中村一成「ヘイトクライムへの修復的アプローチを考える」

法学セミナー2015年7月号

法学セミナー2015年7月号

 2015年の法学セミナー7月号に、中村一成ヘイトクライムへの修復的アプローチを考える」が掲載されている。これは、日本でのヘイトクライム*1に対する、修復的司法(restorative justice)の可能性を模索した、おそらく初めての論考である。ヘイトクライムに対する修復的司法実践の可能性については、マーク・A・ウォルターの『ヘイトクライムと修復的司法』が公刊されたところで、国際的にも注目を浴びている分野である。ヘイトクライムは、加害者が被害者に対して深い憎悪を持っているため、長らく修復的司法では禁忌とされてきた。しかしながら、そうしたヘイトクライムは、裁判で厳しい判決が出ても加害者の更生につながらず、難しいとされてきた。加害者は差別意識によって、自己正当化を続けるからである。そこで、被害者との対話を通して、加害者が変容していく可能性を修復的司法は探るのである。
 中村さんは、この問題について考えるきっかけには、京都朝鮮学校襲撃事件があったという。以下のように述べている。

 筆者がヘイトクライムにおける修復的司法の可能性を感じたのは、京都朝鮮学校襲撃事件(以下、京都事件)の被害の聴き取りを本格化させた2013年、二人の保護者の言葉に触れたことが契機だった。事件当時、オモニ会(母親会)の会長を務めていたある保護者は、民事法廷の柵の向こうで繰り返される無反省な加害者の暴言を浴びながら、それでも弁論を傍聴していた。その理由を尋ねると、彼女は次のように答えた。「悔い改めるのを見たい。やったことは許されないことだけど、どこかで同じ人間として通じる部分を見つけたい」。もう一人は事件時、アボジ会(父親会)副会長だった人物だ。彼が加害者を決して「奴ら」などと呼ばないことを指摘すると、彼は言った。「どこかで彼らが同じ人間であることを手放したくないんです」。
 二人は加害者の可変性に賭けていた。綺麗事の話ではない。彼らは今後もこの社会で、マジョリティとの厳然たる「力関係」のなかで、彼らと共に生きていかねばならない。(後略)
(49ページ)

 以上で中村さんが述べるように、京都事件に直接関わる保護者たちのなかには、「加害者が変わること」と望む人たちがいた。朝鮮学校は、直接的な襲撃事件の前からも、多くの「日本人」の差別や偏見にさらされ続けていた。この後の記事で中村さんは、「日本人」の見学を受け入れる朝鮮学校の姿勢を例に出し、相互理解を進めることでやっと「生きる権利」が護られるマイノリティの厳しい状況を述べている。地道に積み上げてきた、共に生きるための信頼関係が破壊されたの京都事件であり、それを再構築することを模索する保護者がいたことを、中村さんの記事は明らかにしている。
 他方、裁判において、京都事件の加害者は刑事・民事で厳罰に処せられることとなった。これは歴史的勝利であり、裁判所判決に「人種差別」の文言を書き込ませた功績は大きい。それでも、こぼれ落ちる被害者の気持ちがあったことも、中村さんは次のように書いている。

 保護者たちの傍聴理由で最も多かったのは、なぜあんなことをしたのか、「理由を知りたい」、「なぜ私たちを敵視するのか」だった。だが、被告の大半は何一つ反省していなかった。法廷で開陳されたのは、加害者の理解不能朝鮮人敵視や差別と、まるで正義に殉じた「受難者」のごとく振舞う態度だった。「いかに加害者が愚かで、かつ無反省か」を法廷で示すことは、裁判上は「勝訴」へと繋がる。原告側にとっては、ある意味、歓迎すべきことである。法廷での対立状況が先鋭化すればするほど、加害者の言動は酷くなり、裁判官の心証を悪くし、被害者を有利にする。それは勝訴の「レベル」を上げるのだが、しかし、そうなればはるほど、「悔い改めるのを見たい」「人間として通じ合える部分があるかもしれない」という被害者の思いからかけ離れていく。
(50ページ)

