男性から男性へ語ること

 ナインティナイン岡村隆史さんの発言が大炎上している。岡村さんは2020年4月27日のラジオ番組の「オールナイトニッポン」で以下のように発言した。

苦しい状態がずっと続きますから、コロナ明けたら、なかなかのかわいい人が短期間ですけれども、美人さんがお嬢やります。これ、何故かと言うと、短時間でお金をやっぱり稼がないと苦しいですから、そうなった時に今までのお仕事よりかは。 

スポニチによる書き起こし記事を参照)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200427-00000196-spnannex-ent

 はじめに書いておくが、私はこの岡村さんの発言は下劣だと考えている。この発言から滲み出るのは、「経済的に苦境に陥った女性たちを高みの見物をして楽しむ態度」であり「その女性たちの頬を札びらで張る態度」である。すなわち、経済的に恵まれ*1、安全な場所から女性たちの困難を見下ろして楽しんでいる態度が、岡村さんの発言からは読み取れるのである。これは下劣であり性差別的であると言えるだろう。

 それと同時に、岡村さんの発言に対する周囲の反応は総じて批判的でありながら、実は内容は様々に異なっている。そして評価が大きく割れたのは、上記の発言が起きた翌週の、4月30日の「オールナイトニッポン」で矢部さんが出演し、岡村さんを批判したこと、さらにその内容についてである。矢部さんを支持した人もいれば、批判した人もいる。私はどちらかと言えば、矢部さんを支持する側に立っている。

 そこで私は矢部さんによる岡村批判を中心に、以下で3つの点について書いておきたい。なお、この件について考えるためには、実際に当日のラジオ番組を視聴したほうが良いと思う。2020年5月4日まではradikoというアプリで番組がいつでも聴ける状態であるので、ぜひ確認して欲しい。岡村さんと矢部さんのやりとりは、あくまでも話し言葉*2の掛け合いであるため、書き起こしでお互いに伝えようとしているニュアンスがわかりにくい。

(1)痛みとともに語ること

 矢部さんの発言は、フェミニズムの視点から厳しく批判されている。これは、矢部さんが岡村さんの発言の背景には、性差別があるが、それを是正するために女性と付き合い、結婚するべきだという趣旨の話をしたからである。これは、男性が自らの偏見を乗り越えるために、女性を道具的に使おうとする態度であるとして批判された。矢部さんの発言は、一見、反性差別のようだが、実際には男性同士が女性について勝手に役割を決めて負わせようとする、性差別的振る舞いだというのである。

 これについては、実際の発言内容の字句を追っていけば、全くその通りだと言えるだろう。矢部さんは、岡村さんを批判する中で、典型的な家父長制に基づく男性像を何度も披露している。たとえば、「女の人はすごい」「男のほうがアホだから女の人に甘えてしまう」「結婚して子どもができたらお母さんが監督」などの発言は、男性が女性に抱く「聖母」の幻想であると言えるだろう。男性も女性も同じ人間であり、互いを尊重していくというシンプルな反性差別ではなく、家父長制の中で女性の地位を向上させようとしているにすぎない。全くラディカルではないため、フェミニズムの視点からは不十分であると言われていることには私も同意する。

 それと同時に、私は矢部さんの発言を素朴に「よい」と思った。なぜなら、このラジオ番組で矢部さんが言葉に詰まりながら、岡村さんに伝えようとしていることは、「人は変われる」ということだと聞き取ったからだ。矢部さんは一方的に岡村さんに「説教」する形をとっているが、実は自分の恥もさらしている。19歳の頃の矢部さんは、すぐに芸人として芽が出た岡村さんとは違い、自信をなくし自分の殻にこもってしまい、周囲の先輩ともうまくいっていなかった。その頃の矢部さんに、岡村さんは「性格を変えろ!」と一喝した。それから、矢部さんは自分を変えようと努力し、先輩たちとのコミュニケーションを取るようになっていき、上手くいくようになった。だからこそ、矢部さんはいま、49歳の岡村さんに「性格を変えろ」と言うのだという。

 ここで、矢部さんが「変えろ」だというのは、先の発言内容だけではなく、女性や目下の人に対する態度の全てである。特に女性に関しては、岡村さんは過去にトラウマを持っていることもあり、女性を敵だと思っているところがある。また、「全く女っ気がないとは誰も思っていない」と指摘し、いくらでも女性とデートのチャンスがあるのに、それを自ら拒み、風俗をネタにするキャラに徹しているのだと言う。その流れで矢部さんは「結婚したら?」と岡村さんに投げかける。この矢部さんがいう「結婚」という語の意味は、トラウマを乗り越えて女性と向き合い、相手の両親と会っていくなかで、社会的に関係を認めてもらうプロセスから逃げないということを含んでいるようにも思う。

 矢部さんは、自分たちの世代もまた男尊女卑の影響を受けており、父親や祖父もそうであったことを認めている。それでも、矢部さん自身は結婚して子どもを育てる中で、女性に対する見方が変わっていったと考えている。だからこそ、矢部さんは変わるために岡村さんに結婚を勧めるのである。

