「些細である」からこそ大事なセクハラの話
セクシュアル・ハラスメントという言葉は、1989年に福岡地裁で始まった訴訟(通称:福岡セクハラ訴訟)をきっかけに、広く知られるようになった。この裁判で弁護団は、福岡の小規模の出版社に勤務する女性が、性的な中傷を受けたことを、性差別によるものであると訴えた*1。また、そのころ「働くことと性差別を考える三多摩の会」がセクハラアンケート調査を実施したところ、全国から多くの女性から、職場で困難な状況に置かれているという声が寄せられた。
「セクハラ」という言葉は、刑事事件として告発されるようなレイプから、職場での不平等な扱い、性的なからかいや中傷、職場にヌード写真を貼るなどの職場環境の問題、女性だけにお茶汲みなどをやらせるなどの性別に基づく役割の固定化など、多岐にわたっている。つまり、第三者が聞けば、「犯罪だ」「暴力だ」と思うような行為から、「些細である」と思うような行為まで幅がある。そのため、「セクハラ」という言葉からイメージされる行為は、人によって大きく違う*2。
もしかすると、これまでセクハラの相談を受けたことがある人も、「世の中には深刻なセクハラの問題もあるかもしれないが、自分が聞いた話はどれも些細である」と感じているかもしれない。しかし、私はその「些細である」ようなセクハラの訴えに対応していくことこそが、重要であると考えている。少なくとも、被害者支援の専門家*3以外の人(私も含まれる)にとって、役に立てるのはそれくらいしかないとすら思う。被害者が深く傷つき、裁判になるようなセクハラでは、素人にできることは本当に限られており、そばにいることくらいだからである*4。
私は、被害者支援の専門家ではないが、性暴力やDVについて研究を行なっているため、身近な人からセクハラについても相談を受けることが多い。その経験をもとにして、以下について書きたいと思う。
(1)「些細である」訴えが重要な理由
(2)セクハラでも「ダメ、絶対」はよくない
(3)「些細である」訴えに対応する方法
(1)「些細である」訴えが重要な理由
では、なぜ、「些細である」訴えが重要なのだろうか。第一に、DVや性暴力にも共通することであるが、被害者の多くは「些細である」被害から語り出すからである。ほとんどの被害者は、自分が受けている差別や暴力が、「被害」と呼ぶに値するかどうか不安に思っている。また、打ち明けた相手が、「大袈裟だ」「嘘をついている」などと反応するのではないかと怯えている。さらに、自らを振り返り、「自分にも落ち度があった」と自分を責めていることもある。そういった被害者が、おそるおそる口に出してみる被害の話は、混乱していたり、筋が通らなかったり、「自分が悪かったのだ」という語りが混じっていたりしていて、すぐに「これはセクハラだ」と断定できるような形になっていないことがよくある。このようなときに、聞き手が被害者を問いただし、真実であるか確かめようとしたり、矛盾を問いただしたりすれば、たちまち黙って「すみません、私の勘違いだと思います」と被害者は再び沈黙してしまう。その結果、聞き手はその被害者の訴えを「些細である」と判定することになる。しかしながら、被害者の話を遮らず、じっくりと聞いてみると、最初に話し始めた被害は、それにとどまらず、長期にわたり深刻な暴力を含むものであったとわかることもある。すなわち、「些細である」訴えが、被害者がかすかに発する救援信号である可能性がある。
第二に、本当に「些細である」訴えである場合、専門家以外であっても対応が可能になるからである。セクハラの被害者の多くは、加害者へ厳罰を課すことより、自分の安全を確保することを望んでいる。特に職場や学校であれば、就労や就学を継続できることが最優先であることも多い。そのため、とにかく「加害者と距離を置く」という対応が必要になる。具体的には、大学であれば学生が研究室を変わったり、部屋割りを変えたりすることが対応策となる。また、被害を訴える人が関係の変化を望んでいない場合は、第三者が「加害者(であると名指しされた人)」に言動への注意を行うことで、事態が改善することもある。「些細である」訴えのうちに対応することで、その暴力や差別が長期にわたり、反復するような事態に陥ることを避けられる。これは、逆の立場になり、もし自分がセクハラをする側になっている場合には、早めに注意してもらえれば、改善が可能であるという希望にもなる。
以上の2点から「些細である」訴えこそが、重要なのである。
(2)セクハラでも「ダメ、絶対」はよくない
