二村ヒトシ「恋とセックスで幸せになる秘密」

 AV監督の二村ヒトシが書いた、女性向けの恋愛ガイドを読んだ。

恋とセックスで幸せになる秘密

恋とセックスで幸せになる秘密

二村さんは、「心の穴」をキーワードに、恋愛を読み解いていく。人間は、みんな、子どもの頃に親から何かしらの否定された経験によって、心に穴を開けられている。大人になって恋愛をするようになると、その心の穴を恋人で埋めようとする。そのとき、親に傷つけられた関係を反復したり、その関係を避けようと胡乱になってしまったりする。二村さんは、この自分の「心の穴」を見つめ、どうして、好きではない男性や、傷つけられる男性とばかり付き合ってしまう自分の、行動や思考のクセをみつけることを女性に勧める。その中で明かされるのは、自己肯定でできない女性は、自分を否定するような男性を選んでしまうということである。
 二村さんは、恋愛の「恋」を「相手を支配する/されることで所有しようとする欲望」(ナルシシズム)、「愛」を「相手を認めること」(肯定)と定義する。相手を認めるためには、まず、自分を認めなければならない。そのときに大事なのは、自己肯定できない自分を否定するのではなく、そのまま受け入れることである。そのために、二村さんが提案するのは、「一度、親のせいにしてみる」ことだ。「私が自己肯定できないのは、自分が悪いからではなく、親が私に心を開けたせいなんだ」と考える。その次に、「でも、どんなよい親も、子どもの心に穴をしまうから、仕方ないんだ」と受け容れていくのである。
 専門用語を一切使わないし、平易な言葉で書かれている。また、いま、苦しい恋愛の渦中にあるだろう女性へ向ける言葉は、優しい。この本を読んで、励まされたり、これまで暴力的な男性と付き合ってきた自分を内省し、自分を変えたいと思う女性もいるのではないだろうか。売れた本のようだし、私も大筋に異論はなかった。ジェンダーに対しても、多少引っかかるところはあるけれど、激しく差別的な表現もない。ただ、違和感も大きく残った。
 以上のような、二村さんの主軸にある考え方は、精神分析の影響を強く受けているように見える。私たちは、みな、幼少期のトラウマによって、欲望を形成されており、それを成人の恋愛でも反復する。そのトラウマを想起・再操作することで乗り越えていき、自我を成熟させることで健全な性愛関係が持てるようになると、考えるのだ。
 私は、この本を読んで、なんだか不思議な気持ちになってしまった。今から、20年くらい前に流行った、アダルト・チルドレンの言説にそっくりだからだ。アダルト・チルドレンとは、もともとはアルコール依存者のいる家庭で、大人の家族役割がうまく機能せず、子ども時代に早すぎる自立を迫られたことで、生きづらくなってしまう人たちのことを指す。それが転じて、生きにくさを感じる大人は、子ども時代の家族関係が原因であるという主張が大きく広がっていくことになった。この主張は、ある程度は当たっていて、大小や善悪はあるにしろ、子ども時代に接した大人からの影響は、その後の人生に大きく関与する。しかし、なんでもかんでも、子ども時代の家庭環境に還元していくという風潮に、批判も出てきた。なぜなら、問題を家族の内部に求め過ぎ、心理学化することで、他のファクターを軽視するきらいがあるからだ。
 私は、二村さんの本も同じ罠に落ちているように思う。二村さんは、女性の男性に対する「心の穴」に対して、母親の影響が大きいと考えている。たとえば、母親が無意識のうちに「娘に幸せになってほしくない」という呪いをかけるケースを挙げている。その理由を、二村さんは「お母さんも同じ女だから」(娘とライバル関係にあるから)だと書くが、それこそ、二村さんが古い精神分析の呪いにかかっているだけのように思う。「母親の呪い」については、もっと深く抉ったエッセイを信田さよ子が書いている。
母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

さよなら、お母さん: 墓守娘が決断する時

さよなら、お母さん: 墓守娘が決断する時

ここに出てくる、娘を呪う母親の影にあるのは、夫から妻へのDVである。また、社会進出を阻まれた世代の女性たちの歴史である。DVの背景にも、女性の働く環境の問題にも、ある家庭の内部では収まらない、社会的文脈がある。私たちは、確かに「心の穴」に、行動を左右されるが、社会的文脈に寄っても、行動は左右される。両者の交接が問題である。
 また、二村さんは、自身がAV監督でありながら、次のように書く。

 女性を傷つけて自己肯定させにくくしていると思われる社会のシステムのひとつに「男目線によるメディアの氾濫」があります。
 「それAV監督が言うことじゃ、ないだろ」と思うかもしれませんが、だからこそ言わせてください。

