ちょっと待って、「女性器切除」の話題!

 匿名ダイアリーで、「女性器切除」の話題がブックマークを集めている。

「女性器切除」
http://anond.hatelabo.jp/20090923003429

 この記事によれば、勝間和代が「クーリエジャポン」で「女性器切除」の話題を紹介しているようだ。そちらがどのような記述になっているのか、まだ確認できていないが、少なくともこの匿名ダイアリーの記事は問題があるように思うので、フォローを書いておく。
 ネットで検索しても、「女性器切除」を廃絶する運動の記事が多い。虐げられた女性に対する同情と、そうする男性に対する怒りから、今すぐ「女性器切除を廃絶すべき」だという思いに駆られるかもしれない。第三世界では、いまだ古い掟にムスリム女性が縛られ、犠牲になっているという議論が始まるかもしれない。


 だけど、ちょっと待って。これは、フェミニズムの中で、大きな議論を巻き起こした問題なのだ。この問題をいち早く日本で提起し、今も最も鋭く第三世界フェミニズムに切り込んでいくのは、岡真理である。本来なら、岡さんの著作をそのまま読んでもらうほうがいいのだが、一部を紹介する。

彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想

 まず、「女性器切除」という、この行為の呼び名の問題から始めよう。日本のメディアではFGM(Female Genital Mutilationの略)の訳語として「女性器切除」という言葉が用いられている。だが、この呼び名に アフリカの女性から批判があることは押さえておくべきことである。Mutilationは、日本語の「切除」から想起される「腫瘍を切除する」というような意味合いではなく、「からだの一部を切断することで身体を不完全なものにするというニュアンスがある」*1という。アフリカの女性たちは、この行為が「切除(Mutilation)」ではないから、FGMという呼び名を批判しているわけではない。同じように、身体を切り取り加工する*2ために行われる美容整形を、先進工業国では「切除(Mutilation)」ではなく「手術(Surgery)」と呼ぶことを問題視している。これは、自文化で行われる切除を「手術(Surgery)」と呼び、アフリカの習慣で行われる切除を「切除(Mutilation)」と呼ぶことへの批判である。この語の選択には「自文化中心主義」があるというのだ。岡さんは以下のように書く。

 こうした批判から、Mutilationということばが検討に付され、自らの自文化中心主義を自覚し、これを批判していこうとする者たちが、この習慣をFGS(Sugery:手術)と呼ぶようになった。しかし、Surgeryということばは、近代的な病院における医療行為を連想させるが、「女性割礼」の実態は必ずしもそうではないため、このことばを不適切だと考える者もいる。現在ではMutilationのような「身体を不完全なものにする」というニュアンスのない、より中立的なものとして、FGC(Cutting:切ること)ということばも用いられていると聞く。
 「割礼」と呼ぶか、FGMと呼ぶか、あるいはFGS、FGCと呼ぶのか。こう呼ばねばならない、ということはないし、こう呼びさえすれば、いついかなる場合においてもあらゆる批判を免れる、ということもありえない。なぜなら、語るものそれぞれの位置やコンテクストが異なるからである。自社会の「伝統」擁護者に向かって、「これはMutilationだ」と語るアフリカ人フェミニストも、先進工業世界のフェミニストかその自文化中心主義に無自覚に、こんな暴力を少女に対してふるうアフリカ社会は野蛮で遅れているという潜在的メッセージを滲ませながら、これはMutilaitonだと語ることに対しては、「これは割礼であり、文化的な行為である」と言うかもしれない(それは「文化だからよいのだ」というのとは全然ちがうことだ)。私もまた、アフリカに対する潜在的レイシズムを表しているようなMutilationということばの使い方には意義を唱えつつ、しかし、あれはアフリカの「文化」だから「伝統」だから良いのだ、異文化の人間がとやかく言うことではない、と言う者がいるとすれば、それに対してはアフリカ社会のなかにあってさえ、この習慣に対する見方は多様であり、とくにこれをMutilationだと言って、その廃絶を求めているアフリカの女性たちがいるのだということ、そして「文化」も「伝統」も不変ではなく、歴史的につねに変容を被ってきたし、これからも変わるものであることを主張するだろう。*3

こうしたどっちつかずの態度を、どう捉えるべきだろうか。いまも、この世界で、女性器を不潔なナイフで麻酔もなくカットされている少女たちがいる。刻々と犠牲者が出ている。彼女たちは抑圧され、「正しい医療的情報」も手に入れられない。それが犠牲であることすら気付かないのだ。こうした描写は、誤りだとは言えないだろう。「私たちは、かわいそうな少女たちを、救わなくてもよいのか?」あなたは、少女の人権と、イスラム文化のどちらを選ぶのか。こうした問いに対し、岡さんはこう書く。

