方法として”用いる”ことのできる用語や語りの流れを試し発展させる過程を一緒に経てきた他の語り手の仲間たちも存在することを認める簡略表現としての役割を果たす。”私たち”や、私たちの話を聞く人や、その中で表象される人たちに害をもたらさない語り方を一緒に探ってきた。
(略)
 ”私たち”の概念は、境界という空間に住まう人の集まりであり、知識を共有し、互いに責任を持ちあう集団でありながら、私たちはお互いの独特の差異を痛みを感じながら認識することで、集団性と個別性との微妙なバランスを取っている。このはかない集合性の表象は、周縁化が引き起こす私たちの社会的な不可視性の矛盾を超えるちょっとした橋渡しとしての役割を果たし、実際には不可能であっても私たちが望む集団に属している私であることの心地よさを表す。目的達成のために一体感を仮装する「戦略的本質主義」〔Young,1990〕やお互いにとって完全に透明な理想化された共同体を創造するのではなく、”私たち”という概念はベンハビブが「権利と資格からなる共同体に対して必要性と連帯からなる共同体の構想」〔Young,1990,p.230〕と名づける構想のために用いられる。この物語の”私たち”は、”私たちが誰であるのか”という概念の中にではなく、”私たちが知っていること”という中に生きている。物語に含まれる詳細は”私たちではないもの”を部分的に定義づけてくれる。そこでの「私たち」とは、自分のことを”他者”として理解する「私たち」である。この知識は自己認識と分析として、ある立場と支配への抵抗を保つ。
(187〜188ページ)

・語らないという行為の価値づけについて

 実際、ある人の中に隠された葛藤が、沈黙を選択することにつながる論理の一部となる。しかし、ある人が沈黙を選択することは、対抗する物語を創る必要性や権利を知的に理解していないことを示すのではない。私は、ある種の沈黙を、主体として存在しないということではなく、主体性の行為であるとみなす立場を取っている。そのため、私は対話の意味での”私たち”という言葉の利用は、沈黙の選択として認識するものと理論化している。私たちがお互いに説明責任があることを認めつつ、私たちは自分たちに準備ができるまで、”語らない”選択ができる余地を認めなければならない。その場合の”私たち”は包括的なものである。私たちは知恵を持っていても語らないこともあり、語りの状況をしっかりと評価したうえで沈黙を選択できる。主流社会から周縁化され、押し付けられる限定的な決めつけから、一歩足を踏み出そうとする”語ることのできる”物語を創り出す個々の努力、そして共同の努力の中で、”語り手”が物語の一部を公表する準備ができていなければ留保できることを、私たちは責任ある選択と見なさなければならない。私たちは語り手自身が、”真実”の主張への尋問に対する自身の脆さを、自分で評価できるという能力を信じなければならない。
(197〜198ページ)

・語ることが、語った人に与えるダメージについて

(略)この研究での会話のかなりの部分で、自己開示の結末として起きる非常に生々しい危害の可能性が触れられていた。例話に登場する人たちへの心配という形を取ることもあったし、”おぞましきものの位置に陥る”という痛みを感じる直接的経験を描いた人もいた。私が開示の結末という言葉を使わなくても、すでに参加者たちの実践にも組み込まれていた。参加者たちはみな、リスク判断の必要性を表明したが、この表明は開示の結末という現象が存在することの証拠である。それは声をあげることによって、語りと聞き手の両方につらい結果が生じうるという”体験的知識”に基づいている。