 以上のように、法廷闘争ではヘイトクライムの被害者の思いが、なかなか通じないことが、中村さんの記事でわかる。そこで、被害者と加害者の対話を重んじる修復的司法に焦点が当たるのである。日本ではヘイトクライムに対する修復的司法の実践例はないが、中村さんは、2003年に発生した「大量連続差別ハガキ事件」にその可能性を見出す。
 中村さんによると、この事件では、約2年間の間に、400通の差別ハガキが、部落解放同盟ハンセン病国立療養所「菊池恵楓園」などに贈られた。中でも、浦本誉至は100通もの差別ハガキを送られている。浦本さんは警察に届けるが、「自作自演である」とみなされる差別を受けた。そこで、仲間とハガキの書き手を探すことになった。苦しい状況ではあったが、ついに34歳の男性が逮捕されて私的偽造・同行使などで実刑判決を受けた。だが、裁判中も加害者は「表現の自由」を主張して浦本さんの受けた苦しみや痛みに向き合うことはなかった。
 そこで、浦本さんは手紙によって対話の準備を進め、3年後に糾弾会を開いた。もともと、糾弾会は被害者と加害者が「対話」する場ではない。だけれど、冷静な言葉のやり取りの中で、加害者は浦本さんの痛みに思いをはせるようになったという。浦本さんは次のように語っている。

「事件の時は見つけ出して徹底糾弾してやると思っていたけど、実際に交流する中で私自身、変わった。数々の挫折を経験し、高い自己イメージの一方で、非正規を強いられている彼の境遇も分かった。私が彼の立場なら、同じような犯罪をしなかったとは断言できない。私たちを攻撃対象にした原因が無知であることも見えた」

「差別をする人とされる側に明らかな断絶がある。それをどうやって乗り越えるか。一方的にぶつけては乗り越えられないと思う。まず断絶があることを理解する。理解して目的意識をもっていかに乗り越えるかを考えないと何も変わらないと思う。この社会には無知を改め、反省を促す回路がない。大きく言えば、日本で死刑が続くのは、見える形で人が反省に至るプロセスがこの国にないからだと思う」

 浦本さんは、糾弾会での交流を通して、「自分も変わった」ことを述べている。そして、加害者が「反省するための回路がない」ことを指摘している。学ぶ場や、後悔を促す場がないのである。だから、加害者に「反省しろ」といっても、本人にも反省する方法がわからない。もちろん、「無知でいられること」「反省を強いられないこと」はマジョリティの特権でもあり、加害者に責任がある。しかし、「無い」ものは「無い」。
 中村さんは同じことが京都事件でも起きているという。白々しい「反省」の身振りは空疎であるし、本当に後悔しているとしても、自己の行為を批判的に省みて、謝罪と更生に結びつける力も助けもないのである。以下のように述べている。

 本人も言語化できない段階で表出される「反省」の芽を育て、花開かせる筋道がないのだ。その芽を育てること、それは加害者の「更生」のためだけではない。加害者の可変性ーー加害者もまた、被害者の痛みに思いを馳せうる人間であると示されることーーは、何よりも被害回復に必要なのだ。とりわけ確定的悪意と憎悪を知ってしまった子どもたちが世界と「和解」するためには。

