「弱者男性」は何を望むのか?

 数年前から「弱者男性」という言葉がインターネット上で流通するようになっている。定義は明確ではないが、マイノリティ属性(「障害者」「セクシュアルマイノリティ」「生活困窮者」「民族的少数者」など)を持たないが、不安や困難を抱える男性のことだろう。問題は、「弱者男性」は「フェミニズム」批判のために出てきた概念だということだ。
 最近話題になったのは以下の記事だ。

「決して救われない社会的弱者「キモくて金のないおっさん」について語る」
http://togetter.com/li/824984

「弱者男性とフェミニズム
http://shibacow.hatenablog.com/entry/2015/05/24/202444

 男性側からの「弱者男性」への反論と、それに対する再反論が以下である。

「いい加減“弱者男性”をフェミニズム批判の道具にするのをやめろよ。
http://anond.hatelabo.jp/20150524050514

「「弱者男性」の敵はマチズモ」
http://anond.hatelabo.jp/20150525015701

フェミニズムには、男性のジェンダー不平等も解消する義務がある」
http://anond.hatelabo.jp/20150525142655

 私がざっと見たところ、かれらの主張を要約するとこうである。

かつて男女差別が苛烈であったころは、女性は圧倒的な社会的弱者であった。しかし、フェミニズムの台頭で社会は変革され、男性以上に賃金を稼ぐ女性もいる。だから、フェミニズムは女性ばかりを救済するのではなく、稼ぎの少ない「弱者男性」を救うべきだ。稼ぎの多いフェミニストは、「弱者男性」と結婚しなければならない。

 この主張は曖昧でよくわからない。だから疑問が次々と湧いてくる。

フェミニズムは女性の自助的なつながりから始まった。だから、運動の筋から言っても、仮に救済に優先順位をつけるならば、「賃金を稼げない女性」が最優先ではないか。
・「稼ぎが少ない」とはどの程度のことをいうのか。生活を賄える程度の稼ぎがあるのならば、福祉の対象ではない。また、フェミニズムの到達目標は女性が自活するために稼ぐ労働環境を得ることであり、十分「弱者男性」については到達されていると言える。
フェミニズムの多くは結婚制度に批判的である。廃止論を主張するフェミニストも珍しくはない。結婚制度を基盤にした社会扶助を「現実的な方策」としてとることがあっても、積極的にすすめることはないだろう。ましてや、「高所得男性はフェミニストと結婚すべきだ」という主張は今まで見たことがない。
・従来の結婚制度を反転させた形で、「弱者男性」がかつての女性のような妻役割を担うとするならば、それは家庭内のケアワーカー(無賃)になるということである。それが「弱者男性」の望みであるならば、まずはケア技術を上げるべきだ。

 以上のようなことを考えていると、「弱者男性」が欲しいものは「甘えられる女性」なのではないかという疑問が浮上する。すなわち自分を「ケアしてくれる女性」である。
 女性が社会的に「ケア役割」を持たせられることは、フェミニズムでもここ数十年議論になっていることである。有名になったのはキャロル・ギリガン「もう一つの声」だ。(日本語訳が絶版になって久しく、図書館などで探すしかない)

もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ

もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ

 ケアとは、「相手を慮り、自己利益ではなく他人の利益を優先してものごとを考え、相手の世話をすること」である。男性中心文化では、「自己利益を優先し、論理的に思考して自分の正しいと思うことを通すこと」の価値が高く置かれる。他方、女性中心に文化では「ケア」の価値が高く置かれ、親密な関係が維持されている。しかしながら、社会の文化は男性中心であるため、「ケア」の価値は不当に貶められている。
 本来、ケアは生物学的な特質には関わらないため、男性であっても「ケア」をすることは重要であるというのがケアのについての主流の議論だ。多くの女性はむしろ積極的にケア役割を引き受け、価値付けていることが多い。だからこそ、「結婚して家族をケアすること」に重きをおく。この状況に対しては、「男性もケアをするべき」というのと「女性のケアに高い価値を付与する」というのの両面から、「不平等をなくしていこう」というのがフェミニズムのスタンダートな主張といえるだろう。
 しかしながら、「弱者男性」の不満は「自分がケアを分担できないこと」ではなく、「ケア役割」の女性が自分に配分されないことのように見える。それも、上で想定されているような生活上のケアだけではなく、金銭的な援助も含む。それも無賃で親密性の中で与えられたいというのだ。こうした要求に応えるフェミニズムは、ほとんどいないと思う。ただ、以下のような「弱者男性」運動が起きた時に、フェミニズムが妨げることはないように思われる。
(1)最低限のケアを配分を要求する運動
 もちろん、ケアが必要な人に行き渡らない場合には、社会保障でなされることがある。たとえば、障害者や高齢者の介護がわかりやすい例だろう。たとえば、「弱者男性」の中に家事などが困難である場合には、ホームヘルプ等のサービスを利用するための補助が欲しいということは要求できるかもしれない。自分たちが、なぜ家事ができず、どうして援助が必要なのかを示すことができれば、不可能ではないだろう。実際に自分で自分をケアできない状況というのは、非常に厳しいし、助けを求めて良いと思う。
(2)男性労働者に対する適正な生活保護の運用を要求する運動
 また、金銭的な援助が必要であれば、それも訴えることができると思う。残念ながら、男性の場合は、生活困窮したり、就労が難しい場合の生活保護受給が適正に行われていない。また、過重労働やハラスメント下の労働も多く、仕事を辞めたいと思ってもその後の生活保障が整備されていないため、無理を重ねることになる。うつや自殺につながる重大な問題であるから、こうした要求は重要だと思う。
 上のような運動が起きたとき、フェミニズムが連携するかどうかはわからない。なぜならば、ケアを求める運動は障害者運動が蓄積しているし、生活保護の運動については野宿者支援が努力を重ねている。そちらとの連携が優先されるだろうと思う。また、ケアや貧困の問題でよくあるのは、男性と女性では抱える困難の質が違うということだ。そこで、同じ目的であってもフェミニズムは別様の運動を行うことはよくある。だから、フェミニズムが積極的に「弱者男性」の運動と共闘するかどうかはわからないが、少なくとも反対はしないだろう。
 ただ、こうした運動は、「弱者男性」が望んでいるかもしれない、「寂しさを女性が埋めてくれる」という結果は得られない。「弱者男性」の問題に限らず、マイノリティ男性の多くは「ケアしてくれる優しい女性がいて欲しい」「福祉支援よりも妻が欲しい」ということがある。しかし、出発点はそこであっても、運動を始めれば人と関わり合う濃密な経験が得られる。必ずしも「寂しさを埋める」のは女性でなくて良いと思うようになる人もいる。
 私自身も、社会的に困っている男性から親密な関係を求められることがあるが、お断りしている。カウンセリングに行くか、社会運動を始めるのがよいとお勧めするが、毎回、がっかりされる。そして、女性よりも男性に対して距離を置くのも正直なところだ。なぜならば、そのままDVやストーキング、性暴力の状況になっても、「そんなそぶりを見せたお前が悪い」と言われることを経験的に知っているからだ。以下ではてこさんが詳しく書いている。