 この話についても、フェミニズムの視点からは、やはり批判があるだろう。一番の問題は、「女性と向き合うこと」=「恋愛」「結婚」という前提があることである。職場であったり、趣味の場であったり、人間はいくらでもさまざまな人と出会っていく。その人たちと正面から向き合い、価値観を揺さぶられ、自分の中にある偏見から脱していくチャンスはいくらでもあるはずである。それにもかかわらず、問題の解決を恋愛・結婚に絞ってしまうことは、それ以外の社会的な場にいる女性や自分と異なるさまざまな人たちのことを軽視し、向き合わないということになってしまう。岡村さんであれば、一緒に芸能の仕事をやっていく中でも、女性と正面からぶつかり、変わっていくことはできるかもしれない。その可能性が頭にない、という時点で、矢部さんもまた偏狭な女性観を持っていると言えるだろう。

 それにもかかわらず、矢部さんが「良い」と思ったのは、自分の中の経験から変わったことを伝えようとしているからである。パーフェクトに反差別である人はいない。矢部さんが家父長制に縛られ、偏狭な女性観を持っていようとも、自分の恥をさらしながら「変わっていこう」と岡村さんに呼びかける姿は、私は良いと思う。

 これは私自身がフェミニズムについて学ぶことは、自分の痛みと向き合うことと同義であったからだろう*3。私にも、こういうしょうもない、差別から抜け出そうとする思い出はいくらでもあるし、今も現在進行形である。こういうあがく姿は、格好良くもなければ、他人に言って褒められるものでもない。多くの間違いも含んでいる。ただ、失敗しながらでも「人は変われる」と信じ、同じ立場から仲間に向かって呼びかける姿はとてもフェミニズム的だと思う。フェミニズムには「個人的なことは政治的である」という言葉があるが、矢部さんのやっている「自分の痛みや失敗」から社会的な問題を思考し、岡村さんに語りかける態度は、それに重なって見える。

 逆に言うと、私は男性がほかの男性を断罪する態度をフェミニズム的だとは思わない。たとえば、貧困問題に取り組む藤田孝典さんは、岡村さんと矢部さんのやりとりを受けて、岡村さんの変化を望むとし、次のように批判している。

これを契機に、岡村氏やニッポン放送などが率先して、社会の中で女性が困窮に苦しみ身体、性を販売しなければならない異常な社会構造があることを改善するため、具体的な行動を起こしてほしい。
日本の社会福祉社会保障は未だに脆弱なもので、なおかつ女性が安心して働けてゆとりある生活を享受できる労働環境にもなっていない。
相変わらず、政治や社会運営の決定権者は岡村氏など男性中心で、それゆえに女性の福祉も極めて残余的で粗末なものとなっている。

つまり、岡村氏には早く混乱期から立ち直り、謝罪の意識をどう次の言動につなげていくのか、ということが問われている。

岡村隆史氏のラジオ番組内の謝罪『変わらなければならない』について」

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200501-00176281/

 上の藤田さんは、日本の福祉支援の不足により、困窮した女性たちが「性を販売しなければならない異常な社会構造」としている。そして、このような状況が起きるのは、福祉制度を整えるべき政治や社会運営を支える人材が「岡村氏など男性中心」であるからだとしている。そして、岡村さんは変わり、社会を変えるための言動をとらなければならないとする。

 私は藤田さんはほとんど意味不明の発言していると捉えている。第一に、「性を販売する」というのはどういう意味か。風俗業をはじめとするセックスワークでは、労働者が性的なサービスを提供する。たとえば、教員であれば教育に関するサービスを提供するのであり、教育を販売するわけではないだろう。そもそも「性」や「教育」は概念であり、直接売り買いできる物質的基盤を持たない。

 第二に、セックスワークが存在するのは異常な社会構造ではない。この社会で働くセックスワーカーに対して、あなたたちが労働することは異常であるというのは、剥き出しの差別意識である。これまでセックスワークについては、フェミニズムも含めて膨大な量の議論が行われてきている。そのなかで、セックスワークについて論じる様々な立場がありえるが、「異常」という言葉を使うのは不適切である。あえてその言葉を選んだのは、藤田さんの差別意識だと言わざるを得ない。

 第三に、藤田さんは2019年10月にTwitterで「女性解放運動などないに等しい」と言い捨て、フェミニストから強烈に批判された。「岡村氏など男性中心」のなかに、藤田さんも含まれていると指摘されたのである。それからまだ半年しか経っていない。それにもかかわらず、岡村さんを切り捨て、自分は「良き男性」の地位にあずかろうというのは、あまりにも拙速な態度ではないだろうか。人間は失敗をするし、差別にとらわれている。そういう自分をなかったことにして「反差別」の旗印のもとに政治的発言をすることを私は肯定しない。

 私は人が変わるというのは、ダサくて時間がかかり、目に見えた成果がでないことだと考えている。いくら自分が変わったと言っても、他人からみれば変わっていないこともある。それに比べれば「社会を変えよう」と声を上げることは、格好良く他人から称賛を浴びることもあるだろう。上の藤田さんの発言を支持する人も多いようだ。だが、私はこのような態度は、自分の考えるフェミニズムとはもっとも遠いところにあると思う。

(2)「非モテ」の人からの反論

 しかしながら、矢部さんに対して別の角度から批判が浴びせられている。矢部さんの発言は、男性に対する「恋愛して結婚しなければならない」という圧力として働くという批判である。

