我妻和樹「波伝谷に生きる人びと」

 波伝谷とは、宮城県南三陸町にある地域の名前である。その地に暮らす人々は、波伝谷を「部落」と呼んでいる。海と山に面し、漁業と農業を営む部落は、2011年3月11日に起きた震災の津波におそわれた。しかし、この映画では、ほとんど「震災」の映像はでてこない。我妻監督が2008年から3年にわたって収録した、波伝谷に暮らす人々の日常風景を記録するドキュメンタリーなのである。(以下、盛大にネタバレしているので閉じておく)
 東北学院大学民俗学を専攻していた我妻監督は、在学中から波伝谷で聞き取り調査をしていた。卒業すると、今度はカメラを構えて映画を撮り始める。しかし、ぎこちないカメラワークで撮影し始めると、波伝谷の人々には「我妻くん、飲みなさい」とお酒を渡されてしまう。そのたびに、監督は「あ、はい」と素直に受け取って、カメラを地面に置く。そんなわけで、波伝谷の人々の掘り下げた話は出てこず、ひたすら「どうしよう」「これでいいのかな」という監督の戸惑いが伝わってくる。観客もいつの間にか、波伝谷に迷い込んだように、人々の暮らしを覗き見ることになる。
 美しい山や海の風景。波伝谷では「契約講」という自治組織が重要な役割を果たしている。契約講で村のルールや祭りの手順が決められ、総会や宴会を開いて結束を固める。お互いの仕事は「ゆいっこする」。これは「結(ゆい)」のことで、朝方に仕事を手伝ってもらうと、今度は夕方に仕事を手伝うという互助の様式である。代々の家に引き継がれてきた「契約講」の習わしが、波伝谷の生活を支えている。
 同時に、家を引き継げず「分家」していった人たちは、「契約講」に入ることができず、「結」の恩恵が受けられない。そのため、出稼ぎで資材を得て、海に繰り出し、他人よりも努力して、何もかもを自力で生活を作り上げていく。平和に見えても、「契約講」に入れる本家と、分家した「新興の家」の間には明白な格差があるのだ。
 それでも、少子高齢化や都市化の波の中で、「契約講」は人手不足に向かうようになり、改革を迫られる。昔ながら長男が家を継ぐことは至上命令であったが、今はそこまで強く言えない。だから、本家と分家の間での交流を取り持つようになった。映画の中で、ある波伝谷の男性は「古い共同体がなくなって、新しい共同体ができる」というように、このことを捉えていた。
 ホヤ、カキ、ワカメの養殖。ウニ採り。美味しそうな海産物が並び、波伝谷の人々は朝から晩まで働き続ける。生活を支えるのは簡単ではないが、笑いがあり、酒があり、ちょっとしたいさかいがある。全体が約2時間半あるのだが、そのほとんどは波伝谷の暮らしを少し離れたところから撮っている。正直に言うと、2時間を過ぎて、腰が痛くて、眠たくなってくる。最初は物珍しかった風景が、だんだんと慣れてしまって刺激が薄れていく。「もう波伝谷のことはいいよ」と言いたくなるくらい長いのである。
 そして、長い撮影が終わり我妻監督は2010年の終わりに波伝谷を一度出る。編集作業をするためだ。波伝谷の人々は「役に立つ映画を撮って欲しい」「今から何十年も経って、何もかもなくなったら、重要な映画になるかもしれない」「泣いて、泣いて、泣いて、自分が泣きながら編集する映画にして欲しい」と監督に言う。波伝谷を電車で去る風景を見ながら、これらの言葉が急に身に迫ってくる。つまり、この映画の映像は「ずっと続くはずだった波伝谷の暮らし」を捉えたものだったのだ。
 そのあと、一転して映像は震災後の風景に変わる。我妻監督は、2011年3月12日に、編集した映画を波伝谷の人々と試写をする日を相談するため、前日もそこにいたのだ。しかし、津波の被害を受けた波伝谷だが、ほとんど詳しく語られない。人々の安否もわからない。14日に、波伝谷の人に船で送ってもらいながら、監督は「波伝谷が再生するまで見届けます」とはっきりと言う。それも何か意味深げな様子ではなく、いつも通り、困ったように笑いながら言う。場違いなほど、最後まで我妻監督は淡々としていた。船を降りたところで、映画は終わる。
 「震災」の「悲惨さ」も「死」もここには描かれていない。だが、この映画は痛烈に「震災」で「失われたもの」を突きつけてくる。唐突に、「震災」であったはずの日常が崩れてしまったのだ。それでも、我妻監督は「震災」の「前」と「後」を繋ぐように、徹底的に「非日常」を排除して波伝谷を描く。この先も「波伝谷での暮らし」は続くのだ、続かねばならないのだ、という信念のようなものすら感じる。もっとわかりやすく「感動」や「ショック」、または「知的好奇心」や「苦悩」を掻き立てる映画にできたはずだが、それに背を向けて最後までやりきった。根性の入った映画だった。
 個人的な話だが、私はずっと東日本大震災のドキュメンタリーを避けてきた。私は神戸で生まれ育った。東日本大震災の報道やドキュメンタリーを目にしても、まず神戸のことを考え、重ねてしまう。それはとても暴力的なことだが、どうしてもそうしてしまった。だから、「波伝谷に生きる人びと」が震災前の映像を中心にしていると知って観ようと決めた。「地震」が起きる前のその地の暮らしと、その後の「被災」の話はいつも繋がっている。同じ「震災」はないし、別のものとして受け止めたかった。その意味で、この映画に出会えて本当に良かったと思う。