「なぜ弱者男性は弱者女性より深刻に詰んでいるのか」
http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20150525/1432544584

わたしは男性を前にしているとき無意識に「襲われないように身を守らなければ」と思っているし、「好意を勘違いされないように」と思っている。男を獣扱いするな、自分は女性を虐げたことなどないと、どんなに言われてもそれはもう仕方がない。事が起きたとき責められるのはこちらだし、起きた後では取り返しがつかない。

 上の記事では、「弱者男性」に差し伸べるのは「男性」であったほうがいいのではないかという理由が丁寧に書かれている。私もその点は同意する。*1
 私は「弱者男性」の苦しみが小さいとは思わない。「誰かに甘えたい」「世話をして欲しい」という願望は、多くの人が持っているだろう。だからこそ、結婚するしないは別にして、生活共同体を作ったり、誰かと定期的に会う機会を作る。「自分はキモくて金がない」から誰からも愛されず孤独で死んでいくのだと思うのは、とても辛くて苦しいことだと思う。だからといって、フェミニズムを高圧的になじったところで、解決はしない。
 以前にも、男性の置かれた孤独については書いた。もう7年が経ち考えが変わったところもあるが、大筋は同じだ。自分の孤独に向き合えるのは自分だけだ。

「承認欲求の牢獄から抜け出すために」
http://www.parc-jp.org/alter/2008/alter_2008_11-12_femme.html

*1:女性同士の依存関係や暴力もあるのだが、男性の依存は周囲の人間に正当化されやすく、暴力も激化しやすいというのが、私の実感だ

リベンジポルノについて

 リベンジポルノで逮捕者が出て、事件報道がなされています。リベンジポルノとは、過去に撮った性的な写真や動画を、相手への嫌がらせ行為として公開することです。犯罪抑止の言説がこれから出てくると思いますので、先に書いておこうと思います。以下に、本文の要約を先に述べておきます。

 私たちには性的な表現を楽しむ自由がある。しかしながら、性的な写真を合意なく撮ったり、許可なく公開することは性暴力にあたる。こうした行為で被害者に自衛を強いることは、加害者に「自衛しない被害者が悪いのだ」という行為の正当化を促し、犯罪を助長する。犯罪抑止のためには、加害者の責任に焦点を当てて「リベンジポルノは絶対に許されない」ということを啓発していくことが重要である。

「写真を撮られた側は悪くない」

 私たちには性的な表現を楽しむ自由があります。合意する大人同士であれば*1、セクシーな写真や動画を撮ったり、性行為を記録したりすることも自由です。何も悪いことはしていないし、もし警察がそれを阻むとすれば「検閲行為」になります。ハッピーな気持ちになって、性行為の最中に写真やビデオを撮ることに合意していたとしても、何も悪くありません。
 また、撮影を断り切れなかったり、無理やり撮られたりしたりしたときも、撮られた側は何も悪くありません。性的な関係の中で、相手の要求を断るのはとても難しいことです。また、狡猾な撮影者はカメラを仕込んだり、不意打ちで撮影したりします。それを、防げなかったとしても撮られた側には責任はありません。
 写真や動画は、「撮影に応じる自由」も「撮らせない自由」もあります。また、撮影された後に「データを処分してほしい」と思うこともあります。そのときには、そう主張する権利(肖像権)があります。その意思に反して勝手に撮影したり、撮影データを要求に応じて処分しなかったりする場合は、撮影者は被写体に対して権利の侵害を行っています。