 男性誌コミック誌の水着姿のグラビア・アイドルや、テレビ番組に出演しているAV女優を見てしまった時、あなたの心は、矛盾する2つの方向に揺れ動かないでしょうか。
「かわいい〜!私も男だったら、好きになっちゃうかも」
という男目線と、
「なるほど男の人は彼女みたいな女の子が好きなんだ。それに比べて私は……」
という女としての自己否定感……。
 この同時に生まれる2つの視点と感情に寄って、心理的に引き裂かれ、苦しくなってしまう女性が多いのです。
(104〜105頁)

上記の感情は、私も知っているものだし、女性の中にはこう感じる人は多いかもしれないと思う。続けて、二村さんは、男性が男性の体を好きになる人が少ないことも指摘します。これも、うなずいて読める。問題は、その後だ。

なぜ女性は、他の女性の体に好意を持てるのでしょう?
それは、女性も、母親から産まれたからです。
(105頁)

ここで、私はずっこけてしまった。もちろん、精神分析のドグマを信奉していれば、納得できるのかもしれないが、ここで人類の「母なるもの」への郷愁を語られると、「あ〜男が考えそうなことだなあ」と思って、私は引いてしまう。二村さんは、これまでのご自身の女性との関係や、自分自身の分析から、この本を書いているのだろうが、そこから遊離した部分は突然の断言で意味がわからない。
 女性は、見られる身体として構築されている。そして、私たちも、女性を「見られる客体」として扱うことを、日常生活によって訓練されている。そのため、AVに出演する女性を見たときに、鑑賞者の視点に立つのは当たり前のことだ。問題は、そのあと、女性を値踏みする視線が、自分へと反転し、自分で自分を値踏みしてしまうことである。それは、「母なるものの郷愁」の視線ではなく、女性を「男性尺度の美の規範」で峻別する視線である問題は、「男性にとっての女性美」があることではなく、そうでない美が社会的に認められていない(と女性が感じ、男性の美の規範を内面化してしまう)ことだ*1。つまり、問題はAVを見る女性の内部にあるのではなく、AVを流通させる基盤である、男性にとっての美の規範を、女性が押し付けられていることにあるのだ。
 こうして一つずつ書いていけば、恋愛がうまくいかない女性が苦しんでいるのは「心の穴」の問題でもあるだろうが、それだけではないことがわかる。かといって、社会の問題だけでもない。繰り返すが、両者の交接するところに、問題がある。
 さて、上のような批判をしたのだが、私が一番引っかかったのは、「これで、心を動かされる女性は、どれくらいいるのだろうか?」ということである。私は「自分を内省し、自分を変えたいと思う女性もいるのではないだろうか」と書いたものの、自分はまったく心を動かされなかったという感想を持っている。もっと言うと、私が一番苦しくて、男性とうまく関係が築けず、セックスしたいのにしても満たされず、どうにもこうにも身動きできない沼にはまっていたころ、こんな「わかってくれそうな男性」の本では、何も救われなかったということである。私の心の穴は、液状化し、ずっとそれ以外のことを考えられない底なし沼になってしまっていたからだ。
 何度もこのブログでも書いている*2が、そんなとき、私が出会ったのが、田中美津「いのちの女たちへ」である。

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

田中美津は「ベトナム戦災孤児はあたしだ!」と思いこんで、反戦運動にのめり込んだと言うが、私は「田中美津はあたしだ!」と思いこんで、この本を夢中で読んだ。「女らしさ」を押し付けられたくないと思っているのに、好きな男が通りかかったら、あぐらを正座に直す女。すれ違った女を値踏みして、そのあと自分で落ち込む女。男の身勝手さに怒りながら、男の腕でやすらぐ女。それはみんな私だった。私は、田中さんの本を読んで、布団の上で、正座で号泣した。そんなぐちゃぐちゃで、みっともない自分。そして、矛盾に満ちた私を、「だから女は」とせせら笑う男への憎しみが、私の男への嫌悪感の源にあった。取り乱す私を、「女は感情的だ」と貶めてきた男たち。男を憎んでるんだから、男と関係を築けるわけもない。私は、男に絶望して、男を憎んでいる自分に苦しんだ。それはそうだ。世界の半分くらいの人は男で、そんなにたくさんの人間を憎んで生きていくのは苦しい。そして、それ以上に、憎んでしまう自分が疎ましかった。けれど、穏やかな気持ちでもあった。田中さんはこうも書く。

 あたしは今まで、自分は汚辱と共に生きてきたと思い続けてきたが、それはまちがいであった。己の「痛み」を通じて闇を視た者の、その闇とは光への道に通じる、その入り口に他ならない。「己れは己れ」といった場合の、その前者の己れとは存在が感知する「痛み」のことであり、後者の己れはその「痛み」を通じて甦った生命の輝きに他ならない。人は、「生命」のもつ可能性を卑しめられるその「痛み」を、その「怒り」を原点に、己れを支配/被支配のない世界へと飛翔させていくのだ。(文庫版、184頁)

