ネットで嘲笑すること/されること

 ある事件が起きて、ネット上でどのように振る舞うのかが話題に上がっている。特に、相手を「嘲笑すること/されること」がクローズアップされている。

「古来からのネット作法に総括を迫られているのかもしれない」
http://zaikabou.hatenablog.com/entry/20180625/1529890030

はてな界隈の「いじり」「いじめ」のダブルスタンダードが酷すぎる」
https://anond.hatelabo.jp/20180626141122

 私はこのブログで、かつて激しく「嘲笑される」経験を積み重ねていたので、メモがわりに書いておきたい。当時の「私を嘲笑する記事」はもうどこにあるのか知らないし、その人たちの行方も知らない。たぶん、まだネットにはいるのだろうが、その人たちを責めるつもりはない。
 私がやられた方法はこんなふうだった。別のブログ記事やアノニマスダイアリーに、私の記事の一言一句をあげつらった文章を書き、不備を指摘したり、わざと誤読や曲解をして、笑いを取る。「バカ」などの攻撃的な言葉が繰り返し書いてあることもあった。しつこくトラックバックが送られてきて、その記事を見に行くと、ブックマークコメントがついていて、「書き手とともに私のことを嘲笑する人たちのコメント」が並んでいるのが目に入ってくる。私はその記事を閉じて、できるだけ心に深く留めないように意識した。平常心を保つのが一番大事だとわかっている。ネット上では、無視したり、平気な顔をしたりしていた。なぜなら、動揺していることを知られれば、かれらの攻撃がもっと強くなることを知っていたからだ。
 なぜ、平気な顔ができたかというと、私はこう考えていたからだ。「この問題は、私の問題ではない。かれらの内面に問題がある」この対応は、私は実は支援職の養成講座で学んだ。理不尽な怒りや攻撃を受けた時に、自分の中に理由を探すのではなく、「これはおそらく相手の問題だ」と考え、感情に巻き込まれないように自分の感情をコントロールする*1。私にとってかれらの「嘲笑」は理不尽であったので、「何かかれらは問題を抱えているのだろう」というふうに理解することで心理的な距離を保った。そもそも、私のブログ記事に論理的または思想的に問題があるならば、嘲笑するのではなく、正面から批判をすれば良い。それができないのは、「能力がない」か「自信がない」かのどちらかだろうと私は判断した。他に理由があるとしても、それは私の問題ではない。
 他方、「私を嘲笑する記事」に集まって、同調して嘲笑する人たちにも、何か抱えているものがあるのだろうと考えていた。私自身、他人を嘲笑することはある。他人をこき下ろして笑ったりしている。私が嘲笑する相手は、たいてい、自分にとって地位や権力、実力その他で、「物申せない相手」である。学生時代に学校の教員を友人たちと笑い者にしたことはないだろうか。あれは、教員と学生の間の絶対的な権力関係があるからこそ、そこから逃れようとする抵抗の振る舞いが「嘲笑」という形で現れているのである。当時、無名のブログの書き手であった私に対して、なぜ、かれらがそんな振る舞いをかれらがしていたのはわからない。「よっぽど辛いのだろう」と私は考えていた。
 以上のような私の考えが、当時の「私を嘲笑する人」の心理を的確に分析していたかどうかはわからない。単純に自分が攻撃されている時に防衛反応として、合理化を行なっていたようにも思う。それでも、私がこういうふうに考えて、「嘲笑されること」を受け流しており、決して「平気」でもなかったし、楽しんでいるわけでもなかったことを書いておこうと思った。別に私は精神的に強い人間でも、冷静な人間でもない。「他人を見下すこと」に長けていたから、乗り切れただけだ。言いたいことは「他人を嘲笑することはよくない」というそれだけの話である*2

*1:逆に言えば、この支援職の振る舞いは、自らの二次加害を隠蔽し、クライアントの異議申し立てを「相手の心理的問題」に還元するという点で非常に危険だ。特にDVや性暴力の被害者支援では、こうした支援者の無意識の癖が二次加害を引き起こしていると私は考えいている。諸刃の剣だ。

*2:念のため言っておくが、それでも人間は他人を嘲笑するだろう。私もきっと嘲笑する。それでもよくないことなのである。嘘をつくのがよくないことと同じである。