お父さんのヒロイズムはいらない
私が昨日書いたセックスワークに関する記事*1に対する批判をいただいたので、あげておく。
「お父さんが語る売春」
http://brighthelmer.hatenablog.com/entry/2013/05/30/045858
もうタイトルからしてゲンナリする。「お父さん」ってなんだよ?もし、内田さんの記事が、自分が売春するという立場にはならないという確信の元、「父―娘」という権力関係で力のある側に立って、一方的に「ジレンマ」と言う名のお悩みごっこを夢想したものであるならば、私はもっと罵倒せざるをえない。私はこの記事のほうが、よっぽど悪意的な解釈だと思う。何もしないほうがマシである。
幸か不幸か私は父親の立場にたつことはない。そして、日々、セックスワークに従事しようとする/している/していた人たちと暮らしている。なので、そんな夢想に浸るつもりもない。
付言すると、私は「あなたの知人がセックスワークを始めると言ったとき、どうするのか?」と聞かれることがある。その答えは「ケースバイケース」と答えるしかない。その人と私の関係性、その人の置かれている状況、その人の就こうとしているセックスワークの仕事の中身、そのほか、「誰が私に何のためにそれを言ったか」によって答えは変わる。というか、大事なことを相談されたときって、そういうものだ。もしかするとSWASHのホームページのアドレスを伝えるかもしれない。
Sex Work And Sexual Health
http://swashweb.sakura.ne.jp/
私は「お父さんのジレンマ」とやらを考える気はさらさらないが、自己決定も称揚していない。というか、自己決定という言葉も使っていない。自己決定なのかどうかなんて、本人にすらわからないこともたくさんある。それはセックスワークに限らない。多くの選択は、「自己決定する」という自覚を持って選ぶ行為と、強要されて自己決定権を奪われたと感じる行為の間にある。お金を手に入れて生きていくことを前提とした資本主義社会の中で、各人は労働の場としていろんな産業を選ぶ。きっと多くの人は周囲の人々との関係性や置かれた環境の中で、自分の意思だけではないものも勘案しながら選んでいるだろう。その中で性産業を選ぶ人だけが、とりわけ「自己決定かどうか」を問われるのは、これまでも、今も、性行為の強要は多く起き、放置されているからである。問題は、自己決定を称揚することではなく、性に関して自己決定権を奪われることが多いということだ。それは、性暴力への取り組みが足りないということである。で、こういうことを言う私はリバタリアンなのだろうか?
さて、現実の子育てに目を向けなおしてみよう。現実の「父親」は架空の存在ではなく、多様である。お金を稼いでいる人もいない人も、買春する人もしない人も、ポルノを見る人も見ない人も、キャバクラに行く人も行かない人も、セクハラをする人もしない人も、自分の子どもを性的に虐待する人もしない人もいる。この性について非対称な社会を形を変えて支えているお父さんがたくさんいるのである。そうした多様な父親を持つ娘の中には、性虐待から逃れるために、児童買春をして生き延びた人もいる。また、父親が暴力をふるうので逃げて、子どもと自分の生活費を稼ぐためにセックスワーカーになるお母さんもいる。もちろん、こういったやむにやまれぬ状況のお母さんだけではなく、自分の働く職業としてセックスワークが一番良いと考えて、セックスワーカーになるお母さんもいる。架空のお父さんがジレンマに悩んでいる間に、いろんなことが起きている。
セックスワーカーの労働の困難の多くは、性差別と性暴力に起因している。性差別とは、男性と女性の力関係だけではなく、性に関するサービスを売るときの誤解や偏見も含む。昨日の記事の繰り返しになるが、セックスワークに関するこうした問題を解決するには、セックスワーカーの権利の保障とセックスワークの非犯罪化・合法化の両輪が必須である。私の内田さんへの批判は「非犯罪化・合法化なくして、セックスワーカーの権利保障はできない」という一点にある。ほかに権利保障をする方法があるなら、具体的にそれを示せばよいと思うが、内田さんはそうしないし、自分の身体感覚を告白して何か言ったことになっているので、批判しているのである。