マンガ作品の表現規制について

 私はマンガ作品が人間の価値観に影響を与える可能性を拝しない。価値観は社会的に構成される部分が大きいので、社会に流通するマンガ作品もその一部として機能しているだろう。私たちの性/性役割についてについても、マンガ作品が差別を深めたり、差別に抵抗する力になったりすることはあるだろう。その上で三点を述べておく。

(1)マンガだけが影響を与えるわけではない
(2)「性役割の固定化」と「性暴力」をイコールではない
(3)「表現物を理由にした性暴力」の言説の危険性

(1)マンガだけが影響を与えるわけではない

 私はかねてから、性差別の抑止のために表現規制をするのであれば、性差別的な記述のあるマルクスヘーゲルの文献についても検討すべきだと思っている。私は哲学・思想の学会に出席するが、そこではマルクスヘーゲルの研究者が差別発言を繰り返している。男女二元論による本質化を行い、学会で「女性の本質は出産することにある」と言い出したヘーゲル学者もいる。哲学の研究者は文献を精読し、朝から晩までそのことを考えている。よって、娯楽としてマンガ作品を楽しむ読者よりも、哲学研究者の方が表現物からの影響を受ける可能性は高い。かれらが性差別的な観念を頭に植え付けられてしまった可能性は大いにある。本気で性差別を撤廃するために表現規制をするならば、これらの哲学文献の研究の規制もすべきではないか。
 加えて言うと、私は表現規制には反対であり、性差別を助長するとしても、マルクスヘーゲルの研究を規制するべきではないと考えている。私自身、大学院のゼミでアリストテレスの「二コマコス倫理学」について議論する際に、そこに出てくる性差別的な表現を、出来る限り無視はしたが、苦痛であった。おそらくこの苦痛は男性研究者にはないものだろう。こうした苦痛の有無は男女の研究者の間の非対称性だと言えるだろう。それでも、「二コマコス倫理学」を読み、議論することは私にとって有用であった。なので、表現規制は必要ないと思う。転じて、マンガの中の性差別表現についても規制を求めない。
 さらに私が哲学の文献の話を持ち出したのは、たとえすべてのマンガ作品の性差別表現を規制しても、マンガ以外のこうした専門書の中でも性差別表現は跋扈している点を見逃して欲しくないからだ。そのため、女性の立場から、マンガ作品のみの表現規制は効果がないと考える。
 その上で、こうした文献やマンガ作品が性差別を助長することが、性暴力の助長することとは位相が異なる。私はマルクスヘーゲルの文献を読んで、性暴力を肯定する価値観が支配的だと思ったことはない。「性差別の助長」と「性暴力の助長」は異なる。そのことを(2)では述べたい。

(2)「性役割の固定化」と「性暴力」はイコールではない。

 少年マンガの性表現の有害性の話になると、必ず「少女マンガだって有害だ」という話を持ち出してくる人がいる。「ジャンプ」のカラーイラストに対して「性暴力を助長する」という批判が寄せられた件について書かれた、以下の記事を見てみよう。

 例えば娘が熱心に読んでいた、まいた菜穂12歳。』は、「ちゃお」の看板作品であるが、あれを読んでいると、女子が庇護されるべき存在という感覚とか、女子文化を理解する男子を待ち焦がれてしまうメンタリティとか、そういうものを知らず知らずのうちに植え付けてしまうのではないか、という批判が成り立つ。
 そういう少女マンガの刷り込みというのは、思った以上に深い影響を与える。
 藤本由香里は、

少女マンガのモチーフの核心が、自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に、『そんなキミが好き』だと言われて安心する、つまり男の子からの自己肯定にある、ということを最初に指摘したのは橋本治である。(藤本『私の居場所はどこにあるの?』朝日文庫p.22)

と述べた上で、自分(藤本)はこの刷り込みの虚構性をその場で悟ったものの、最終的にこの少女マンガの呪縛から脱するのには20代の終わりまでかかったことを告白している。

「ジャンプお色気♡騒動」に思う
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170707/1499363338

 ここで挙げられている例に顕著だが、これは「性役割の固定化」の問題である。それに比べて、「ジャンプ」のカラーイラストは、女性が衣服を剥ぎ取られているにもかかわらず、喜んでいるように見える表現から「性暴力を助長する」として批判された。この比較は対照ではない。なぜなら、上で挙げられた少女マンガ作品の中では「性役割の固定化」が行われていても、性暴力は肯定されるわけではないからだ。女性が「女子が庇護されるべき存在という感覚」を持っていたり、「女子文化を理解する男子を待ち焦がれてしまうメンタリティ」を持っていたりしても、それが暴力を免罪する理由にはならない。女性がどんな価値観を持っていても、レイプしていいわけがない。そもそも、「庇護されるべきだと思わないという感覚」や「女子文化を理解する男子を待ち焦がれないメンタリティ」を持っていたとすれば、性暴力を防ぐことができるだろうか。そんなことはない。ある種の性暴力加害者は狡猾であり、被害者のあらゆる弱みを握って、自分の欲望を満たそうとする。この比較はまったく対照的でない。
 それでは、少女マンガの中に「性暴力を助長する」という、ジャンプの件と対照的な作品があるのだろうか。少女マンガにも、性暴力を肯定していると取れる作品はある。有名なのは名香智子「PARTNER」である。