薬物依存の問題では、かつてCMのスローガンにあった「ダメ、絶対」という言葉が批判されてきた。薬物を一回でも使うと、もう薬物をやめられないし、後遺症がのこるし、社会復帰もできないという「悲惨なイメージ」を広げることで、実際の薬物依存者はそこから抜け出すための助けを求めることができなくなるからだ。
私はセクハラでも「ダメ、絶対」という姿勢はよくないと考えている。誰もがセクハラの加害者になり得るし、その場合は誰かに助けを求めたほうがいいと思うからだ。いま、多くの企業や大学の研修では、いかにセクハラが重大な問題であり、裁判になれば多額の賠償金を要求され、その後の復職も難しくなるかが強調されている。もちろん、こうしたセクハラへの制裁への恐怖から、差別や暴力が少なくなるかもしれない。だが、こうした状況は、「セクハラ加害者と名指しされたらおしまいだ」という恐怖を引き起こし、セクハラが起きた場合の加害者の強い否認も引き起こす。
たとえば、悪意なく、口を滑らして差別的発言をしてしまうことは多くの人が経験しているだろう*5。もちろん、差別的な意識があるから、「口を滑らせる」ということが起きているのだが、差別的な社会で生きている以上、それをゼロにすることは不可能だろう。「ああ、しまった」と思ったときに、相手から「それは差別です」と言われて、自分を恥じて穴に入って隠れたい気持ちになることは、誰にでもあり得る。だが、「セクハラは絶対に許されないことだ」と強く思うほどに、自分が性差別的な発言を指摘されたときにそのことを認められず、「これはセクハラではない」「あなたのセクハラの理解が間違っている」と言い出す人もいる。ひと昔前のように、セクハラが横行し、それの何が悪いのかわかっていない人が多かった時代には、「セクハラを許さない」のスローガンも有効だろうが、今は状況が変わってきた。セクハラをゼロにするのではなく、セクハラが深刻化しないための対策が必要だろう。
(3)「些細である」訴えに対応する方法
私は、大学に所属することで多くの研究不正防止のレクチャーを視聴したのだが、一番参考になると思ったのは、以下の「研究公正に関するヒヤリ・ハット集」である。
このなかの「研究室の運営、研究指導、ハラスメント」*6では具体的な事例があげられ、学生と指導教員の関係の中で、研究不正やハラスメントが起きそうなときに、それらに関する知識を利用したり、ほかの研究室の教員が声をかけて介入したりすることで、深刻化を避けた方法が紹介されている。こうしたヒヤリハットの事例から学ぶことができることは、個々の研究者の心掛けではなく、職場や学会などで研修を実施したり、開かれた人間関係を維持したりすることで、研究不正やハラスメントを防ぐことができることである。すなわち、個人の責任追求ではなく、コミュニティの場づくりの力で、ハラスメントを防止するのである。
私は、「セクハラ防止に何をすればいいか」と聞かれたときに、「問題を共有する場づくりから始めたほうがいい」と答えることが多い。いまは、ワークショップの方法論も広まっており、「経験を言葉にする」ことの意義も共有されているだろう。少人数で輪になって*7、「私のいる場所で起きたこと」「問題だと思っていること」を共有していくだけでも、大きな意味がある。お茶を飲んでお菓子を食べながら*8、気楽に話せる場を作っていくことが、ハラスメントを深刻化させないコミュニティを作ることに繋がっていく。こうした対策には即効性はないし、子どもっぽくて馬鹿馬鹿しく見えるかもしれない。「ただ喋ってるだけで意味がない」という人もいるかもしれない。だけれど、最短距離で差別や暴力を防止する方法はないと私は思う。差別や暴力を「誰にも言えない」ことについては、「言えない人」に責任があるのではなく、「言わせない周囲の人たち」に責任がある。強くならねばならないのは、個々のマイノリティではなく、マジョリティのコミュニティの弾力である。
*1:なお、その後に原稿であった晴野まゆみさんは、弁護団の被害者への対応の問題を手記の中で明らかにしている。こちらも重要な証言である。
*2:実はこれは、DVや性暴力でも同じである。私は啓発講座で、10くらいの異なる事例を配布し、参加者にグループごとにどこからが暴力であるのかの分類をしてもらい、お互いのイメージがあまりにも違うことを味わってもらうワークをすることがある。念のために書いておくが、このワークには正解はなく「隣の人の考えていることは、全然違うことである」ことを発見するために行う。
*3:司法関係者やカウンセラー等
*4:もちろん、それこそが大事な支援ではあるが。
*5:私もある
*6:https://www.amed.go.jp/content/000064527.pdf
*7:私も知人が主催するワークショップに参加したが、「えんたくん」はとても役だった。
*8:コロナ禍では難しいことだが。