 以上のように、中村さんは加害者の反省が、被害者の回復にも寄与することを指摘している。ヘイトクライムに対する修復的司法とは、加害者を免じたり、罪の意識を和らげたりするものではない。一度壊れてしまった、マイノリティとマジョリティの間の、信頼関係を再び築いていくために、一歩を踏み出すうとするステップである。
 もちろん、すべての被害者が修復的司法を望むわけではない。厳罰を望む場合もあれば、加害者を強い言葉で非難する場合もあるだろう。それでも、これまで省みられなかった、被害者の思いを修復的司法が拾い上げることができる可能性はある。中村さんの記事は、その繊細で小さな営みを丁寧に描き出していると思う。
 私は、個人的にマーク・A・ウォルターに会って話をしたことがある。徹底的な被害者への寄り添いから、ヘイトクライムに対する修復的司法を思考している研究者だと感じた。また、実践者ともあったが、日々繰り返される、差別行為の中で、なんとか抵抗の糸口を探そうと修復的司法に取り組んでいることを教えてくれた。まだまだ、模索中の分野ではあるが、注目が集まると良いと思っている。

*1:差別に基づく憎悪感情によって起こされる犯罪

ジョージ・ミラー「マッドマックス 怒りのデス・ロード」

 あんまりにも評判がいいので「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観に行ってきた。ネットではフェミニズム映画かどうかが議論になっているようだが、私はこの作品は男性監督の「男の夢みるフェミニズム」の映画だと思った。抑圧され奴隷化された男性が、女性たちと共闘する物語なのである。以下はネタバレを含むので、観る予定のある人は読まないこと推奨。(アクションシーンなど、フェミニズムに関する話以外の感想はすべて割愛しています)

ジョージ・ミラー「マッドマックス 怒りのデス・ロード」
http://wwws.warnerbros.co.jp/madmaxfuryroad/

続きを読む

日本「性とこころ」関連問題学会 第7回学術研究大会

 「性とこころ」関連問題学会で、一般演題で報告します。内容は、性暴力事例における修復的司法についてで、心理セラピストが主導して展開しているプログラムに焦点を当てます。
 性暴力事例は、長らく修復的司法でも禁忌とされてきました。特にセラピストからは、再被害の危険やトラウマ反応の悪化を心配して、慎重論が出ています。他方、近年、急速にヨーロッパでは「性暴力と修復的司法」に関心が高まっています。これは、西欧諸国で刑事司法改革が進められてきたにも関わらず、被害者が被害届を出せない状況が続いていることも背景にあります。
 日本では、性暴力についての刑事司法改革が、西欧にならって行われてきた側面があります。私もその多くに賛同します。日本の性暴力についての法律や法の運用は、非常に問題があり、西欧諸国のように改革が必要です。
 他方、刑事司法手続きでは、証拠や証言の一貫性が求められます。そのため、性暴力被害者は繊細な感情を切り捨てて、裁判に挑まなければなりません。もちろん、そうした努力をすることで、性暴力被害者は、反性暴力運動の礎を築いてきました。しかしながら、刑事司法改革が進められても、やはり「刑事司法」の枠組みと、性暴力の問題はそぐわないことがあります。
 こうした問題に率直に向き合っているのが、性暴力事例における修復的司法に取り組むセラピストたちだと、私は現時点では思っています。司法に関する理念ではなく、現場の性暴力被害者のニーズからプログラムが展開されているように思います。
 昨年、フライブルク(ドイツ)で開催された性暴力のセラピーと修復的司法に関するワークショップや、ルーヴァン(ベルギー)で開催された性暴力と修復的司法についての国際学会に参加し、直接に実践者の議論も聞くことができたので、それについても触れたいと思っています。
(私は一般演題で報告します。開始は10時5分ごろの予定です)

日本「性とこころ」関連問題学会 第7回学術研究大会
2015年6月27日(土)ホテルメトロポリタン池袋
http://jssm.or.jp/7thmeeting/

第11回RJ全国交流会のご案内

 今週末にRJ全国交流会が開催されます。この会は、一年に一度、RJに関心のある人たちが全国から集まる場所になっています。実践者がたくさん参加します。研究者以外の方もぜひご参加下さい。

第11回RJ全国交流会のご案内

 第11回RJ全国交流会を下記のとおり開催する運びとなりました(RJは,
“Restorative Justice”(修復的司法,修復的正義)の略称です)。
 当交流会は通常の学会とは異なり,参会者が相互に知り合い,言いたいこと,
聞きたいこと,答えたいことを遠慮なく発言できる場にしたいと思っております。
 万障お繰り合わせのうえ,ご参加くださいますよう,お願い申し上げます。

