セックスワークについては、日々議論されている

 内田樹さんのセックスワーク論がブログであがっている。これまでのセックスワークについての議論を、内田さんなりにまとめた後、このように述べている。

「売春婦は保護すべきだ」という主張と、「売春はよくない」という考えをどうやって整合させるのかといきり立つ人がいるかも知れない。だが、繰り返し言うように、現実が整合的でない以上、それについて語る理説が整合的である必要はない。
「すでに」売春を業としている人々に対してはその人権の保護を、「これから」売春を業としようとしている人に対しては「やめときなさい」と忠告すること、それがこれまで市井の賢者たちがこの問題に対して取ってきた「どっちつかず」の態度であり、私は改めてこの「常識」に与するのである。

内田樹セックスワークについて」
http://blog.tatsuru.com/2013/05/29_0836.php

つまり、何もしないのである。これまでどおり、金を出してセックスワーカーからサービスを受けるが、セックスワーカーへの差別を放置し続けるのが「市井の賢者」の態度らしい。要するに、マジョリティはおいしいとこだけいただきます、という宣言である。当たり前だが「それでは困る」から、みんな議論しているのだ。最初から、「このままでいい」というなら、何も言わないのと同じことである。なら、黙っていればいいのに、と私は思う。
 まず、「セックスワークを犯罪とみなすかどうか」だが、その立場には
(1)セックスワークを犯罪とみなす
(2)セックスワークを処罰対象としない
(3)セックスワークを合法化する
の三つが考えられる。(2)と(3)の違いは「非犯罪化」と「合法化」の違いだ。大麻の議論でよく用いられる違いである。セックスワークの「合法化」には反対でも、「非犯罪化」には賛成という立場もありえる。
 次に、セックスワークを「合法化」「非犯罪化」に賛成した場合の問題として、売り手と買い手の力関係が不均衡が挙げられる。これまで法的に禁止されているため、買い手にもサービスを利用することにリスクやハードルがあった。しかし、「合法化」「非犯罪化」されてしまえば、買い手の側の力は大きくなるだろう。もちろん、売り手の側も労働者としの環境が整えば、買い手との力の差は小さくなるだろうが、それまでに買い叩かれてしまう可能性がある。
 そのため、セックスワーカーの労働の権利が守られ、社会的地位が上がり、同業者の間の結束が必要となる。しかしながら、セックスワークが違法化されている限りは、それが弾圧の対象となるため難しい。そこで、セックスワーカーの労働の権利を求めることと、「非犯罪化」「合法化」は車の両輪のように同時に進めることが必要となる。
 だから、セックスワーカーの人権の保護と、「非犯罪化」「合法化」はどちらかが欠けてもうまくいかない。フェミニストセックスワーカー論者も、市井かどうかは知らないが賢者がたくさんいるので、そのくらいのことは考えているのである。
 これは、わざわざ突っ込むのもはばかられるが、内田さんのセックスワークに反対する理由も、ちょっと意味が分からない。

身体には固有の尊厳があると私は考えている。そして、身体の発信する微弱なメッセージを聴き取ることは私たちの生存戦略上死活的に重要であるとも信じている。
売春は身体が発する信号の受信を停止し、おのれ自身の身体との対話の回路を遮断し、「脳」の分泌する幻想を全身に瀰漫させることで成り立っている仕事である。
そのような仕事を長く続けることは「生き延びる」ために有利な選択ではない。

人が自分の身体に関してどういったファンタジーを持つのかは自由だと思うが、他人に押し付けるのはやめて欲しい。それは自分の胸にそっとしまっておき、何とか生き延びようとセックスワークを選んでいる人に「有利じゃない」などと決め付けるのはやめるべきだ。
 自分の身体について、「自分に語りかけている」と感じたり「頭で考えるのとは違うメッセージを持っている」と感じたりする経験は尊い。私もそういう経験はあるが、そんな他人と共有できなさそうなことを、労働について口出しする根拠にしようとは思わない。身体が大声で「セックスワークを選ぶことで生き延びれるぞ!」とメッセージを発していると感じる人だっているだろう。それは「本当のあなたの身体の声ではない」なんて、誰にも言えない。
 さて、私はセックスワーカーの権利を守り、非犯罪化・合法化を求める立場にある。内田さんの言うところの「左翼的セックスワーカー論者」にあてはまるのだろうか。しかし、私はセックスワークについて議論していて、「売春者が社会矛盾の集約点であり、売春婦の解放こそが全社会の解放の決定的条件である」という論を述べたことはない。内田さんは、与謝野晶子上野千鶴子宮台真司セックスワーク擁護の論者としてあげているが、彼らの主張は現代のセックスワークの議論で重視はされていない。
 すでに、オーストラリアでは2003年にセックスワークが非犯罪化され、大規模な調査も行われている。非犯罪化により、セックスワーカーの労働環境は劇的に良くなり、感染症予防もしやすくなったと報告されている。こうした実証が行われる中で、セックスワーカー論者は非犯罪化・合法化を主張している。イデオロギー対立の問題ではなく、現実的な政策の問題として、セックスワークについて論じられているのである。
 他方、私がセックスワークで議論する際に頭を痛めるのは「子どものセックスワーク」の問題と「性的虐待経験を持つ人のセックスワーク」の問題である。強調しておくが、セックスワークの議論で、この二点は中心的な課題ではない。多くのセックスワーカーは、大人であり、性的虐待経験とは切り離してセックスワークに従事している。セックスワーカー論者にとって、前者は子どもの保護の問題であるし、後者はトラウマセラピーの問題である。私もこうした問題があるから、セックスワークを禁止すべきだとはまったく思わないただ、性暴力被害者支援に携わると、どうしてもこの二点をどう考えるのかが課題になってしまう。
 後者については、日本でも報告書が出ているので、再掲しておく。

性的虐待経験者が性産業で働く理由とその実態調査 支援編」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20121231/1356939597

繰り返しになるけれど、私は「性的虐待経験があるからセックスワークをすべきではない」とは思わない。「セックスワークに従事する人がみんな性的虐待経験がある」とも思わない。その上で、考えたいと思っている。
 最後に、セックスワーカー論で参考になるだろう書籍を挙げておく。

売る売らないはワタシが決める―売春肯定宣言

売る売らないはワタシが決める―売春肯定宣言

「セックスワーカー」とは誰か―移住・性労働・人身取引の構造と経験

「セックスワーカー」とは誰か―移住・性労働・人身取引の構造と経験

概念的なことについては、以前、別の記事を書いた。

「性的サービスの売買について」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20110613/1307961519