「矢部の発言が独身差別・非モテ差別でないなら何だと?」

https://anond.hatelabo.jp/20200501134024

 これだけではわかりにくいと思うので補足すると、10年以上前から「非モテ」に関する議論がネット上では起きている。このなかで、男性は「恋愛や結婚をしなければならない」という価値観を内面化しているため、強迫的に「モテなければならない」と考えるようになるという指摘があった。これらは「非モテ」問題と呼ばれ、たとえ、恋愛や結婚を経験したとしても、モテに対する強迫観念はなくならず苦しむとされる。そこで、恋愛や結婚に対する義務感から解放されることが必要だと言われたのである。

 私はこの非モテ問題は関心を持って、丁寧に議論を追っていたほうだと思うが、最後まで心からの理解には至らなかった。ただ、この問題の当事者が切実であったことは間違いないし、矢部さんの「恋愛や結婚から逃げたからお前は成長できないのだ」という発言は、非モテの人たちに対する呪いにはなり得ることには同意する。矢部さんは岡村さんの個人のライフヒストリーに即して、その発言をしたとしても、恋愛や結婚についての強迫観念を持つ人へ圧力をかけることに加担したという指摘はあてはまるだろう。

 ただし、それを踏まえた上で、「非モテ男性の差別発言」にどうアプローチすればよいのかは見えてこない。岡村さんが恋愛や結婚に対する強迫観念を持つがゆえに、女性に対して敵対心を持ち、実態がわからないまま恐れたり憎んだりしているとして、そこから解放されるにはどうすれば良いのだろうか。もちろん、非モテであっても自ら恋愛や結婚をしないという決断によって解放され、性差別にいたらない人もいるだろう。だが、今回は岡村さんがそうでなかったから問題になっている。ここは非モテ問題の議論を追っていた私がいまだにわからないところだ。

 一つの可能性は「メンズリブ」や「男性学」の取り組みを引き継いでいくことかもしれない。たとえば、西井開さんはこれらの系譜を汲んでいるが、「僕らの非モテ研」を立ち上げた。西井さんはこの立ち上げについて、以下のように語っている。

非モテ研〉を始めたのは理由が二つあって、一つは僕も恋愛で苦しんだ経験があったので、非モテに悩む男性や童貞に対する謂れのないバッシングが許せなかったんですね。ひとくくりにしてコミュニケーション障害だとか、女性をモノ的に見ているだとか、それが腹立たしかった。ただ逆に非モテを抱えた男性が、憎しみを増幅させてミソジニーのような暴力的な方向に行くのも歯がゆかった。やはり背景には何か思いがあるだろうし、それを細かく見て行きたい。そして苦しさを共有できる場があったらなと思った、というのがあります。もう一つは〈男の勉強会〉というのは性自認が基本的には男性寄りの人たちが来る場、という形でやってたんですね。ただ「男性」という大きな枠組みだとあんまり深い話にならないような感触があったんです。それよりももっと内面を、こういうことを感じたり思ったりする、苦しんでるっていうのをもっと話してほしかった。生きてる上での違和感みたいなことから自分を語るきっかけは生まれてくるので、そのフックとして「非モテ」というのは使えるんじゃないかな、というの思いがありました。

 

対談「2010年代メンズリブ対談 -メンズリブのこれまでとこれから-」『うちゅうリブ』

 

https://uchu-lib.hatenablog.com/entry/2018/07/06/140958

 

 

 西井さんの「非モテ研」や、対談相手である環さんがやっている「うちゅうリブ」では、ほそぼそとした集まりの中で、「男性」の問題について語り合う場を作っている。

 かつては薬物依存の問題は「ダメ絶対」として、薬物を使うこと自体を強く否定するキャンペーンが行われた。また「二度とやりません」と依存者は約束しなければならないと考えられていた。しかしながら、依存者はこのようなメッセージを見れば見るほど、薬物を使う自分を否定し、その苦痛から逃れるためにさらに薬物を使う。そのため、今は薬物依存者は自分の苦しみと向き合い、依存から抜け出すためには、当事者団体や自助グループにつなぐことが必要だとされるようになった。

 私は差別発言についても似たところがあると思う。発言に対する厳しい批判は必要だと思うが、そこから「二度とやりません」と約束させたり、社会的地位を奪ったりすることでは、差別はやめられないのではないか。表面的には差別をやめたように見えても、それは差別を隠すことがうまくなるだけではないか。その意味で、差別発言をしたあとについても、一人で差別をやめるように努力したり、恋愛や結婚をしたりするのではなく、同じように変わっていこうとする人たちが繋がる場が必要だと思う。

 私自身が、自分が変わりたいと思っていた時に、ともに活動に取り組んだ仲間の存在に支えられたので、余計にそう思う*4

(3)「かわいそうさん」について

 さて、私自身が岡村さんと矢部さんのやりとりを聞いて、一番印象に残ったのは「かわいそうさん」についての話である。矢部さんは、岡村さんは仕事のスタッフや周囲の人々から「かわいそうさん」として扱われていると指摘する。岡村さんは2010年に体調を崩し、休養ののちに復帰した。それ以降、みんな岡村さんに対しては優しくなった。また、女性に対する劣等感をネタにしていることもあり、他のタレントが言えば炎上することも、岡村さんの場合はそうならなかったという。結果として、岡村さんは自分を変えるきっかけを失い、ぬるま湯に安全してしまったのだと矢部さんは批判する。