「写真を撮る側には重い責任がある」

 私たちは、性的な写真やビデオを撮る自由がありますが、それには重い責任が伴います。合意なく他人に見せないために、撮影者はよく考えなければなりません。保管場所を限定したり、電子データを流出させないために対策をしたりする必要が生じます。もし、わざとでなくても、撮られた側の許可を得ずに、写真や動画が許可なく漏えいさせた場合、性暴力にあたります。厳重に管理し、常に撮られた側とデータをどうしていくのかを考えなくてはなりません。撮られた側と連絡が取れなくなる場合は、データを物理的に抹消したほうが良いでしょう。(個人情報保護の問題として考えてください)
 一番良いことは、写真や動画は撮らないことです。性的な場面を目に焼き付けて、心で記憶しておくことが一番の安全策になります。撮られる側は、撮影の時には快く同意してくれたとしても、後から「処分してほしい」と要求してくることもあります。また、そのときは楽しい気持ちであっても、後から「嫌だった」「外に出されないか不安だ」と撮られた側が思うこともあります。こうした撮られた側に丁寧に寄り添う気持ちがないのであれば、最初から撮影はやめましょう。撮る側の責任は甚大であり、データを処分しない限り、一生背負うものになります。

「許可のない写真の公開は性暴力にあたる」

 撮られたが側に許可なく、写真や動画を公開することは性暴力にあたります。撮影に同意することと、公開を許可することは別の問題です。それがどんなに素晴らしい写真や動画であっても、撮られた側を傷つけた時点で、撮影者は性暴力加害者です。表現の自由があったとしても、暴力行為は決して許されることではありません。許可が取れない場合は、写真や動画を印刷媒体やネットなど公開の場所で、絶対に発表してはいけません。ブログやツイッター、匿名の掲示板など、どこにおいても許されません。悪意の有無を問わず性暴力です。
 また、許可を得ずに写真や動画が公開してあると知った時には、すぐに非公開の措置をとってください。インターネット上であれば、管理会社などに連絡してください。公開されている写真や動画を面白がったり、転載したりすることも、性暴力に加担することになります。

「被害者を責めることは、犯罪の正当化を助長する」

 許可のない写真や動画の公開を見て、被写体になった人(被害者)を責めることは、犯罪の正当化を助長します。性暴力の加害者、またはそれを企んでいる人は、私たちの発言を聞いています。「撮影に同意した被害者が悪いのだ」という発言は、加害者の「撮影した側に責任はないのだ」「悪いのは被害者であって、加害者ではない」という意識を煽ります。多くの性暴力加害者は自己正当化し、「被害者が悪いのだ」と自分に言い聞かせ、時には「自分は悪くない」と信じ込んで犯罪行為に至っています。
 こうした、加害者またはそれを企んでいる人には、私たちから「悪いのは加害者である」というメッセージを意図的に送る必要があります。「たとえ、被害者が撮影に同意していても、公開することは許されない」と繰り返し伝えなければなりません。「悪いのは加害者であって、被害者ではない」ということを強調することが犯罪抑止につながるでしょう。

「リベンジポルノ」が「リベンジ」にならない社会のために

 加害者が「リベンジポルノ」を公開する理由は、私たちの社会で性的な写真をばらまかれた側が苦しむことを知っているからです。実際に、現状では写真を撮られた側は、「撮らせたあなたが悪い」「危機意識が足りない」として、被害者叱責を繰り返されます。また、リベンジポルノを見た周囲の人たちも、面白がって拡散させ、写真や動画の回収を阻みます。つまり、被害者を苦しめているのは、加害者だけではなく、社会の側でもあるのです。被害者を保護・支援するのではなく、叱責したり弄んだりすることを「二次加害」と言います。
 もし、リベンジポルノが公開されても、私たちが素早く削除や非公開の措置を取り、被害者を保護・支援すればリベンジポルノは「リベンジ」として機能しなくなります。逆に、二次加害を繰り返せば、加害者には「リベンジポルノは、相手に嫌がらせをする効果的な方法だ」と知らせることになります。リベンジポルノを阻止するための鍵は、被害者の自衛ではなく、私たちの対応です。

「リベンジポルノを減らすのは、被害者の自衛ではない」

 リベンジポルノが重大な問題であると考え、身近な人を被害から守りたいと思っているのであれば、自衛を勧めてはいけません。「写真や動画を撮らせてはいけない」と強く言えば言うほど、もし撮らせてしまった時に、その人はあなたに相談できなくなります。伝えるべきことは三点です。

「あなたには、性的な写真を撮らせない自由がある」
「許可なく写真を公開されたとしても、あなたには責任はない」
「何か困ったことがあれば、すぐに相談してほしい」

 上の三点を話す中で、「どんな人ならば撮影に応じて良いと思えるか」「撮影されてしまったらどうするか」「許可なく公開された時の被害者の恐怖や苦しみ」「被害者を責めるのではなく、保護や支援が必要だという考え」などについて、議論してみるのも良いと思います。一番大事なのは「あなたを心配していること」や「被害にあった時に助けたいと思っていること」を伝えることです。
 逆に、加害者にしないためには、次の三点を伝えると良いと思います。

