さよなら、エヴァンゲリオン

 「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を観てきた。うっかり泣いてしまった。感傷のままに綴っておく。(以下は、ネタバレがあるので閲覧注意)

 公開2日目に観てしまった。こんなことをするのは、1997年に公開された劇場版「Air」を観に行ったとき以来だ。私は当時、中学3年生で友人たちと本当に楽しみにして、映画館まで足を運んだ。その最後のシーンで、浜辺で首をしめられているアスカを観て「なんでこんな目に」という辛い気持ちになった。まだ、インターネットのない時代だから、雑誌などの評論記事などを探して読んだが「なんで、アスカは首をしめられねばならかったのか?」が全くわからなかった。その後、大人になって庵野監督が、女性に好意を向けられ、自分もそれに応えようとすることに、耐えがたさを感じているのだろうということは理解した。

 新劇場版が始まって、私はエヴァから距離をおいた。庵野監督が、「前のエヴァではダメだ」と考えているのはよくわかった。でもそれが伝わるほどに、「私はそれでも、前のエヴァが好きだし」という疎外感を持った。制作延期が続くほどに、私は正直に言えば熱意を失っていた。観に行って、めちゃくちゃなラストを押し付けられることに、もう付き合えないと思った。でも、庵野監督がもう最後にすると言うので、「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を観に行った。誰の評価も目にしたくなかったので、Twitterのアプリも消していた。

 冷静ではなかったので、どんな評価が下される映画なのかはわからない。珍妙でアンバランスだった。ロボットや戦闘場面が出てくる映像は文句なくカッコよく、ケレン味があった。それに対して、日常生活を描こうとした会話劇は巧いとは言えない。でも、そこではテレビシリーズ版で排除された「生殖」と「生産」が延々と語られている。私たちは、親から生まれて、働き、人を助け、その生活の中で「明日を生きる」ことを掴もうとして、日々を暮らしている。それらが、明らかに3.11、特に原発事故後の暮らしを意識して描かれていた。こちらが聞いていて気恥ずかしいようなベタなセリフも多く、ステレオタイプ的な「家族」や「農業」が出てくる場面が続く。とてもダサくて最初は「庵野監督は、これ、向いてないと思う」と渋い顔をしていたが、だんだんとそれが庵野監督にはどうしてもエヴァでやらなくてはならない話だったように思えてきて、「しょうがない、付き合うか」という気持ちになった。女性たちが出世して司令官になったり、出産について語ったり、命がけで子どもを守ったりする場面も、どうしてもステレオタイプ的になる。庵野監督はこういうのは本当に巧くない。きっと戦闘場面だけ描いた方が、クオリティの高い映画になったはずだ。でも、庵野監督は「これがやりたい」のだろうと思った。

 映画を観ているうちにシンジくんがきっかけで起きた、サードインパクトやフォースインパクト(起きかけ)は、これまで庵野監督が途中で、投げ出して完結できなかった劇場版作品のように観えてくる。周りにやらされているのだという想いや、メンタルの弱さに対する自己嫌悪、どうせ頑張ってもめちゃくちゃになってしまうという絶望感。庵野監督自身が、その傷つきから立ち直るのに必要なのは、イマジナリーな世界ではなく、リアリティの世界、「生殖」と「生産」の世界を生きることだったという話のように受け取った。私たちは、他者のために働き、必要とされ、ときには何かを託したり、託されたりする。そうした生活の重みを引き受けることが「大人になる」ことだと、この映画はしきりに語りかけてくる。ただ、そうしたメッセージが全然、作品内で昇華されておらず、生っぽく残っているので、観ていて変な気分だった。でも、それこそがテレビシリーズ版のエヴァの魅力で、あの頃の庵野監督は「子ども」の気持ちを自己吐露的に垂れ流しており、そこに私はのめり込んだ。今回は、庵野監督は「大人」の気持ちを自己吐露的に垂れ流しているので「そこは変わらないんだな」と思った。

 その極め付けが、碇ゲンドウが自分の内面を吐露する場面である。私は思わず「そのまま、言っちゃうんだ、モノローグで」と心の中でつぶやいてしまった。なんのひねりもなく、ただ、(おそらく庵野監督自身、そして男性の)弱さが延々と語られる。そこで、私は、本当に庵野監督は、エヴァに「落とし前をつけるのだ」とやっと納得がいった。

 私が泣いてしまったのは、そのつぎの浜辺でアスカと語る場面である。そこで、シンジくんは、素直にアスカに好意をいだいていたと語る。そして、エヴァンゲリオンがやってくる。私はそのとき「なんだ、庵野監督もエヴァが好きなのか」と思った。今回の映画はロボットアニメをはじめとして、庵野監督が好きなもので埋め尽くされていた。ずっと、私が新映画版でつらかったのは、庵野監督が「エヴァが嫌いだ」と言っているように見えたからだった。テレビシリーズ版で、庵野監督はアニメにのめり込んで現実逃避するファンのことを嫌い、突き放そうとやっきになっていた。それは、「大人になれない自分」と重ね合わせられた自己嫌悪でもあったのだろう。そこに、中学生の女の子だった自分も巻き込まれた。今回の映画で、シンジくんはアスカのことが好きだし、庵野監督もエヴァンゲリオンも好きだと示してくれたので、私は本当に嬉しく、それでうっかり泣いてしまい、自分でも動揺した。

 それと同時に「遅いよ、シンジくん」という気持ちにもなった。私は、あの映画館にいたときには中学生の女子だったけれど、性差別の中で「おっさん」を憎む大人の女性になり、それも通り越して「おっさん」の弱さや傷つきも理解できる「おばちゃん」になってしまった。とっくに思春期の心の揺れは脱してしまい、日々の暮らしを重ねることで生き延びてきたし、「生殖」と「生産」のある暮らしのこともよくわかる。だから、庵野監督の答えには同意する。もう、エヴァは終わった話で、「さよなら」しかできない。あれは子どもだった私(たち)に必要なストーリーで、実はもう本当は私(たち)はあの話は終わっている。しかし、友だちから録画テープを借りたときには、まさか「さよなら」を言うのに、25年もかかる作品になるとは思わなかった。そして、ちゃんと最後の姿を見送ることができてよかった。この作品が、ちゃんと作者に愛されていることもわかって、もう心残りはない。

 この映画の解釈や評価がこれから議論されるだろうし、批判も出てくるだろう。それはそうとして、私の中では、きちっと落とし前つけてみせた監督への尊敬と感謝があるし、これからはエヴァが好きだと私も言えるなあ、と思っている。過去の作品にしてくれて、本当にありがとうございました。