 「フェミニズムイスラーム」「普遍的人権主義 対 文化相対主義」といった粗雑で安直な二分法――二分法とはえてして粗雑で安直なものだが――による議論は、したがって、問題の本質を隠蔽するための中立性、客観性を装った装置にすぎない。そこでは、ムスリム女性であることとフェミニストであることが、あるいは自文化の伝統に主体的に参与することと、普遍的人権を信じそれを実践することが、あたかも相互に排他的で、両立不可能なものとして前提されている。しかし、このようなパラダイムを無条件に前提とするということであり、そこで行使されている権力を無条件に承認するということである。こうした二項対立の議論の真の意図は、いずれの立場が正しいのか、を論じることにあるように見えて、実はそうではない。一方的かつ恣意的に他者を表象する権利に対する承認こそがひそかにもくろまれている。
 だから、この問いは罠である。彼は執拗に問うてくるだろう。「あなたはどちらの立場をとるのですか」と。中立性を装いながら、そして、あなたに主体的選択を保障しているように見せかけて、しかし実際のところ、この問いはいささかも中立ではない。だれしも正義の側に立ちたいものだ。「差別主義者」のレッテルを貼られるのが分かっているような立場を敢えてとるのは勇気がいる。だが、問題はそれだけではない。なぜなら、いずれの立場をあなたが「主体的に」選択するにせよ、このような議論のパラダイムに乗ってしまった瞬間、あなたは、だれが他者を表象する言説の主体になるべきかについての前提を承認してしまったことになるからだ。だから、私たちはこの問いに答えてはいけない。問題なのは、「普遍的人権主義」か「文化相対主義」か、なのでは、ない。このような二項対立的議論を生じせしめるような言説のトポス――他者を表象することで、これを支配したいという欲望が生じるトポス――をこそ、私たちは問わねばならない。*4


 ここで、もう一度、匿名ダイアリーの記事に、話をもどそう。この記事の書き手は、次のように書く。

僕にできることと言えば、こうしてブログの記事を通してこういった事が現実にあるということを知ってもらうことしかできない。ただ、このエントリを見た方がそれに続けて他でアウトプットしてもらえればさらに拡大する。まずは知ってもらうことくらいしかできないが、アフリカの伝統文化だから周囲の国々、個々人が手を出すものではないというのではなく、人間として、基本的尊厳として、こういった「ただの女性差別」、非人道的行動をいち早く無くす方向に持っていく必要があることは間違いない。
http://anond.hatelabo.jp/20090923003429

この「僕にできること」として書かれた行為は、「かわいそうな抑圧された少女たち」という像をインターネットを通じて複製し、流布させることである。ここで言われる「現実」とは「僕」が切り取り、「僕」の目を通して、痛ましさを付与された、犠牲者のイコンである。少女たちは声をあげられない。だから「僕」が代わりに語ってあげるのだ、声なき者たちの声にならない叫びを。こうして、彼女たちの声は、「僕」に奪われ消し去られていく。
 岡さんは、著作でエジプト女性作家ナワール・エル=サアダーウィーの作品が、「先進国」フェミニストによってどう読解されたのかについて詳述している。結論をだけを抜き出そう。「先進国」フェミニストたちは、サアダーウィーの作品から、北側先進国が第三世界新植民地主義により構造的に搾取し、政治的自律性を奪うことで第三世界の民衆を貧困と抑圧に追いやっている構図を消した。そして、第三世界が後進的であり、「イスラーム=抑圧的な宗教」「ムスリム女性=無力な犠牲者」という構図だけを言説化したのだ。また、サアダーウィーが「先進国」にある女性に対する抑圧を指摘すれば、パーソナルな女性という部分を抜き出し、「同じ女として」連帯しようとし、後進国とみなす自らの視線を隠蔽する。こうして、第三世界第三世界化され、女性たちは犠牲者化される。
 岡さんは、次のように書く。

 私たちは「第三世界」の女性たちにの現実について、よりよく知らねばならない。それは「第三世界」の女性たちの自己表象をめぐる上述のような困難な状況について認識するということでもある。だが、私たち北側先進工業世界の人間が「第三世界」について知ろうとするとき、「知る」という営為自体が実は、すでにさまざまなレベルで差別性を帯びてしまっているという事実に努めて自覚的であらねばならないだろう。いや、そもそも他者を知るという欲望が生起するトポス自体が中立的ではありえないのではないか。
(略)
 だが、このとき、こうした言説によって私たちが都合よく忘却の彼方に追いやってしまうことがある。それは、私たちの社会もまた、サアダーウィーが主張するように、アラブ社会やアフリカ社会と同じくらい、時にはそれ以上に、父権主義的で暴力的で野蛮であるという事実であり、さらに、私たちの「先進的」で豊かな暮らしが「第三世界」に対する構造的搾取の上に成立しており、アフリカの女性にとっては、そうした先進工業国の経済搾取による貧困化の問題も、性器手術にまさるとも劣らず重要な問題であるという事実である。*5


 言うまでもないことだが、「僕にできることと言えば、こうしてブログの記事を通してこういった事が現実にあるということを知ってもらうことしかできない」という認識は誤りである。まず、あなたは女性器切除の何を知ったのか。そして、できることは何なのか。私も、この書き手が悪意があったとは思わない。私も、女性器切除の話を聞いた時、同じことを思ったからだ。今、同じことを書かないのは岡さんが著作を通して、新しい知見を教えてくれたからだ。そして、何を知ったのか、という問いは、私にもまた投げ返されるだろう。できることは何なのか、という問いもしかりである。「知りたい」「なんとかしたい」という欲望もまた問われ、わかるのは自らが内面化した差別意識なのかもしれない。
 ただし、勝手に絶望したり、無力感に陥る必要はない。第三世界で人々は生きているからだ。私は無知である。だが、無知のままである必要はない。第三世界の人々が変わっていくように、私たちもまた変わっていくことができるからだ。


 ところで、勝間さんの記事は一度確認したほうがいいかもしれないと思っている。数年ごとに、こうした「かわいそうな少女たち」の話題は、紙メディアであがってくる。以前、私が紹介したのはこちら。

キャディ『切除されて』
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070625/1182738048

*1:岡、54ページ

*2:いわゆる病気の治療ではない身体侵襲である

*3:岡、55ページ

*4:岡、44〜45ページ

*5:岡、53ページ