「性的な写真を撮るときには、必ず許可をとり、無理強いしない」
「データの保存や管理を徹底し、公開には必ず許可を取る」
「何か困ったことがあれば、すぐに相談してほしい」

 性的な写真や動画を撮った側も、保存や管理に困ることがあります。また、相手との関係が悪くなったときに、「復讐としてデータをばら撒きたい」と考えることもあるかもしれません。そういうときに、まず周囲に相談して止めてもらうことが重要です。

「誰もがリベンジポルノの加害者・被害者になりえる」

 ケータイ電話のカメラ機能が発達したため、気軽に鮮明な写真や動画を撮れるようになりました。性的な表現を気軽に撮影できますし、データを所持することも増えています。こうした中で「撮らせてはいけません」と繰り返しても、リベンジポルノは減らないでしょう。
 むしろ、性的な写真や動画を撮影をする可能性を否定せず、「撮影したほうがいいのか」「撮影するときにはどうすればいいのか」「撮影した後どうすればいいのか」について、きちんと話をしていくことが必要です。

「警察の防犯対策について」

 この記事を書いたきっかけは、以下のようなTwitterでの警察の広報を見たことです。

大阪府警察防犯情報
【リベンジポルノに注意?】『画像を撮らせない、送らない』をしっかり守ってますか?相手に画像を撮らせないといっても、大好きな交際相手から求められると断りにくいという方も多いですよね。でも、他の人に見られないという保証はどこにもありません。絶対に画像を撮らせないようにしましょう!
https://twitter.com/OPP_seian/status/600783305567379456

 私が上で繰り返しように、このような脅しや要求は被害者叱責につながります。悪いのは加害者であるはずなのに、被害者に「撮らせないようにしましょう」と主張し、自衛を強いています。
 警察の性犯罪に対するこうした防犯政策はについてはすでに牧野雅子「刑事司法とジェンダー」で研究報告が出ています。1960年代に取り入れられた「被害者防犯」の考えは、70〜80年代に性犯罪に多く反映されました。しかしながら、防犯を促すどころか、被害者叱責を強めて被害届を出すことを阻み、暗数化をもたらしました。牧野さんは以下のように書きます。

 性犯罪は暗数の多い犯罪である。しかし、防犯活動において、被害申告をさせやすいような対策をとるといった動きは全くなかった。むしろ、警察は防犯活動を通じて、性暴力被害者に対するスティグマを付与し、作られた被害者像を流布することで、そのスティグマを恐れる被害者に対して、被害申告をさせない風潮を作り出したといえよう。
(38ページ)

 以上のように、警察の「被害者防犯」の政策は非常に多くの問題をはらむものでした。しかしながら、現在も警察の内部では、是正が進められておらず「被害者落ち度論」が根付いていることが、上のツイートからもわかります。このような警察の広報を見ると失望しますし、こうした発言を受けてマスメディアが被害者叱責に乗じることも恐れます。
 警察はいま、性犯罪対策を進めており、被害当事者を招いての研修も行っています。そうした取り組みは素晴らしく、被害者の視点から防犯政策を一新して欲しいと私も思っています。古い「被害者防犯」の考え方を払拭し、被害者に寄り添い、加害者を逮捕することが警察の役割でしょう。現場の警察官は率直に被害者のために仕事をしたいと思っている人も多く、性犯罪対策の取り組みが功を奏することを私も心から願っています。警察が変わらなければ、性暴力は減らない。このことを最後に繰り返しておきます。

刑事司法とジェンダー

刑事司法とジェンダー

*1:被写体が子どもの場合は、児童ポルノ法がありますので合意の有無にかかわらず、大人が性的な撮影することは性虐待にあたります。

やまじえびね「ナイト・ワーカー」

 この単行本の5分の4は「微熱のような」という作品で占められている。文学少女の菜生が、美しい少女美冬に魅入られ、少しだけインモラルなセックスの世界に入っていく話だ。気だるくてお洒落だけれど害はない。「性の多様性を描いた」という形容が似合いそうな中編だ。
 だが、表題作の40頁ほどの「ナイト・ワーカー」は全く違っている。主人公のレンは、トップレスダンサーが踊るナイトクラブでウェイトレスをしている。そこに、幼少期に性的虐待を行った加害者が現れる。彼女の心は静かに動揺し、加害者の息子の少年を言葉で傷つける。レンは穏やかな日常を送っているかのように振る舞いながら、時折、傷がむき出しになる。言葉にできるような「癒し」も「解決」もなく、「不幸」も「苦しみ」もない。クロッキーのように彼女から見える世界が描かれる。支離滅裂でまとまりを持たず、すべてが浮ついて現実と遊離しているような世界だ。
 性暴力被害者にとって、まとまりのある「物語」を作ることは解決につながると言われる。私自身、そのことを肯定するし「語ること」は「回復につながる」という心理学の見地を否定しない。他方、「ナイト・ワーカー」のような、性暴力被害者の「物語にならない」断片を描いた作品の力を考える。
 どちらが良いというわけでもなく、一つの真実は、二つのやり方で表現されるということだと思う。私は前者の「物語の力」を信じながら、後者の「詩的世界」に希望を託す。