 この矢部さんの言葉は、苦しい渦中にある人に向けられているのではない。実際に、矢部さんは、岡村さんが体調を崩した時には、本人が仕事を続けることを希望しても、率先して休養することを勧めた。しかし、今の岡村さんに対しては「かわいそうじゃない」と突きつける。もっとかわいそうな人はいっぱいいるのに、お前は「かわいそうさん」のポジションをとり、そこに甘えているのだ、と批判するのである。これは、休養中や復帰後も親身になって岡村さんを支えてきた矢部さんだからこそ言えることだろう。

 これは非常に身につまされる話だった。私自身、若い時にたびたび「かわいそう」としか言えないような目に遭ってきた。それを、自分で認め「かわいそうさん」であると開き直ることでしか、乗り越えられない局面もあった。不思議だが、その状況が過ぎ去っても、当時の「気分」のようなものはいつも自分の中に残っている。いまは、あのときほど大変ではない、と思いつつも、いつでも「かわいそうさん」であった自分に引き戻される。人間の心の動きであるのだから、それ自体を否定する必要はないのだろうが、そこに慢心すると他人を傷つけることになるというのは、薄々わかっていた。抽象的な書き方をしているが、私のいわんとすることに思い当たることのある人もそれなりにいると思う。

 「かわいそうさん」の言葉は、間違っても第三者が他人を断罪するために使うものではない。自分や身近な人たちが生きていく中で、はっと気付くようなものだろう。この矢部さんの発言は上の二点のジェンダーの問題とは別に、大事なものを言い当てているように感じた。

*1:この点について、ブックマークコメントでご指摘いただきました。岡村さんは風俗を利用する男性たち一般に向かって呼びかけているため、経済的に恵まれてはいない人たちの立場にも寄り添って発言しているということでした。確かに、ここはリスナーへの呼びかけですから、私の取り方には語弊があったので撤回します。

*2:もっと言えば関西弁での個人的な話をするときの掛け合いである。いつもよりやや声のトーンを落として、断言調で相手に迫る。私自身は関西人なので馴染みのあるコミュニケーションだが、他地域の人にそれが伝わるのかはよくわからない。

*3:ちなみに私は「フェミというよりはウーマンリブ」と言われることが多い。実際に私がもっとも影響を受けたのはウーマンリブの活動家・田中美津なので、間違ってはいない。1970年代風で古くさいとも思われがちだが、私は人間が差別に抵抗するエネルギーを炸裂させる源は理性ではなく情念だと考えているので、自分の「痛み」から出発することを大事にしている。

*4:そして今も私は、活動の場作りに熱心であるし、それは大学で授業を進めていく上でも意識していると思う。優劣を競うことではなく、ともに変わっていく仲間を得ることが、一番その人の学びを進め、次の一歩に踏み出す力になると考えている。

近況

 2020年4月1日より、学術振興会特別研究員(PD)に採用されました。受け入れ機関は関西大学です。3年間の任期ですので、できる限り、研究成果をあげられるよう努めたいと思います。

 2020年9月からは欧州での在外研究の予定で、受け入れ先も決まっています。しかしながら、COVID-19の影響がありますので、まだどうなるかはっきりとはわかりません。

 海外渡航計画に伴い、2020年3月31日をもって全ての非常勤講師の仕事を退職いたしました。3 コマを担当した同志社大学では、初めて大学教員として教育に携わり、多くの経験を積ませていただきました。4年間の講師の仕事はいつも楽しかったですし、思い出すと微笑んでしまうようなエピソードでいっぱいです。授業ではトライ&エラーを繰り返しながら様々なアプローチを導入し、学生とともに社会問題や思想的課題の考察に取り組みました。付き合ってくれた学生たちに感謝いたします。また、同僚の非常勤講師の先生方とは仲良くさせていただき、いつも休憩時間は笑いがたえず、楽しい時間を過ごしました。加えて、経験の浅い私はベテランの先生方から教育方法についてアドバイスをいただきました。事務員さんたちにも、いつも親切に助けてもらいました。短い期間でしたが、本当に恵まれた講師生活だったと思います。ありがとうございました。

 大学の就職状況は常に厳しく、私も先行きは全く見えていませんが、いつかまた教員の仕事に戻ることのできる日を楽しみにしています。

 

話さなくていい、声を上げなくていい

 大学や専門学校で講師を務めるようになり、授業では次の2点を伝えるようになった。

「話さなくていい」「嘘をついてもいい」

 私が教えている学生のほとんどは、20歳前後で若い。かれらの多くは、こちらが思っているよりも素朴で純粋で、「嘘をつきたくない」「誠実でありたい」と真剣に考えている。かれら自身の自己像がどうであれ、講師の立場にある私は、いつもかれらのその「若さ」としか言えないものに触れることになる。

