小森はるか「息の跡」

 この映画は2013年から2016年の陸前高田を撮影したドキュメンタリーである。陸前高田津波の甚大な被害を受けた。多くの人が家族や大事な人を亡くし、住むところを失くした。その被害のあとすぐに、国道沿いにある「たね屋」が再建した。「たね屋」の佐藤さんは津波でお店の全てを失った。被災後の店舗は柱すら残っていなかった。その跡地に井戸を掘り、自作の店舗を建てて、ビニールハウスで商品になる苗を栽培している。復興工事のトラックがごうごうと轟音で通り過ぎていく中、種を蒔き、芽がでると少し大きな園芸用ポットに移す。佐藤さんはいつも、身の回りの世界に働きかけることをやめない。マカダミアナッツチョコレートを食べていれば、その空っぽになった箱をハサミで切って、新しい種の箱にする。貯水タンクがあれば、そこにマジックで顔を描いてみる。最初は美女の顔を描いて、口紅をつけるように赤マジックで唇をかたどったのに、今度は黒のマジックで眉毛を太くして怖そうなおじさんの顔にしてしまった。そのタンクの蛇口に軍手をはめて、こっちに手を突き出しているみたいに飾り付ける。次にはタンクの隣に、道に落ちていた子どものおもちゃをくっつけた。そのタンクについて、佐藤さんは唐突に語り出し、「このおもちゃの持ち主は津波で亡くなったかもしれない」ということを示唆する。佐藤さんは、「いなくなった者たち」の息吹が聞こえる場所で、小さな創造の世界を生み出している。
 佐藤さんは英語で自費出版で冊子を作っている。津波の被災の事実を書き残し、そこで生き、暮らしていた生活を書き残そうとしている。英語で書いたのは、日本語では苦しくて言葉にならなかったからだ。書き上げた冊子を毎日、自分で朗読している。その声は朗々としていて、読み方も俳優のように格調高い。佐藤さんが文章で表現するのは生者と死者の行き着く場所である「魂の世界」だと感じる。目に見えたものは津波ですべて失われた。だが、佐藤さんは「そこに確かにあったもの」の存在証明をするように英語を綴っていく。そんな風に私には見えた。佐藤さんは英語だけではなく、中国語でも冊子を作っている。佐藤さんの声は「ここにある世界」を超えて、もっと遠くの「どこかにある世界」に呼びかけているように聞こえる。陸前高田の「たね屋」から世界へ、宇宙へと繋がっていくための扉が開かれるみたいだ。
 佐藤さんによれば、住んでいた街の歴史的資料は流されてなくなってしまった。加えて、土地柄もあって、住んでいる人たちは文字で「書くこと」より生活のため手に職をつけることを重視している。不運にもこの土地には記録を残す人が少ない。だからこそ、佐藤さんは記録者になった。誰もやらないのだから、自分がやると決めたのだろう。文献を探し出し、年輪を調べ、海抜を予測してこの土地の歴史を探る。その過程は失われた「死者の声」や「言葉なきものの声」を聞くような作業だ。亡くなった人、土地を去らなければならなかった人、津波に流された植物たち、そうした「いなくなった者たち」が「生きていた」という事実を佐藤さんは「書くこと」で繋ぎ止めようとしていると、私は思った。
 こんな風に哲学的・神学的世界を生きる佐藤さんが出会ったのが、小森はるか監督だ。小森監督は震災後に「芸術に何ができるのか」という問いを抱え、悩みながら映画を撮ってきた。2013年の撮影スタート時は先も見えない貧乏学生だった。その小森監督に佐藤さんは自分のやっていることを話す。彼岸へと呼びかけていた佐藤さんが、此岸に向かってしゃべり始めるのである。小森監督は、下界からメッセージを受け取りに来た使者なのだ。だが、この使者は正直者で、わかったふりもしなければ、お世辞も言わない。佐藤さんは、長く話した後に、何度も「わかる?」「意味わかった?」と尋ねる。小森監督は少しためらったあと「はい」「うーん」と曖昧に返事をする。佐藤さんは「わかんないのかよ」「この話わかるのか、すごいな」とユーモラスに返す。噛み合っているのか、噛み合っていないのかわからない、二人のやり取りの中で、観客席のこちら側も佐藤さんの「言葉の世界」に入り込んでいく。その「言葉の世界」は、「たね屋」の佐藤さんの「生活の世界」と繋がっているけれど、いつもの日常とはちょっとだけ離れた「魂の世界」だ。
 この映画は2016年の「たね屋」の解体で終わる。「たね屋」があった場所は、津波防止の嵩上げ工事で埋め立てられてしまう。自分で屋根を剥がし、「終わっちゃった〜」と佐藤さんは叫んで見せる。最後には自分で作った井戸を取り壊し、パイプを引き抜く。そのパイプが空に伸びていくのをカメラが追うカットを最後に、エンドロールが流れる。あとから、空に伸びる灰色のパイプの映像を思い出すと、あれは宇宙に伸びた通信用のアンテナみたいだったと私は思う。佐藤さんは自分の書いた本に対して「売れなくてもいい。誰も読まなくてもいい。書くことに意味がある」と言いつつ、別の機会には「誰も読まない本には何の意味もない」と矛盾することを言う。それは私もいつも思う。誰に読んで欲しいと言いたいわけでもない。だけど、この言葉を受け取る人がきっといると信じて文字を書く。もしかしたら、受信者は宇宙の別の惑星やあの世にいるかもしれない。それくらいの気持ちを持たないと「魂の世界」には繋がれない。
 もちろん、この映画は被災者を追っており、佐藤さんは津波の経験を持った唯一無二の当事者である。それと同時に、この映画は「もう生きていけない」と思うほど辛いことがあった後に、表現者として生きる道を探す人間の話でもある。これからも佐藤さんの書いたものが、読み継がれて欲しい。(私も映画の上映の後、英語版を購入することができた)