原一男監督「ニッポン国VS泉南石綿村」

 原一男監督「ニッポン国VS泉南石綿村」を試写で観た。
 泉南地域はかつて石綿紡績業が盛んだった。石綿アスベスト)は断熱材、防火財、機械の摩擦防止のためにあちこちで使われ、日本の経済成長を支えた天然鉱物である。しかしながら2005年の「クボタショック」をきっかけに、全国的に石綿産業に関わった人たちの健康被害が明らかになった。石綿は防塵に混じって吸い込まれ、肺に突き刺さって20年以上の時間をかけて肺がん、中皮腫などの重い病気を引き起こす。泉南地域の人たちも石綿健康被害を訴えて国家賠償を求める運動を展開していく。
 この作品はそうした泉南泉南アスベスト国賠訴訟の運動を追ったドキュメンタリー映画だ。高齢の原告の中には在日朝鮮人・韓国人で、他地域で差別され流れてきた移住者もいる。これまで社会運動に縁のなかった労働者とその家族が集まって、自分たちの手で補償を勝ち取ろうと立ち上がる。裁判は二転三転し、最高裁で勝訴するまで八年半がかかった。その長い時間で原告たちは「普通の市民」から「活動家」へ変身していく。
 その代表が「泉南地域の石綿被害と市民の会」を結成した柚岡さんだ。柚岡さんは祖父が石綿工場がやっていたという経緯があり、被害のことを知って罪悪感に駆られていた。そこから、原告の支援活動を始めるが、訴訟の弁護団との関係の中で苦闘する。弁護団側は法廷闘争のために、原告の発言を抑制したり、マスコミ向けにコメントを「こう言って欲しい」と原告に頼んだりして、勝つための戦略をとっていく。柚岡さんはその中で「被害者はもっと自分の言葉で直接、話したいはずだ」と考えて、総理官邸や厚労省に突撃して面会を求める。しかし、拒まれてあえなく失敗に終わり、弁護団に勝手な行動をとったとして批判される。それでも、運動が進むうちにだんだんとベテランの活動家のようになっていき、行政交渉では机を叩いて官僚を罵倒し始める。最後には国側に目をつけられて、大事な会場からも締め出されてしまった。弁護団との対立はあったものの、柚岡さんが運動の中心にいたことは間違いない。最高裁の判決後の総会で賠償金を分配するときにも、弁護団も含めてみんなで話し合い、そのときに仕切っているのは柚岡さんだ。揺れに揺れる原告団をまとめた立役者なのである。
 原告の岡田さんは、幼少時に母親が働く石綿工場で育ったため年若くして健康被害が出てしまった。作品の冒頭では「子どもの重荷になりたくない」と涙ながらに語り、同じく健康被害に苦しむ自分の母親に向かって「私の方が先に死ぬ」と告げる。しかし、原告として運動を展開する中で、体の不調をおして活躍し、韓国の石綿鉱山の視察にまで参加する。母親が係争中に亡くなってしまうが、そのあとは息子が一緒に運動に付き添うようになった。最後の最高裁判決では補償対象から外されてしまうが、原告のスピーチをすることになる。弁護団に指示されたマスコミ向けのスピーチ原稿は、決して納得していないということをにおわせながらも、笑いながらカメラに向かってうまく煙に巻くコメントをしてみせる。すっかり、酸いも甘いも噛み分けたしたたかな活動家の顔になっているように見えた。判決後も「これで終わりじゃない」とまだ続く運動を見据えたコメントをしている。
 私の印象に残った原告は、石綿工場で勤めていた夫を亡くした佐藤さんだ。佐藤さんの夫は、石綿工場で働いてきたことを誇りにし、裁判には乗り気ではなかった。それでも佐藤さんは、夫の病の原因が石綿である以上、その苦しみを訴えずにはいられないとして活動に参加した。夫が亡くなった後に、共同代表として原告団をまとめ上げていく。しかしながら、最高裁の判決では、佐藤さんの夫は補償対象から外された。マスコミ向けには笑顔で「それでも原告団として勝てて嬉しいです」と語って見せたが、翌日の街頭演説ではマイクを握りしめ、泣きながら絶叫する。
「私が欲しいんはお金じゃない」
 そう叫びながら亡き夫への想いを語る。そして、佐藤さんは泣き崩れて、本当は「勝てて嬉しい」という心境ではなく、無念さで苦しいことをカメラに向かって吐露する。原監督はその彼女に向かって「その気持ちを言った方がいい」と促すが「それはできない」と拒む。「私は共同代表だから、背中にいっぱい原告を背負ってるから」と泣きながら最後まで義を貫こうとする。