英国留学を予定しIELTS受験を考えている方へ

 英国政府がビザの申請の条件を変更したようです。日本のIELTS受験の窓口であるブリティッシュカウンシルからお知らせが出ています。

「英国政府は2015年2月20日、ビザの取得を目的とした「Secure English Language Tests(SELT)*」に対する重要な変更事項を発表しました。英国での滞在、移住目的のためにビザを申請する方は英国ビザ・イミグレーション(UKVI)が発表した変更事項をご確認ください。」
http://www.britishcouncil.jp/exam/ielts/selt

 これまで、英国に滞在するためのビザを取得するためには、英語能力の証明が必要でした。英国政府は、2014年4月にTOEFLTOEICのスコアは承認しないことを発表しました。そのため、実質的に日本で受験できる英語能力判定試験はIELTSだけです。そして、英国への留学希望者の多くはこれまでアカデミック・ジェネラルのどちらかを、条件に応じて受験していたはずです。
 しかしながら、今回の変更により、2015年4月6日以降のIELTSアカデミック・ジェネラルのスコアは、一部の大学への留学のための英国のビザ申請では使えなくなります。また、4月5日までに受験したスコアも、英国では11月5日までしか使えません。
(あくまでも、英国政府の決定であり、他国への留学では従来通り使える見通しです)
 英国留学を考えている人は、早期にビザの条件が変更されていないか確認し、対応したほうがいいいと思います。

Highly Trusted Sponsor(HTS)として認められた大学や教育機関に留学する場合は留学先の機関によって規定が異なります。必ず留学希望の教育機関に問い合わせるようにしてください。

Highly Trusted Sponsor(HTS)として認められた大学や教育機関のリスト
https://www.gov.uk/government/publications/register-of-licensed-sponsors-students

 英国ビザの申請のためには、新しく「IELTS UKVI」と「IELTS Skills」という試験制度が導入されます。前者は受験料が4万円近いですし、後者も3万円に近いです。こうした試験は繰り返し受験することで慣れてスコアが上がる傾向があります。この変更はとても厳しいです。

「IELTS for UK Visas and Immigrationについて」
http://www.britishcouncil.jp/exam/ielts-uk-visa-immigration

 留学に関するビザについては以下のように説明されています。

IELTS for UKVI Academic is for test takers wishing to study at undergraduate or postgraduate levels, and for those seeking professional registration in the UK.
If applying for undergraduate and postgraduate courses at UK universities and colleges with HTS status, it is important for you to read the above information on TIER 4 student visa before applying’

Components: Listening, Reading, Writing and Speaking
http://japan.ielts.britishcouncil.org/iorpsea/html/registration/selectExamTypeServlet.do

 私は、英国に長期滞在する予定はないのですが、諸事情でIELTSアカデミックモジュールの受験を申し込んでいました。そのため、主催する日本英語検定協会からお知らせのメールを受け取り知ることができました。そして、従来のアカデミック・ジェネラルモジュールの試験の主催は日本英語検定協会が引き続き行い、新しいUKVIとSkillsの主催はブリティッシュカウンシルが行うそうです。

「英国イミグレーションとビザ取得目的のIELTSに関する重要なお知らせ」
http://www.eiken.or.jp/ielts/students_info/2015/0317_01.html

 私自身が英国への留学を準備しているわけではないので、どの程度の影響がこの変更で出るのかはわからないのですが、こちらにメモしておきます。

RJ(修復的司法)とメディエーション講演会

昨年も開催された、一般社団法人メディエーターズでの講演会の第二弾です。前半は私が講師を務めます。犯罪の被害者と加害者の対話を行うRJや、対話によるトラブル解決であるメディエーションを通して、「コミュニケーションによって何が生まれるのか」について考えます。後半は東京保護観察所の三浦さんも交えて広くディスカッションします。三浦さんは日々、保護観察の現場に直面しておられます。理念と実践、理想と現実の行き来をしながら、対話について考える講演会になればいいなあと思っています。
5月30日、東京の青山で開催します。参加費は1000円(または500円)だそうです。定員は先着40名で、webサイトより事前にお申し込みください。

RJ(修復的司法)とメディエーション

Restorative Justice (RJ: 修復的司法、修復的正義)は、加害者・被害者の対話などを一つの方法として、双方ともがより幸せな(well-being)人生をおくるにはどうしたらよいのかを考える方法です。昨年ご好評いただいた小松原さんの講演の続編となる今回は、「正義」の考え方の変化とコミュニケーションとの関係についてご講演いただき、後半は、東京保護観察所所付の三浦恵子さんを交えて、RJとメディエーションの活用についてディスカッションをおこないます。

*プログラム 

第1部 13:30〜15:00
講演「被害者と加害者の対話から生まれるもの〜個人から関係へ〜」
小松原織香さん
日本学術振興会特別研究員(DC)
大阪府立大学人間社会学研究科博士後期課程

第2部 15:10〜16:30
ディスカッション
「RJとメディエーション
小松原織香さん
三浦恵子さん(東京保護観察所 所付)
安藤信明(一般社団法人メディエーターズ)
田中圭子(一般社団法人メディエーターズ)