 この作品は1980年から1987年まで少女マンガ雑誌プチコミック」に連載された。社交ダンスがテーマではあるが、セックス描写も十分にある。この作品の中で、主人公の茉莉花は「初恋の相手・フランツ」からレイプされかける。しかし、途中でフランツは謝り始め、茉莉花への愛を語り、二人は交際し始める。茉莉花はフランツとのロマンスに溺れるように浸るのだが、途中から彼の身勝手さに愛想を尽かし、「あなたなんか死ねばいいのよ」と雪山に突き落として別れる。このエピソードの前半は「性暴力から始まる恋愛」を肯定しているようにも読める。だが、この作品はその「恋愛の形」を理想化しているというよりは、「現実にもありえる話」として読者に説得的に描いている。世の中にはこうした「恋愛の形」は皆無ではなく、女性が暴力に傷つきながらも、関係を築いていくことはある。その善悪は外側から断罪できるものではない。
 また、私はこの作品は「性暴力を助長する」可能性もあるだろうが、かつて「性暴力を受け入れてしまった女性」を力づけるものとしても機能するように思う。最後に茉莉花が、フランツに対して「勝手に死ねばいいのよ」という心の中で叫ぶ言葉は「性暴力から始まる恋愛」に対して、抵抗ののろしをあげているようにも見えるからだ。他方、この時、茉莉花は別の男性への助けを求めていて、やはり「女子が庇護されるべき存在という感覚」を持っていると言えるかもしれない。それが、茉莉花の弱さだと断罪し、性暴力被害に遭ったのは彼女のメンタリティが理由だと結論づけることができるだろうか。もし、そうする人がいるならば、その人はまさに「隙あらば性暴力の加害を行って良い」という、暴力的なメンタリティを持っていると言えるだろう。
 なお、「性暴力」に対する「被害者の抗い」を描いた少女マンガ作品が膨大にあることはいうまでもない。いくつか思いつくものをあげておく。
ラヴァーズ・キス (小学館文庫)

ラヴァーズ・キス (小学館文庫)

吉祥天女 (1) (小学館文庫)

吉祥天女 (1) (小学館文庫)

愛の時間 (FEEL COMICS)

愛の時間 (FEEL COMICS)

(3)「表現物を理由にした性暴力」の言説の危険性

 最後に現実の性暴力の問題から、表現規制の危険性について書いておきたい。表現物の影響で性暴力が行われるという言説は、性暴力加害者に「簡単に自己の行為を説明する道具」を与えてしまうことになることを指摘したい。これまでの現実の性暴力事件で男性加害者は「性欲が抑えられなかった」と供述してきた。それが警察官の誘導によるものである可能性が高いと、研究者の牧野雅子からは指摘されている。

刑事司法とジェンダー

刑事司法とジェンダー

 牧野は警察が容疑者の取り調べの中で、加害者に「性欲が抑えられなかった」という言葉を恣意的に誘導して言わせていることを明らかにした。そのため、加害者は誘導に応じて「性欲が抑えられなかった」と述べる。そのため、加害者はやはり「性欲が抑えられなかった」から性暴力行為に至ったと結論づけられているのである。こうして警察官によって、「性欲を理由とする性暴力」の言説が再生産されているのである。この中で性暴力加害者の現実は隠蔽される。
 同じことは今度は「表現物を理由とする性暴力」の言説でも起きる可能性がある。先日、性描写のあるマンガを描いている作者のところに、警察官が訪れて「作品の影響で加害者が性暴力行為に至った可能性があるので、今度は注意をしてほしい」という旨の申し入れをしたという事件があった。こうしたことが連続すれば、警察官が誘導によって「表現物を理由とする性暴力」の言説が再生産されることが、容易に推測できる。この中でも性暴力加害者の現実は隠蔽されていく。性暴力加害者は自己の行為についての責任を放棄し、言われるがままに供述することで、真実を隠したまま、捜査を乗り切れてしまうのである。
 こうした、わかりやすい言説の再生産は、加害者だけではなく、かれらを取り巻く私たちに対しても、「性暴力の現実から目をそらすもの」として機能する。表現物を理由にしていれば、私たちは「問題のある作品」を排除することで性暴力を抑止できる気分になるかもしれない。だが、いうまでもなく、性暴力加害者が性暴力に至る経緯は丁寧に掘り下げて聞き取り、分析する必要がある。現在は性暴力加害者の背景はある程度の類型化をした研究が蓄積されている。性暴力の抑止には、こうした研究と、それに基づく治療プログラムの開発・実践が必要だろう。そのためには金も人材も用意しなければならない。「表現物を理由にした性暴力」の言説が一人歩きすることで、こうした地道な研究や実践が後回しになってしまう危険もあるのである。