 私は授業でセンシティブな話題に触れることが多い。病気、障害、自殺、貧困、民族差別、性差別。そして「性的なこと」を扱うこともある。私は行政や民間で、性暴力やDVの講演の経験は重ねているが、大人はある程度、こうした話題になると心を閉じる。言葉を選んで話しているつもりだが、「聞きたくない」「話したくない」という態度を取る人もいる。部屋を出ていく人もいる。それらは私にとってありがたいフィードバックになり、自己の講演を修正する材料になる。ところが、学生は刺激の強い話題であるほど、目を見開いて沈黙して、こちらの話に聞きいる。普段、寝ているような学生が急に体を乗り出して聞き始めることもある。これはありがたいことではあるが、とても危険だ。

 大人が話を聞くことを避けようとするのは、自分の身を守るための防衛本能だ。「傷つきたくない」という咄嗟の判断である。ところが、学生は身を守るより先に、自分の心を全開にして受け止めようとしてしまう。それは美徳ではあるが、結果として、こちらの想定を超えて話した内容を重く受け止める可能性もある。もしかすると、意図せず深く傷つけてしまうかもしれない。だからと言って、センシティブな話題を避けることもおかしい。差別や暴力の話、内面に関わる話を避けることは倫理的に問題がある。

 そこで、私は大惨事を避けるために「話さなくていい」「嘘をついていい」と伝えている。問題が自分の心に突き刺さり、受け止めきれないときに、そのまま言葉にしてしまうことは、トラウマを晒すことである。たとえば、心理相談等の閉じられた空間でなら、比較的、安全に話すことはできるだろう。だが、教室という集団の中で、トラウマを晒した場合、周囲からの二次加害が起きることもある。もちろん、「話したくて、話した」という場合は、私は講師として二次加害を防止するために動くし、できる限り、ひどいことにならないように尽力するつもりである。だが、「話さなくてはいけない」「本当のことを言わなくてはならない」という義務感に突き動かされ、望まぬ形で話してしまうことを恐れている。

 そもそも、私はずっとネットで「声を上げさせない」運動をしている。特に「泣き寝入り」という言葉を使わないように求めてきた。過去には、産経新聞の記事に対してこのような批判を書いた*1

正義漢ヅラをして、被害者を追い詰める人たち

https://font-da.hatenablog.jp/entry/20130818/1376831679

 もちろん、「問題を告発したい人が声を上げることができる」ような社会を目指すことはとても良いことだ。また、それを支援する必要もある。同時に、当事者が身を守るために「声を上げない」ことを選ぶことができることも重要だ。当事者が被害経験を話すことも、トラウマを晒すことになり、非常に負担は大きい。それは周囲が気軽に「やってほしい」というようなことではない。

 当事者が「声を上げる」ことは社会を変える大きな力になるだろう。だが、社会を変えるよりも、自分の身を守ることを優先することは、何も悪いことではない。声を上げない選択をすることは、当事者の権利である。「声を上げる」ことで、「声を上げない人」の負担を減らすことができるかもしれない。だけれど、本来は「声を上げなければならない」状況自体が不当であり、「声を上げる人」が苦しむことは、「声を上げない人」の責任ではない*2。望まぬ形で「声を上げる」ことにならないように、周囲は配慮する必要がある。

 私は、「話すこと」や「声を上げる」ことに対しては、慎重であるにこしたことはないと考えている*3。また、「私が話す」や「私が声を上げる」ことと、他人に対して「話してほしい」「声を上げてほしい」と言うことは違う。その一線は引いておきたい。

*1:なお、産経新聞のその後の連載は(私の批判とは関係ないと思うが)軌道修正されている。→ https://font-da.hatenablog.jp/entry/20130822/1377145158

*2:もちろん、もし「声を上げない人」が「声を上げる人」を攻撃するのであれば、「声を上げない人」の責任でもあるだろう。そして、「声を上げない人」にとって、「声を上げる人」の存在がプレッシャーとなり、攻撃してしまうことはままある。だが、それはまた別の話である。

*3:私もまた、「話さないこと」や「声を上げないこと」はたくさんある。それは自分を身を守るスキルであるし、そうできるようになって良かったと思っている。かつて、私自身が、何もかも話さなければならないと信じていた。

「小さな組織」を作る

 私の良さは少人数の組織の方が発揮される。理由は明白で、私は個別・具体的な人間関係のなかで、思想的な議論を深めていくのが得意だからだ。個人的な経験を掘り下げて、そこから得られる強烈な「確信」のようなものを、少人数の関係の中で分かち合い、言葉にしていき、「それがなんであるのか」を探求する。そういう場作りには長けている。

 他方、大人数の組織に入ると私は元気がなくなる。まず、誰かが何かを思いつくと、それに対する反論が先に出てしまうので、「新しい発想」を潰すことになってしまう。また、「みんなでやろう」と誰かが言えば、「やりたくない理由」をいくつも思いつく。つまり、「頑張ろうとしている人」の意を削ぐ能力が発揮される。

 私が大人数の組織にいて良いことがあるとすれば、その中で孤立しがちだったり、悩んでいたりする人が、「私だけではない」と思えることである。だが、私自身は「またうまくやれない」という疎外感を深めるので、大人数の組織にとどまることは難しい。(私は諦めが早いので、そういう組織からは黙って気配を消して、いなくなることが多い)