引き裂かれ、空転し、矛盾に苦しむ女を、「それが、私だ」といって引き受ける田中美津の言葉を通して、私は自分で自分を引き受けた。「私は、そういう女だ」と言うことは、開き直りではない。「そういう女たちとつながっていく」という希望である。いま痛い女は、みんな不寛容で、不機嫌だ。美しく仲良い光景はない。それでも、この痛みを出発して、別の自分のありようを探す、同志がいると信じること。私が、自分を無価値だとしか思えなくても、同じように生き直そうと立ち上がる女を、無価値だと思えない、というような、他人の肯定をすることで、私はいつか自分を肯定するようになった。他人を選別する視線が、自分を選別する視線に反転したように、他人への肯定が自分への肯定へと反転した。
 私にとって、フェミニズムは、心の沼に魚を放して釣りを始めるようなものだった。魚は、澄んだ池より、濁った沼を好む。沼で育った魚を糧に、生きていく。たまに、ゴミや長靴を釣ってしまってゲンナリすることもあるが、それはそれで釣りの楽しみだ。私のそのプロセスは、間違っても、男とよい関係を作ることを目標にしていない。むしろ、そうした関係を説く男を、突き放すことでしかはじまらなかった。(そして、突き放したあと、やっと男を憎むことをやめる糸口みたいなものは見えるようになった)
 私が二村さんの本で持った違和感は、「この本を書いて、あなたは何をしたかったのだろう?」という問いに端を発している。二村さんの説に沿えば、自分を否定している女性は、自分を否定している男性しか求めないとするから、求められた男性は自分を否定しており、女性を支配したいと思っていることになる。では、自分を否定している女性の、助けになる本を書いた二村さんもまた、そうした女性を「理解する」という名のもとで所有し、支配しているということになるのではないか。すなわち、この本を読んで自己否定している女性が、「書いてある通りのことが、自分に起きてきた!ああ、私の気持ちがわかってもらった!」と満足するということは、この本を通して二村さんで心の穴を満たしたということではないか。もちろん、そのことを「本を出すのだって、商売でやっているのだから、手練手管で新しい支配の方法で、自己否定している女性から金を巻き上げた」と言えなくもない。けれど、私はそんな悪意も感じない。むしろ、本を読んでいて、二村さんはこの本をとても誠実に、女性に幸せになってほしいと思って書いたのではないかと、私は感じた。だからこそ、この問題は難しい。「わかってあげたい」「なんとかしてあげたい」という、二村さんの気持ちが、この本からうっすらと漏れてくるように、私は感じる。だから、「まさか、私を支配する気じゃなあるまいな?」と思い、違和感を持ち続けたのだろう。自己否定している女性の、「わかってほしい」心に付け込む、自己否定している男性はたくさんいるのだ。経験や知識、言語的な表現力が、そうした男性の武器である。その類の男と、二村さんは、どう違うのだろうか?
 ここまで、フェミニズムに寄りの批判をしてきたのだが、二村さんの本の一番面白い箇所は、実は男性について書いた部分である。二村さんは、男性の「インチキ自己肯定」の話をしている。男性も心の穴を持ち、自分を否定して生きているのだが、たくさんの女性とセックスすること(ヤリチンになること)で、社会規範に沿って、「自己肯定している気分」に浸ることができる。また、仕事の評価ややりがい、チームでの役割、オタクとして消費層としての社会的認知でも、「インチキ自己肯定」が可能である。さらに、仕事を失敗しても「負けの美学」という逃げ口があり、トラブルを起こしてもアウトローとしての認知が得られる。そうして、男性は、自分に嘘をついて、「自己肯定している」と自分で思いこむのである。二村さんは、最後のページでこう書いている。

 女性の「恋やセックスの苦しみ」は女性だけの問題では、ありません。
 彼女たちが「男を愛せる」ようになるためには、男たちもインチキじゃない自己肯定をしていかないといかんと思います。その具体的な方法は、また別の本で書きます。(220頁)

この部分は、ぜひ読んでみたい。たぶん、インチキ自己肯定は、たくさんのDVや性暴力を生んでいるだろうと、私は直感的に思う。そして、それは上で書いてきたように、本人が家庭環境によって心理的に抱えてきた成育歴と、社会的な文脈の交接するところにある問題だろう。性的な存在である自分を、女性を利用せずに、自分自身で肯定するとはどういうことか。また、自己否定している自分が、暴力をふるってしまったあと、どう自分を変えていけるのか。こうした、悩みは大小であれ、男性が抱えていることだろう。それは、女性とどう違うのか。こちらの問題は、女性が性について抱える問題より、圧倒的に論じられた量が少ないのである。
 

*1:この視線の乱反射については、以前、別の記事で書いたことがあります→http://d.hatena.ne.jp/font-da/20091224/1261639347 また、美の別のあり方を求めたフェミニズムについては次の記事→http://d.hatena.ne.jp/font-da/20111101/1320152662

*2:一番、この記事と関係ありそうなのは、PARCに書かせてもらったエッセイ→http://www.parc-jp.org/alter/2008/alter_2008_11-12_femme.html