☆ 参加費 1000円当日受付でお支払いください。
メディエーターズ会員、賛助会員は無料、学生は500円です。

日時 2015年05月30日(13:30〜16:30)
開催場所 東京ウィメンズプラザ 視聴覚室
(東京都渋谷区神宮前5丁目53−67)
定員 40人(先着順)

http://kokucheese.com/s/event/index/278919/#about

バラの花束を贈ることも暴力になる

 下の記事について、id:zeromoon0さん*1からお返事があった。

「お手紙」
http://zeromoon0.hatenablog.jp/entry/2015/03/23/142325

前半では、私の主張に賛同してくださり、表現が不適切であったことを陳謝してくださった。誠実な対応をしていただいた。
 後半では、以前の記事に欠けていた具体的な批判部分について言及されている。zeromoon0さんは、CM批判の一例を挙げて、客観性に欠けているとの指摘をしている。元のCMの動画は削除されているため、実際に視聴した私(font-da)が記憶を頼って書きおこししておく。

朝、あるオフィスビルに、男性社員と女性社員がいっしょに出勤している。男性は上司らしく、女性は部下らしい。二人は忙しそうに歩きながら話をしている。男性社員は「顔が疲れてる、寝てないの?」と尋ねる。女性社員は眉をひそめて「普通に寝ましたけど」と答える。それに対して、男性社員は笑いながら「寝てそれ?」と言う。

 この箇所について、CM批判記事を書いたid:pokonanさんはCMをキャプチャした画像をつけながら、次のように書きおこしている。

そこに上司らしきメガネ男が登場。
こいつがセクハラを連発する。

いきなり、「顔が疲れてる、寝てないの?」と失礼な発言。
女性が「普通に寝ましたけど」、って答えると、なんと「寝てそれ?www」、と小馬鹿にする。
http://pokonan.hatenablog.com/entry/2015/03/20/000637

この書きおこしに対して、zeromoon0さんは次のように批判する。

この記述(筆者注:pokonanさんによる書きおこし)だけ見ると、「顔が疲れている」という言葉だけならセクハラにあたりません。それならば男性は下手にいたわりの言葉をかけられなくなります。「需要が違う」などの発言はセクハラにあたると思いますが、この第一声でセクハラと断じるのは偏った意見であると思われます。また男性の台詞の抜出には「ww」という相手をバカにしたスラングが表記されており、最初から客観的な視点で論じる意図を感じません。
http://zeromoon0.hatenablog.jp/entry/2015/03/23/142325

 確かに、私の書きおこしに比べると、pokonanさんの書きおこしは、感情を煽るような文章になっている。私の書きおこしが「できる限り主観を排した表現」であるのに対して、pokonanさんの書きおこしは「主観を前面に押し出した表現」である。では、私の書きおこしの方が、pokonanさんの書きおこしより「真実」を描いていると言えるだろうか。そうではない。以下で二点に分けて説明しよう。
 まず1点目だが、今はルミネのCMの動画は削除されてしまったが、pokonanさんが記事を書いた時点では、まだ自由に閲覧できる状態だった。pokonanさんは、記事の冒頭で「これがそのCM動画。とりあえず、みてほしい。」と書き、動画のリンクの埋め込みをしている。つまり、自分の書きおこしを読む前に、読者に実際にCMを見るように促しているのだ。すなわち、pokonanさんの解釈を伝える前に、読者自身に解釈できる余地を作っている。そのため、上の書きおこしは、pokonanさんの解釈を刷り込むものではなく、読者に提起するものだと言える。
 次に2点目だが、実は性に関する暴力で最も重要なのは「主観」である。セクハラも含めた、性暴力、DV、ストーキングなどは、顔見知りや親密な関係の中で起きることが多い。こうした暴力の特徴をうまく捉えた「バラの花束を贈る事だって相手を支配するための道具になり得る」という言葉がある。以下に引用する。

DVの本質は、一方のパートナーによる他方へのコントロール・支配です。 「殴る、蹴る」などの身体的な暴力はその手軽な道具ではありますが、口で非難するのも挑発するのも物を隠すのも家から出るのを許さないのも身体的な暴力と同じく支配の道具です。 誤解を恐れず言えば、セックスに応じるのも応じないのも、浮気をするのもさせないのも、さらにはバラの花束を贈る事だって相手を支配するための道具になり得るのです。 DVとは、こうした個々の行為の相互連関によってどのような人間関係が築かれるかを指している言葉であって、個々の暴力的な行為そのものの総称ではありません。
macska「DV理論の最前線から2 」
DVの定義が「パートナーへの暴力」ではない理由
http://www.macska.org/emerging/dv02-definition.html