 私としては、大人数の組織に適応しようとするよりは、少人数の組織のなかで力を発揮したいと考えている。しかしながら、少人数の組織は、なかなか目に見える成果が上げられない。また、大人数の組織の「下部組織」として扱われることもある。しかし、「小さな組織」には、それ独自の良さがあるはずだ。

 小さな組織は無名であり、新規参入者が少ないため、濃密な人間関係が凝縮されていき、時にはトラブルの原因となる。現代では、オープンであることが良しとされ、透明性が重視されるため、このような組織は時代には逆行している。しかしながら、私たちの根幹に関わるような話は、「開かれた場」では難しいのではないか。「家族」や「友人」のように特定の情愛の結びつきを求めるのではなく、「団体」や「ネットワーク」のように公共に還元する成果を求めるのでもなく、あるトピックを手がかりに、コミュニケーションそのものだけが求めるような組織のあり方がある。それには、それの良さがある。

 この地味な良さをどうやって自分の言葉にしていけるのか。そういうのが、私の一つの課題だと思っている。(そして、こういう話は社会運動や社会思想の中で繰り返し行われてきているので、普遍的な問題なのだろうとも思う)

ネット上のフェミニズムについて

 思わぬ形で炎上してしまったので、何度かこれまで書いてきたネット上のフェミニズムについて、アップデート版をメモがわりに書いておく。

 

私はネット上のフェミニズムを切り離さない。

 ネット上で一部のフェミニストが「ツイフェミ」「ネットフェミ」「ミサンドリスト」などと呼ばれて批判されている。私はかれらとほとんど思想的に接点はなく、主張も重なるところはない。だが、かれらがフェミニストを名乗る限り*1、自分と切り離すつもりはない。かれらもまた、私と同じフェミニストである。

 そのことは、私がかれらを批判しないことを意味しない。私はトランスフォビア、セックスワーカー差別に反対するし、表現規制には慎重な態度を取る。必要な場合は、かれらを批判する。ただし、私の批判はフェミニストとして、フェミニストに向けて行うものである。私は、被差別の当事者以外が、フェミニストの肩書を引き受けずに、フェミニズム批判する場合、それに同調しない。なぜなら、フェミニストとして社会を変えていく意欲のない者の「批判のための批判」には私は関心がない。私は「フェミニズムをよくする」ためではなく、「被差別者の告発に連帯する」ために、フェミニズムを批判する。

 以上についてはこれまでも何度か書いた。下に例を挙げておく。

フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/02/08/124056

「ネトフェミだったら何なの?」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/20150323/1427073197

私はネット以外でのフェミニズムの活動を重視する

 上の批判を行ったとしても 、私と立場の違うフェミニストはおそらく、考えを変えることはないだろう。人間の思想信条は生活や人生に根ざしたものが多い。ネットで批判されたくらいで変わるような思想信条は、逆にあまりにも脆弱である。また、「他人を変えようとする」ことより「自分を変えようとする」努力の方がずっと有益だと私は考えている。

 フェミニストとして日々を暮らすことは、異なる価値観を持つ人と出会い続けることである。ネット上でどれほどフェミニストが増えたように見えたとしても、社会ではいまだ少数派である。もしかすると、性暴力やDV、セクハラについての考え方は10年前に比べれば変わってきているかもしれない。そのことは肌身で感じている。それでも、いざ何か起きたときに、フェミニストとして立ち上がろうと決意する人は多くない。

 私自身は、これまで何度も書いてきたように、フェミニストになることを他人に勧めたことはない。なぜならば、これまで自分がフェミニストであると名乗り、性差別や暴力の問題に取り組むたびに、周囲との軋轢に苦しんできたからだ。私は私の、生活と人生の文脈の上でフェミニストを名乗っているが、他人が同じ苦しみをすべきだとは思わない。それぞれができる形で性の問題に取り組めば十分である。

 そうした日々の暮らしの中で、できる限りの性差別や暴力への抵抗を続けていくことが、フェミニストの活動の本筋である。それはとても難しいことで、私も十分に実行できていると思えたことはない。それでも、たとえば私であれば、学会内の性差別的な構造を指摘したり、性差別や暴力で悩む同僚や後輩を(非常に小さな力ではあるが)支えたりするかたちで、フェミニストとして末端ながら活動していきたいと考えている。このことのほうが、ネットで何か言うよりも、フェミニストとして生きる上で重要だろう。

 私はネットでものを言うことにより、フェミニストとしての自己の一部を確立してきた。しかし、私の思想信条の大半は、ネットの言説ではなく、具体的な人々との関わりのなかで培われている。私はヴァーチャル空間ではなく、現実世界でフェミニストであることに、重きを置くべきだと考えている。

 現実世界で、フェミニズムを学び、活動につなげていく方法について書いた記事を以下に挙げておく。

「大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/11/01/202311

 私はネットの「フェミニズム」「反フェミニズム」の変化を肯定する

 ネット上でフェミニズムは毀誉褒貶の激しい領域で、常に論争の的になってきた。私がネットを始めた頃にも、「フェミナチ監視掲示板」があり、フェミニストを危険視する人たちがいた。フェミニストは理性を持たず感情的なので、フェミニストが力を持ってしまえば、社会が危機に晒されると考える人たちである。今も似たような危機感を抱く人たちはいるだろう。「あのような危険人物たちを野放しにしてはいけない」という言説は私もよく目にする。