               西村春夫,前野育三,細井洋子,高橋則夫
              (幹事世話役:平山真理,黒澤睦,外村晃,柴田守)

               記

1.日 時
 2015年6月14日(日)10時00分〜17時55分(9時45分受付開始)
  ※日本被害者学会第26回学術大会の“翌日”です。
  ※プログラム終了後,懇親会を予定しております。

2.会 場
 早稲田大学早稲田キャンパス) 9号館 5階 第1会議室
 〒169−8050 東京都新宿区西早稲田1−6−1
 〔交通アクセス〕http://www.waseda.jp/top/access/waseda-campus
 〔キャンパス案内図〕http://www.waseda.jp/top/assets/uploads/2014/10/waseda-c
ampus-map.pdf

3.プログラム
 後掲のとおりです。
 プログラムに昼食時間を1時間とっておりますが,その間も自由に交流できますので

 お弁当を持参していただけるとよりよいです(大学周辺にコンビニが数店あります)

4.参加費
 500円(資料印刷代を含む)
  ※当日,受付にお持ちください。
  ※報告者と学生・院生は無料です。

5.その他
 交流会は入場自由です。ご友人知己をお誘いください。
 このご案内も転送・転載していただいて構いません。

以 上 

続きを読む

なぜ、あなたが加害者を憎むのか?

 昨日、記事*1で紹介した元少年Aの本を入手して、怒りの記事*2をあげている人がいる。

「少年A 神戸連続児童殺傷事件加害者の手記「絶歌」のあとがきに怒りに震えた」http://quadstormferret.blog.fc2.com/blog-entry-224.html