 以上の解説のように、本来ならば「相手を喜ばせること」であるはずの「バラの花束を贈る」ことで、相手を傷つけ苦しめることができるのがDVという暴力の特殊性だ。そこだけ取り出してみれば「いいこと」なのに、支配関係の中では「暴力」になる。だから、DVの問題を扱う時には「したこと」「されたこと」だけではなく、両者の関係性がどのようなものであるかを、文脈として捉えなければならない。
 私はDVだけでなく、他の性に関する暴力でも、同じようなことは起きると考えている。ある男性からは「嬉しい褒め言葉」が、他の男性からは「差別表現」になる。それは、しばしば揶揄的に「イケメンかどうかで、セクハラかどうかが決まる」と言われることがある。だが、問題は容姿ではない。両者の関係性だ。多くの人は、親しい友人から誕生日のお祝いメールをもらうと「嬉しい」と思うが、聞いたこともない通販業者からから同じメールをもらうと「どこから生年月日の情報が漏れたのか」と不安になるだろう。私たちは、多くの行動を文脈に即して理解している。性に関する行動の場合は、極めてその文脈依存度が高くなる。
 では、上のCMの話に戻ろう。男性上司は「顔が疲れている」と声をかけている。この部分だけであれば、もしかすると、zeromoon0さんが解釈したように、上司は「寝不足を心配をした」と解釈をできるかもしれない。だが、CMの後半では、zeromoon0さんも認めているように、男性上司はセクハラにあたる発言をしている。そして、この会話は特殊な非常事態ではなく、日常の繰り返される光景として描かれている。すなわち、男性上司から、女性社員へは繰り返しセクハラが行われる関係だと類推される。その文脈に当てはめてれば、pokonanさんが「顔が疲れている」という男性上司の言葉を、「心配している」のではなく「小馬鹿にしている」のであって、セクハラだと断じた解釈も理解できる。むしろ、文脈に応じてセクハラが繰り返される関係を見抜き、女性の主観に即してセクハラだと解釈したpokonanさんの書きおこしは、「真実」を言い当てているともいえる。すなわち、客観的を排することではなく、主観に沿うことが、セクハラでは重要だということだ。*2
 以上の二点により、pokonanさんの書きおこしは不当なものではないと私は判断する。よって、zeromoon0さんの主張には賛同しない。
 それに加えて、はたしてzeromoon0さんは客観的な姿勢で、この問題に取り組んでいるのだろうかという疑問があるpokonanさんのルミネのCM批判に対して、zeromoon0さんは以下のように書いている。

何故このブログがそんなことをするかというと、「お金儲けのため」です。本人が「ブログでお金儲けしたい!」って言っているので、間違いないと思います。もし純粋にジェンダー問題を訴えたいのであれば、人を焚きつけて煽るような記事を書くことはないと思うのです。ちなみにこのブログ、よく読むとジェンダー関係が強いですが学歴コンプ、地方コンプも顕在していて万遍なく「弱者の僻み根性」を演出していて、「もし増田に書いてあれば釣り認定間違いなし」レベルの炎上記事がたくさんあります。
http://zeromoon0.hatenablog.jp/entry/2015/03/22/173113

 上の文章だけ取り出しても、「ブログでお金儲けをしたい」ことと、「ルミネのCMをセクハラであると批判する」こととは、論理的に連関がない。そして、「人を焚きつけて煽るような記事」と断じているが、上で述べてきたようにpokonanさんの記事は、不当なものではない。さらに、具体的な例をあげずに「弱者の僻み根性」と書くことも中傷にあたる。また、他の箇所では、zeromoon0さんは「それはヤクザの恫喝と一緒」「コンプレックスに付け込んだ商売」「修羅の道を行きたければどうぞ」といった攻撃的な言葉をちりばめて記事を書いている。他方、「少しでも怪しい情報や過激な言説はデマの可能性もあるので「見ない・触れない・拡散させない」を合言葉によりよいネットライフを送りましょう」とも言う。だが、zeromoon0さんの記事の言葉尻をとらえれば、十分に「過激な言説」とも言えるだろう。少なくとも、穏やかで客観的な記述以外の、煽りが入っている。
 もちろん、私がpokonanさんの記事を分析したように、zeromoon0さんもまた、主観に即して、客観とは違う「真実」を明らかにしようとしたと言えるかもしれない。だが、この場合、zeromoon0さんは客観的ではなく、主観的であるという前提に立つ。そのため、自分がpokonaさんを批判した言葉が、ブーメランのように帰ってくる。zeromoon0さんは次のように書く。

もしフェアでない状況も容認した状態で差別を解消するのがフェミニストの使命であるのであれば、自分はフェアな状態を勝ち取る差別主義者でいいです。
http://zeromoon0.hatenablog.jp/entry/2015/03/23/142325

 何をもって「フェア」とするのかはわからない。しかし、公正中立の立場にたつならば、zeromoon0さんの主張には一貫性がなく、正当性がないということになるだろう。そのまま、差別を続けるならば、それは不当なことである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20150323/1427073197

*2:ちなみに、こういうことを書くと「何がセクハラかが主観で決まるのは怖い」という人が必ずいる。私はセクハラは「完全になくす」のではなく、「告発されたときに真摯に対応する」ほうが良いと思う。人間関係ではすれ違いはあるものなので、「告発→是正する」ことを繰り返すほうが現実的だ。次に、性に関することは、誤解が起きやすいので、できる限り、職場等では口にしないほうがいいと思う。相手の容姿や体調に関するものも、慎重になったほうがいい。多くの人は、そこまで職場等では個人的な関わりは求めていないだろうし、もし親密になりすぎて距離が近すぎれば離れるように心がけたほうがいいだろう

ネトフェミだったら何なの?