 当時と今の違いは、「フェミニズムに関心を持つ人」の総数である。近年はメディアや出版業界でフェミニズムが流行っており、有名人も言及するようになっている。フェミニズムは「売れるコンテンツ」になっているのである。そのことはメリットもデメリットもあるが、結果として、多くの人たちがフェミニズムに関心を持つようになっている。

 十年前にフェミニズムに関心を持つ人たちは、支持派にしろ反対派にしろ、性の問題に思い入れがあることが多かった。反対派であっても、自分の人生や生活でトラウマティックな経験や、強烈な想いを抱えた人が、熱意を持ってフェミニストを批判した。どちらにしろ、自己の問題とフェミニズムが緊密につながっていたのである。

 しかしながら、フェミニズムがよく知られた問題になると、もっと気軽にフェミニズムを支持したり反対したりする人たちが出てくる。フェミニストにならなくても、強い思い入れがなくても、フェミニズムに物申すのである。それは一般的に言うと良いことである。十年前は、性差別や暴力に無関心な人たちが多かった。それが今は、どんな形であれ、「なにか言いたい」気分が広がっている。社会を変えるためには、多くの人たちの目に触れる形で問題を議論の俎上に上げなければならない。

 ただし、この場合、フェミニズムの支持派も反対派も、主張の色合いは変わるだろう。正直に言えば、私は十年前の濃密なフェミニズムの議論の方が、苛烈ではあっても刺激的で、魅入られる部分があった。もちろん、私も二十代であり、若かったのもあると思う。今のフェミニズムの議論は「自己の葛藤」よりも「何が正しいか」「どちらがより良いか」という議論が中心であり、私はあまり惹かれない。また、性についての自己吐露的な言明であっても、もうその型が出来上がってしまったように感じることもある。これは私が歳をとって感受性が鈍ったことが原因でもあるだろう。

 なんにせよ、フェミニズムは変わった部分もあれば、変わらなかった部分もある。私は変化した部分は肯定的に捉えてよいと考えている。時代に応じて社会運動は変わっていく。私は「私が何をするのか」が重要であり、流れの中で泳いでいくだけだと思っている。

 

*1:名乗ってない人をフェミニストと呼ぶのはおかしいし、やめるべきだ。

あけましておめでとうございます。

 昨年*1は、ありがたいことに、自著の初刷が完売*2しました。現在、出版社でも在庫切れになっています。誤記・誤訳の修正*3が終わり次第、増刷していただけることになっております。ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください。

 

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

  • 作者:小松原織香
  • 出版社/メーカー: 成文堂
  • 発売日: 2017/11/12
  • メディア: 単行本
 

  現在は、主に「環境問題と修復的正義」の研究を進めています。やっと、まとまった論文を書くことができました。自分なりの修復的正義の探究の方向性を明確にできましたので、本格的な研究のスタートラインに立てたように思います。

〈被害者の情念〉から〈被害者の表現〉へ 水俣病「一株運動」(1970 年)における被害者・加害者対話を検討する

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201904.pdf

 今後は、「環境問題と修復的正義」の理論研究と実践研究の二本柱で進めていく予定です。海外での研究や英語での成果報告も増やしていきたいと思っています。

 また、京都大学のLaÿna Drozさんと、アジア環境哲学ネットワーク(Network of Asian Environmental Philosophy)を立ち上げて活動しています。

Network of Asian Environmental Philosophy

asiaenviphilo.com

 これまで、日本のアカデミズムの中で「居場所がない」という悩みを抱えていたのですが、思い切って海外に飛び出してみると、似たようなことを研究している人はたくさんいました。「一緒に仕事をしよう」と声をかけられることもあります。私は中学生の時から英語が苦手ですので、英語で仕事をするのはつらいところもあるのですが、フィットする場所がある限りは、これからも英語を勉強して国際交流・発信に尽力したいと思っています。

 それに加えて、私の研究の大きな転換としては、アートやアニミズムの問題に言及し始めたことです。こちらは、英語での成果報告がこれまでメインでしたが、もう少し日本語でも書いていこうと思っています。エコロジー思想の再評価や、石牟礼道子を中心とした文学作品の検討を通して、スピリチュアリティの問題に足を踏み入れています。もともと、私は学部時代は美学及び芸術学専攻で、アートと政治の問題を研究するつもりだったので、原点に帰ってきたと言ってもいいかもしれません。他方、こうした問題についての報告は、国際学会でも関心をもたれやすくなっていますので、「潮目」のようなものが来ているようにも思います。

 また、偶然ですが、これまではてなでよく記事を読んでいた、名取宏さんが「偶然性の問題*4」に言及し、熊代享さんが「スピリチュアルな問題」に言及していました。文脈はそれぞれ違いますし、私がこの問題に付き合ったのも、ライフヒストリーと絡み合っているので、個人的な問題でもあります。それでも、これはひとつの時代の気分でもあるかしれないとは思っています*5