リンダ・ジンガロ:何か言葉にするときに、何かを言う際に、それを言う前にはあまり生々しくなかったことが、言葉にすると生々しく具体化する現実があります。体験は具体的になり、悲惨さが倍増します。あたかも体験を言葉にすることで体験を生み出したかのようです。
アニス:そういう体験は何度もあります。研究対象となった人がインタビューに応じてあれこれ自分の体験を語った後に、感想として「インタビューの三日間、私はどうしようもなくむかついていた!
」とインタビューした人に対して怒った話があります。
リンダ・ジンガロ:まったくです。
アニス:その彼女は、わめて怒鳴り散らしていましたが、インタビューのことで頭にきていたのでありません。インタビューが彼女に与えた影響のことで頭にきていたのです。そんな出来事を何度も何度も目にします。それは怒りだけではありません。時に抑鬱であったり……
リンダ・ジンガロ:自殺や自傷行為だったりするわけですね……
アニス:……自殺であったり、それが何であるにしてもです。全部を表に引っぱり出して、生々しい現実にしてしまうのです。本当に。
(212〜213ページ)

・信じてもらうことについて

 ”物語”を自分のものとして、自分の体験についての認識や説明が“正しい”という確信が得られるまでは、”信じてもらえない”ことの影響は壊滅的である。ひき続き断絶や沈黙させられる感覚に襲われる。この感覚はまさに”おぞましさ”と呼ばれるものなのかもしれない。少なくとも、力を奪われてしまった状態である。他の人に”信じてもらうこと”が、知識生産のための認識論や理論的枠組みに頼っている限り、私たちには対話の中で聞き手が了解できるよう説明する責任が生まれる。しかし、この責任は普段は、語り手の信用問題とされてしまう。物語が信じがたいものであったり、聴衆が語り手を”信じない”なら、語り手は何かを”証明”しなければならない。これは必ずしも物語の詳細の裏付けが必要なのではなく、語り手自身が信用できる証人であることを”証明”しなければならないのだ。
(229〜230ページ)

・語る技術について

 日々、職業として話を聴き、立ち会う役割を担う私たち専門者は、”脆さ”を語ることと、”知恵を持つ人”と語ることとの違いを知らなければならない。知恵を持つ人として語ることは、”どのくらい語るか”を選ぶことであり、物語のある部分をあえて語らないものにしていくことである。私たちは、社会変革を実現するために”声をあげる”仕組みの中で物語にとっての”安全な自己開示のための条件”を作り出したいと願うなら、選択と”秘密”の違いを認識する必要がある。
(略)
 何らかの場に物語を持ち込む前に、”自分の回復のための作業を終えている”べきであるということを、境界に位置する”語り手”は知っている。この視点では、自分の回復の作業を終えたということは、語り手は聴衆から何も求めない人と”位置付られる”ことを意味する。私たちのこの”情け深さ”は主体であることを通じて示され、より広い目的のために”語る”語り方により実証される。
(略)
 このことが何度も何度も実証されるのは”語ることのできる”物語の筋書きの中でである。その筋書きは私たちが”述べることのできる真実”を語るのを可能にする型である。語る立場にあるのなら、私たちはつねにすでに”安全”と見なされる。どんなに恐ろしい恥ずべき場所を訪れたことがあるとしても、あそこから”生還した”からここにいるのである。さもなければ私たちはその体験について語るために”ここにいる”ことはないだろう。うまくいく”物語”は私たちが現在、安全であることを反映するものでなければならない。”分析”や解決を示せず、物語の緊張を”終え”られず、途中で行き詰ってしまったら、私たちはもはや、知恵を持つ人として語っていない。私たちが救出される側になってしまえば、聞き手が責任を抱えてしまうことになろう。すぐに救出される必要がなくても、少なくとも主流社会の言葉に言いかえられ、誰かが外側から”エンパワー”しなければならないと思われるだろう。
(285〜287ページ)

 日本で、サバイバーが「声をあげる」ことを強要される状況があると告発したのが以下の本である。

サバイバー・フェミニズム

サバイバー・フェミニズム

 私も、「語ること」について、去年、短い文章を書いた。(別の名前で書いています)一時期消えていたデータが、別のアドレスで復活しているので再リンクしておく。

「言葉にできない痛み」とは何か

*1:私も、例話は用いなかったものの、同じ目的の調査を試みたことがある。