 ここのところ、ネットでは「久谷女子同人誌の件*1」と「ルミネCMの件」*2が話題になっていた。どちらも性に関するトラブルで、女性が告発している。
 それらの出来事は、あるときは「フェミニストがわめいている」と言われ、あるときは「フェミニストはこの件は批判していない」と言われた。いつも通り、「世の中が悪いのはフェミニストのせいだ」と思っている人たちの発言がいくつも飛び交っていた。そして、ついには「騒いでいるのは<ネトフェミ>であり、<まっとうなフェミ>を毀損している」という主張まで飛び出した。以下である。

「ルミネCM炎上で見えた「ネトフェミ」とは?」
http://zeromoon0.hatenablog.jp/entry/2015/03/22/173113

 上の記事のブックマークコメントでも言われているが、こうした「フェミ擁護」に見せかけた女性差別は繰り返し行われてきた。かつては「フェミナチ」という言葉が浸透していたくらいだ。これらは、性差別を告発する女性を、「俺が認めてあげる良いフェミニズム」と「悪いフェミニズム」に分断していい気分になる方法である。フェミニズム側にすれば、こうした観客席から高みの見物をしている人間こそが、批判の対象となる。すなわち、フェミニストとして撃つのは、「悪いフェミニズム」ではなく、上の記事のid:zeromoon0さんである。
 zeromoon0さんに欠けているのは、おのれもまた性差別構造に組み込まれた抑圧者だという認識である。フェミニズムが繰り返し批判してきた点でもある。zeromoon0さんは、次のようにセクハラの問題を説明する。

この過度な謝罪要求(筆者注:CM批判者らによるルミネへの謝罪の要求)の背後には、やはりこういったセクハラが当たり前のように存在している現実が見え隠れします。CMの男性社員のようなことを実際に言われた人は多いのでしょう。実社会ではたとえそのような状況になったとしても不快感など表明できませんし、下手をすれば「冗談が通じないなんてキツイぜ」と不快感を示したほうが悪者にされてしまいます。そういったやり場のない怒りの矛先がたまたまルミネのCMにぶつけられたと考えるのが自然だと思います。彼女たちに謝るべきは実際にセクハラをした加害者なのですが、それはできない相談なので代わりに叩いても悪者にしないルミネを叩いているわけです。さぁ、本当に悪いのは一体誰なんでしょう。

上のセクハラ理解はまちがっている。日本語における「セクシャルハラスメント」という概念は、1992年の福岡事件を機に一気に広がった。福岡事件では、職場の男性上司から性的な嫌がらせをされていた女性が、フェミニズムを中心とした被害者の弁護団ともに、被害を告発した。このときに、性的嫌がらせの背景には、性差別があることが明確に主張されたのだ*3。すなわち、セクハラ被害者が、告発・抵抗できない背景には性差別があるということだ。従って、zeromoon0さんのいう「本当に悪いのは一体誰なんでしょうか」の答えは、フェミニストとしては、性差別構造に日々加担している「あなた(zeromoon0さん)」だということになる。そして、<本当の>セクハラの問題解決とは、性差別の解消である。
 当然ではあるが、<本当の>セクハラの問題解決は簡単ではない。小さな積み重ねの上に少しずつ見えてくるゴールだろう。たとえばそれは、セクハラを告発することかもしれない。セクハラを正当化するメッセージ(ルミネのCM)を批判することかもしれない。もっとセクハラという言葉が出てくる以前の、日々の性差別をなくす取り組みかもしれない。また、zeromoon0さんのように「セクハラ告発の重圧を被害者は負うべきだ」とする主張を批判することかもしれない。そうした地道な積み重ねが<本当の>セクハラの問題解決への至る道である。
 性差別・性暴力の告発がいつも正しいわけではない。批判を受けることもあれば、誤りや歪曲があることもある。不当である場合は、丁寧にどこが間違っているのかを批判しなければならない。その労を惜しんで「あいつらは<ネトフェミ>だ」ということは、何の意味もない。どこかに悪いフェミニストがいるのではない。私たちは、性差別や性暴力のある社会を生きていて、その告発はとても難しい。それだけのことだ。
 また、告発者を批判する言葉が、性差別を含んでいることもよくある。上で挙げた久谷女子同人誌の件でも、女性が性経験が多いことを理由に、発言の信頼性を毀損しようとしている人たちが数多くいた。私は発端の性に関するトラブルの真偽はわからないが、告発している女性が、どのような性格で、どのような性経験をしてきていても、性暴力は起き得るし、それを理由に発言の信頼性を毀損するのは、セクハラだと考えている。告発も難しいが、告発を批判するのも難しいのだ。
 私は、ここ数年はフェミニズムの活動からは距離があるし、大学院での研究で精一杯で、「フェミニスト」であるという自己定義も頭にないことが多い。それでも、「ネトフェミ」だと呼ばれるのは構わない。いつだって、フェミニストは気分の悪い言われ方をするものだ。その覚悟をしてフェミニストになったのだから、今更、ラベルが一枚増えてもどうということはない。ただし、ネトフェミだと言ってきた論者に対しては、それなりに批判を加えようと思っている。

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追記

お返事頂いているので、こちらからも返信しています。

「バラの花束を贈ることも暴力になる」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20150323/1427092166

*1:プロの女性ライターたちが「ある女性の性に関するトラブル」を、同人誌紙面上で面白おかしく取り上げた件。女性から告発があり、同人誌製作側は謝罪した。 https://www.facebook.com/kutanijoshi/posts/969832899695379

*2:CMの内容と批判をした発端の記事→http://pokonan.hatenablog.com/entry/2015/03/20/000637

*3:念のため付記しておくが、この福岡事件を告発した女性は、のちに弁護団フェミニストたちを批判している。詳しくは晴野、宮地などを参照