名取宏「何も悪いことをしていなくても人々は病気になる」

何も悪いことをしていなくても人々は病気になる - NATROMのブログ

 

熊代享「拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊」 

拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊 - シロクマの屑籠

 

*1:昨年は祖母が亡くなり、喪中でしたので、新年のご挨拶は控えていました

*2:類書では例のないほどの売れ行きだそうで、感謝の気持ちでいっぱいです。

*3:やってもやっても、終わりません。初刷をご購入いただいたみなさまには、本当に申し訳ない気持ちでいます。正誤表をネット上でアップするつもりです。

*4:「医療行為が確率論でしかない」と宣言することは、偶然性の問題に足を踏み入れることになります。それは、私たちはなんらかの選択をするときに確実性を失い、偶然に「賭ける」ことになるということです。神様を信じている人であれば、「神の采配」に身を委ねることになりますが、無信心者は自己の決定に全ての責任を引き受けることになります。重大な決定(たとえば命に直結する治療をするかどうか)を前にして、神なき時代を生きる人々がどう耐えうるのかという問題が出てきます。「偶然性」はポストモダン思想でよく論じられた課題です。私はこれまでの名取さんの記事を読んだ印象からは、こっちの方向に言及することは意外だったし、びっくりしました。

*5:何の確証もない、単なる私の年末年始の感想です

あけましておめでとうございます。

 昨年*1は、ありがたいことに、自著の初刷が完売*2しました。現在、出版社でも在庫切れになっています。誤記・誤訳の修正*3が終わり次第、増刷していただけることになっております。ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください。

 

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

  • 作者:小松原織香
  • 出版社/メーカー: 成文堂
  • 発売日: 2017/11/12
  • メディア: 単行本
 

  現在は、主に「環境問題と修復的正義」の研究を進めています。やっと、まとまった論文を書くことができました。自分なりの修復的正義の探究の方向性を明確にできましたので、本格的な研究のスタートラインに立てたように思います。

〈被害者の情念〉から〈被害者の表現〉へ 水俣病「一株運動」(1970 年)における被害者・加害者対話を検討する

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201904.pdf

 今後は、「環境問題と修復的正義」の理論研究と実践研究の二本柱で進めていく予定です。海外での研究や英語での成果報告も増やしていきたいと思っています。

 また、京都大学のLaÿna Drozさんと、アジア環境哲学ネットワーク(Network of Asian Environmental Philosophy)を立ち上げて活動しています。

Network of Asian Environmental Philosophy

asiaenviphilo.com

 これまで、日本のアカデミズムの中で「居場所がない」という悩みを抱えていたのですが、思い切って海外に飛び出してみると、似たようなことを研究している人はたくさんいました。「一緒に仕事をしよう」と声をかけられることもあります。私は中学生の時から英語が苦手ですので、英語で仕事をするのはつらいところもあるのですが、フィットする場所がある限りは、これからも英語を勉強して国際交流・発信に尽力したいと思っています。

 それに加えて、私の研究の大きな転換としては、アートやアニミズムの問題に言及し始めたことです。こちらは、英語での成果報告がこれまでメインでしたが、もう少し日本語でも書いていこうと思っています。エコロジー思想の再評価や、石牟礼道子を中心とした文学作品の検討を通して、スピリチュアリティの問題に足を踏み入れています。もともと、私は学部時代は美学及び芸術学専攻で、アートと政治の問題を研究するつもりだったので、原点に帰ってきたと言ってもいいかもしれません。他方、こうした問題についての報告は、国際学会でも関心をもたれやすくなっていますので、「潮目」のようなものが来ているようにも思います。

 また、偶然ですが、これまではてなでよく記事を読んでいた、名取宏さんが「偶然性の問題*4」に言及し、熊代享さんが「スピリチュアルな問題」に言及していました。文脈はそれぞれ違いますし、私がこの問題に付き合ったのも、ライフヒストリーと絡み合っているので、個人的な問題でもあります。それでも、これはひとつの時代の気分でもあるかしれないとは思っています(これは単なる私の年末年始の感想です)。

名取宏「何も悪いことをしていなくても人々は病気になる」

何も悪いことをしていなくても人々は病気になる - NATROMのブログ

 

熊代享「拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊」 

拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊 - シロクマの屑籠

 

*1:昨年は祖母が亡くなり、喪中でしたので、新年のご挨拶は控えていました

*2:類書では例のないほどの売れ行きだそうで、感謝の気持ちでいっぱいです。

*3:やってもやっても、終わりません。初刷をご購入いただいたみなさまには、本当に申し訳ない気持ちでいます。正誤表をネット上でアップするつもりです。

*4:「医療行為が確率論でしかない」と宣言することは、偶然性の問題に足を踏み入れることになります。それは、私たちはなんらかの選択をするときに確実性を失い、偶然に「賭ける」ことになるということです。神様を信じている人であれば、「神の采配」に身を委ねることになりますが、無信心者は自己の決定に全ての責任を引き受けることになります。重大な決定(たとえば命に直結する治療をするかどうか)を前にして、神なき時代を生きる人々がどう耐えうるのかという問題が出てきます。「偶然性」はポストモダン思想でよく論じられた課題です。なので、私は名取さんがこっちの方向に言及することは意外だったし、びっくりしました。