 この記事を書いた人は加害者を許せないとし、「何をしても許すつもりなどありません」「本当の裁きがあなたにくだされることを願って止みません」などの扇情的な表現を繰り返している。本文を読まずにあとがきを判断することはできないので、私からはこの評が妥当かどうかはわからないが、少なくとも書いた人が加害者に憎しみを抱いていることは伝わった。これは、記事を書いた人が特別抱く感情ではない。昨日の記事でも、「金銭目的である」「読むべきではない」と加害者を断罪するブックマークコメントがいくつもついている。
 私がわからないのは、「なぜ、あなたが加害者を憎むのか?」ということである。被害者が加害者を憎むのは当然のことだ。私自身、被害者の絞り出すような「ゆるせない」という声をなんども直接に聞いてきた。私はそれは当然の感情だと思う*3。だが、なぜ第三者がそんなに憎むのかはわからない。加害者が手記を出すことで、裏切られた気持ちになる被害者・遺族がいたことは重く受け止めなくてはならない。だが、(被害者でも遺族でもない)「私たち*4」が裏切られたわけではない。手記を出版して内容がまずかったとしても、不法行為ではないし、それで「私たち」が傷つけられたわけではないのだ。
 また、被害者・遺族の気持ちは一枚岩ではない。多くのマスコミ報道では、「加害者に怒りを向ける被害者」がクローズアップされる。その裏側では、マスコミ関係者に「視聴者の共感が得られない」として、取り上げられない被害者・遺族もいる。マスコミ関係者は、視聴者が「加害者への憎しみ」に同一化するために、捏造ではなくても「情報の選別」や「演出」を行っている。同じ事件でも、被害者・遺族によって異なる感情を持つことがある。さらに、被害者・遺族が、家族の中で感情的に対立し、苦しむこともある。「私たち」が頭に思い描く被害者・遺族が実情とずれていることもよくある。「被害者の気持ちを考える」という真摯な気持ちが、いつの間にかマスコミの扇動に乗っている場合もあるのだ。にも関わらず、マスコミ関係者の中には、丁寧に被害者・遺族の取材を行っている人もいる。だが、そうした地味で堅実な報道を「私たち」が見逃したり、切り捨てたりしていることもある。
 加害者への憎しみをあらわにする前に、立ち止まったほうがいいことがある。念のために書いておくが、「加害者を憎む気持ち」は私は人一倍大きいと思う。それはマスコミだけではなく、直接に被害者・遺族の話を聞く中で蓄積されてきた「ゆるせない」という思いであり、そう思わなければ被害者・遺族に申し訳ない考える(勝手で一方的な)義務感でもある。だが、それとは距離を取りたいと思っている。自分では誠実に被害者・遺族に向き合っているつもりでも、かれらの憎しみを勝手に作り出して虚像を生み、自分の感情を発散するための道具にしてしまう危険は、どこにでも誰にでもある。つまり、「当事者でないことをわきまえよ」ということである。
 私がこんな風に思うのは「研究者だからだ」と考える人もいるようだ。確かに、私は研究者であり、他の人とは犯罪の問題に対する関わり方が違う。たくさんの手記を日常的に読み、実際に被害者・遺族にお会いすることがある。法律学者や弁護士から刑法の解釈を聞いたり、刑務所で処遇をしている刑務官と話をすることもある。加害経験がある人や、受刑者と話すこともある。その中で私の犯罪に関する考え方は変わってきたとも思う。それでも、私は大学院に入学する前(研究者になる前)から根っこのところはあまり変わらないだろう*5。被害者の気持ちも、加害者の気持ちも、第三者にはわからない。だから、第三者がすべきことは両者の利用する制度について考えることだ。それは、被害者支援制度であったり、個人情報保護であったりするのかもしれない。また、刑務所や少年院、保護観察、出所者の支援、警察の対応、加害者の家族を支えるネットワークなどかもしれない。
 加害者を憎むよりも、社会制度について考えたい。その基本的な考えはずっと変わっていない。当事者の実情を丁寧に聞き取り、社会制度のきちんと整備することについて考えることが、第三者である「私たち」のすべきことである。
 以下、加害者の問題やマスコミ報道について、参考になりそうものを並べておく。

心にナイフをしのばせて (文春文庫)

心にナイフをしのばせて (文春文庫)

謝るなら、いつでもおいで

謝るなら、いつでもおいで

弟を殺した彼と、僕。

弟を殺した彼と、僕。

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

セカンドチャンス!―人生が変わった少年院出院者たち

セカンドチャンス!―人生が変わった少年院出院者たち

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

追記

 この記事は「個人」間の犯罪の問題だが、「国家」間の戦争の問題を持ち出す人がいる。「戦争責任」の問題が難しいのは、悪行の責任が個別の「加害者」ではなく、「集団」にあることだ。並列して論じることはできない。

 

*1:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20150610/1433910920

*2:この記事は「あとがき」を丸々載せているのだが、これでは内容を無料公開している状態で問題になるのではないか。私も引用はよくするし、線引きは難しいところだ。引用を見る限り「あとがき」は独立した文章になっており、これでは「部分引用」ではなく「無断転載」にあたる可能性がある

*3:「赦し」の問題をやっているので、「赦したほうがいいいと思っている」と言われることもあるのだが、そんなことはない。別に被害者は一生赦さなくてもいいと思う。赦さなくても被害者は幸せになれる

*4:「第三者」や「一般市民」とされている人たち

*5:この記事に、犯罪に関する記事をまとめている→ http://d.hatena.ne.jp/font-da/20120221/1329816926

元少年Aの手記の出版

 神戸連続児童殺傷事件の、加害者であった男性が手記を出版した。太田出版から『絶歌』というタイトルで書店に並ぶ予定らしい。

「神戸連続児童殺傷事件、元少年が手記出版」(朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASH695KC1H69UCVL01C.html