 私はこの場面で、これまで自分が関わってきた様々な運動の当事者の顔が浮かんできて、涙が止まらなくなってしまった。佐藤さんだって、最初からこうだったわけではないだろう。志半ばにして亡くなった仲間、今日この場に来られなかった仲間、本当は訴えたいけど黙って耐えている仲間。そういう仲間の顔が浮かぶ限り、自分の感情に任せて運動を批判することはできない。自分の夫のための闘いは、いつの間にか「みんなための闘い」になり、自分は殺さざるをない。だけど、それが辛くないわけがない。きっと社会運動に携わる人が何度も直面する当事者の悲鳴だろう。
 他方、佐藤さんの場合、このあと話は思わぬ方向に転がっていく。最高裁判決の後、塩崎厚労相泉南を謝罪のために訪問する。弁護団は形だけの塩崎さんの謝罪に色めき立つ。ところが、塩崎さんが退場するとき、佐藤さんは呼び止めて駆け寄って頭を下げて「ありがとうございました」と礼を言う。どうやら塩崎さんと手紙でやりとりをしたらしい。その後のインタビューで、佐藤さんは塩崎さんが自分の気持ちを受け止めてくれたことに感激し、もう怒りはないと語るのである。
 このことについて、原監督は上映後のトークで撮影しながら佐藤さんに対して「嘘でしょ」と思ったことを率直に述べている。原監督にとっても塩崎さんの謝罪はパフォーマンスにすぎないように感じられていた。手紙のやり取りだけで佐藤さんから怒りが消えたことは信じがたいと語っている。だが、私はあの場面はとてもよくわかるように思った。佐藤さんは、原告団のために正義を語りながらも、自分の中にある「夫の被害を認めて欲しい」という個人的な思いは抱えてきていた。たとえ補償の対象にならなくても、その苦しみを加害者が認めることは何者にもかえがたいものだろう。やっと自分の声が聞かれて、応答してもらえたという気持ちがあるのではないか。被害者にとって、無視され、なかったことにされてきた被害を、加害者が認めることは大きな意味がある。そのときの「被害者としての佐藤さん」は、「共同代表の佐藤さん」ではなく、「夫を亡くした妻としての佐藤さん」、つまり「ただの私」としての佐藤さんである。 
 泉南アスベスト国賠訴訟の原告や支援者は、みんな「普通の市民」から「活動家」に変身しても、もともとの「ただの私」である「普通の市民」の自分を見失わない。そのことが、この運動を豊かにした理由の一つだと私は思う。国の安全管理の不徹底により、苦しい病気になり家族を喪ったとしても、人を信じ地域で暮らす市民であることをやめない。それは、この人たちがずっと毎日の生活を地道な労働で積み上げてきた生活者だからだ。ここに「普通の市民」の矜持はある。
 原監督は上映後のトークで、自作について、かつては「表現者」を撮影したいと思っていたと語った。原監督の定義によれば、突出した才によって社会のはみ出し者となり、自分の生活範囲を越えて、世界を変えていくのが「表現者」である。それに対して「生活者」は、自分とその家族の生活範囲の幸せを守る。その原監督の構図を借りれば、この作品は「生活者」が「表現者」に変容する物語として観ることができる。しかし、原監督は「生活者を問わねばならない」とトークで語っていたが、私は問われるべきは「生活者」ではなく「表現者」ではないかと思う。つまり、映画を撮られる側/観る側ではなく、映画を撮る側が問われるのではないか。
 「生活者」は地道に生活するところに本質がある。そうであるならば、「生活者」を撮る方法は二つだ。一つ目は撮影者が「生活者」の生活にどっぷりと浸ってしまうことだ。共に生活し、生活者の一員となりながら撮影をする。原監督の作品は、生活を撮る部分はあれども、やはり訴訟運動に焦点があたり、「生活者」に寄り添った作品としては、私は観ることができなかった。二つ目は「表現者」として「生活者」の生活に意味づけをすることである。私は芸術表現とは「言語化できないものを、非言語的に象徴化し普遍性を持たせること」だと考えている。原監督の作品は、明確に象徴化が行われたとは言えないと思う。ここまで書いてきたように、ある程度、構造化すれば読み取れるものはあるが、クリアではなかった。私は原監督がこの作品で何を成し得たのかがわからない。達成はないままに完成に至ったのかもしれない。
 3時間半以上の長い作品だが、少しもだれることはなく集中して観ることができる。また、泉南アスベスト国賠訴訟の素晴らしい記録になっており、原監督がいてこそこれだけの厚みのある映像が残ったのだと思う。記録映画としては大変に貴重なものだと思うし、社会運動についての学習用資料としてもとても良いだろう。その一方で「映画ってなんだろう」という疑問が残ったことも確かだ。ドキュメンタリー映画で何を撮り、何を観るのか。あんまりにも素朴な問いが、観終わった後に一番に浮かんできた。