手記は全294ページ。「精神鑑定でも、医療少年院で受けたカウンセリングでも、ついに誰にも打ち明けることができず、二十年以上ものあいだ心の金庫に仕舞い込んできた」として事件前からの性衝動を明かし、犯行に至るまでの自身の精神状況を振り返っている。

 後半では、少年院を出院してからの社会復帰についても綴られているとのこと。
 実は、4月にこの事件について井垣康弘文藝春秋神戸家裁の決定全文を公開している。井垣さんは、裁判官で神戸連続児童殺傷事件の審判を担当し、医療少年院送致を決定した。井垣さんはこの事件では、少年が自分の「脳の未発達」と「性的なサディズム」に苦悩したことで事件を引き起こしたと指摘してきた。「脳の発達についての説明」や「保護者や周囲の人々の見守り」があれば、事件は食い止められた可能性を示唆してきた。そして、事件の全容を世間に知らしめ、凶悪事件の防止には厳罰ではなく「加害を起こしてしまう少年たち」へのサポートが必要だと訴えてきた。裁判官から退官後は、弁護士として活動してきた。
 しかしながら、4月の全文公開は、遺族の平穏な生活や加害者本人の社会復帰を妨げるものとして厳しく批判されている。井垣さんは、決定全文は公開を前提にして書かれたものだというが、審判時点では「要旨」のみが発表されている。それを個人の一存で覆したことについて、「ひょうご被害者支援センター」から抗議が出ている。

「神戸連続児童殺傷事件 文芸春秋に抗議文 被害者支援センター」(神戸新聞NEXT)
https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201504/0007919868.shtml

 センターの井関勇司理事長は抗議文で、「遺族は最愛の子が殺害された際の具体的状況について、あらためて広く公表されるのを望んでいないことは言うまでもなく、いたたまれない心境に置かれている」と指摘。
 「掲載行為は、人格権侵害や精神的苦痛など遺族の被る二次被害について検討した形跡が全くなく、極めて配慮を欠いている」と非難。「事件から18年後に全文を公表することが国民の知る権利に資するとも考えられず、報道の自由の名のもとに、理由なく他者の権利利益を侵害することは許されない」とした上で、文芸春秋に対し、5月号の速やかな回収を求めている。

文芸春秋の回収求める 神戸連続児童殺傷の決定書めぐり」(朝日新聞デジタル
 同センターは、事件で次男(当時11)を亡くした土師(はせ)守さん(59)が監事を務める。抗議文では「非公開であるべき文書を公益的観点から特段の必要性も認められないのに公表した」と批判。「平穏な生活を取り戻しつつある遺族に、重大な二次被害を与える」として、速やかに回収するよう求めている。

 この件で、井垣さんは所属する大阪弁護士会から懲戒請求を出されている。

「井垣元判事を懲戒請求 少年審判全文掲載で」(神戸新聞NEXT)
http://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201505/0008061649.shtml

 神戸市で1997年に起きた連続児童殺傷事件をめぐり、今年4月発売の月刊誌「文芸春秋」に掲載された少年審判の決定全文を外部に提供したなどとして、元神戸家裁判事の井垣康弘弁護士が、所属する大阪弁護士会懲戒請求されたことが26日、分かった。井垣氏が明らかにした。

 こうした井垣さんの一連の全文公開の問題があった後、手記が公刊されているので、関連はあるのではないかと思う。井垣さんは、少年事件で加害者がモンスター化され、厳罰を求める声に対して、事件の詳細を見ていけば少年たちの生育歴や障害の問題だとわかると訴えてきた。しかし、そのやり方として、突然の全文公開や手記の公刊が適切だったのかはわからない。

少年裁判官ノオト

少年裁判官ノオト

 それでも、今回の手記の件に関して、ブクマなどを見ていると「死刑にしろ」「読む必要はない」というコメントが多く、マスメディアで受ける「凶悪な加害少年」というイメージはいまだに広く流布されていることは間違いないと思う。内容を見ていないので、本についてはわからないが、犯罪加害者への理解を進めることは必要なのだろうと思う。
 私自身、被害者支援から出発しているので、加害者の問題には取り組むのはスタートは遅く、今も決して詳しくはない。それでも、少年院の教官たちが、暴力衝動をコントロールできず、触法行為を繰り返す少年たちと向き合っていることは伝わってくる。その矯正教育がうまくいっても、いかなくても、現場の人は逃げられない。かれらを少年院や刑務所に追い払ったり、死刑にして殺したりしても、社会から「犯罪」という問題はなくならないし、改善もされないだろう。「被害者のために」「新たな被害者を生まないために」できることとは、まずは「今まで起きた事件を知ること」が必要なことは言うまでもない。
 ところで、手記の刊行には感情的な反発が多い。特に「「自分の物語を自分の言葉で書いてみたい衝動に駆られた」などとして、書くことが生きる支えになっていたことも明かしている」という部分が批判されているようだ。そのことで、かつて、手記を出版した永山則夫のことを思い出した。1968年に連続射殺事件を起こし、4名を無差別に殺した。過酷な生育歴が明らかになり、当時は未成年であったこともあり、何度も減刑が試みられたが死刑が確定した。1997年に死刑執行されている。獄中記や自伝的小説を出版し、その作品についての評論も出ている。永山さんは特異な才能を持った人だとは思うが。
捨て子ごっこ

捨て子ごっこ

無知の涙 (河出文庫)

無知の涙 (河出文庫)

【人と思考の軌跡】永山則夫---ある表現者の使命 (河出ブックス)

【人と思考の軌跡】永山則夫---ある表現者の使命 (河出ブックス)

追記

 ご遺族の一人から、出版中止を求める声が出ている。

「加害男性の手記「今すぐ出版中止を」土師さん 神戸連続殺傷事件」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150610-00000008-kobenext-soci

 彼に大事な子どもの命を奪われた遺族としては、以前から、彼がメディアに出すようなことはしてほしくないと伝えていましたが、私たちの思いは完全に無視されてしまいました。なぜ、このようにさらに私たちを苦しめることをしようとするのか、全く理解できません。

性暴力に関する司法制度についての入門書

 私は法学専攻ではないので、いつも司法制度について勉強するのには苦労しています。判例集なども見ますが、性暴力事例は残念ながら、あくまでも「法律の専門家」によって書かれており、「性暴力の専門家」がコメントしているものは稀です。
 同じく、司法に関心ある方のために参考になった本を挙げておきます。(他にもあれば教えて下さい)

大阪弁護士会人権擁護委員会性暴力被害検討プロジェクトチーム『性暴力と刑事司法』

性暴力と刑事司法

性暴力と刑事司法

 弁護士、研究者、カウンセラーなどが共同執筆した入門書。判例の分析や、性暴力に関する法律・制度の問題点、各国の状況がまとめられている。2014年に刊行されており、入門書に良いと思う。

吉川真美『女子のための「性犯罪」講義ーーその現実と法律知識』

女子のための「性犯罪」講義―その現実と法律知識 (Social Compass Series)

女子のための「性犯罪」講義―その現実と法律知識 (Social Compass Series)

 刑事司法手続きをコンパクトにまとめてある。具体的な判例の検討が多く、「学生からの質問」という形で、司法関係者以外にもわかりやすく解説している。

第二東京弁護士会 両性の平等に関する委員会 司法におけるジェンダー問題諮問会議編『事例で学ぶ司法におけるジェンダー・バイアス』改訂版

事例で学ぶ 司法におけるジェンダー・バイアス【改訂版】

事例で学ぶ 司法におけるジェンダー・バイアス【改訂版】

 家事事件(離婚等)、性暴力、労働裁判、DV、セクハラ、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(中絶等)、外国人問題(人身取引等)などの問題を、ジェンダーの視点から取り上げた一冊。具体的な事例が豊富に挙げられている。