死刑について考えた経験

 大学の少人数のゼミナールで、死刑制度が議題にあがったことがあります。そのとき、先生が学生に対して「君たち、自分なら、被害者と加害者のどちらになったほうがマシだと思う?」と問いました。私はそのとき、「なんてナンセンスな質問なんだ」とムラムラ怒りがわいて、答えませんでした。その先生は、私が性暴力被害者の支援活動に関わっている*1ことも知っていました。それなのに、「君はどう思う?」と私を指名しました。自分がどういうふうな表情をしていたのかわかりません。睨んでいたのかもしれないし、無表情になっていたかもしれません。そのとき、私は「被害者になる残酷さ」をここで訴えるべきかどうか迷いました。それともあえて被害者支援の立場から、「加害者にもまた支援が必要なのだ」と言うべきかどうか迷いました。でも、結局どちらも選べずに沈黙してしまいました。先生は「どちらも悲惨で、できれば起きないほうがいいのだけれど、それでもどちらかというと、私は被害者の方がマシだと思う」と言いました。
 今、同じことを聞かれたら、私はどう答えるのか、わかりません。また黙ってしまうかもしれません。でも、今思うことは、なぜ私は何も言えなかったのだろうか、ということです。たぶん、それは議論のテーマとして、被害者の苦痛と加害者の苦痛を比べることが、冒涜的だと思ったからです。その苦痛の前では、沈黙すべきだと思ったからです。でも、その時、先生の問いは、苦痛を低く見積もったから立てられたものではなかったようにも、感じました。私は、自分がそこで沈黙したことを正当化できるのでしょうか。被害者も加害者も苦痛を味わいますが、それは質の違う苦痛です。ならば、比べてもよいかもしれません。
 沈黙してしまうような苦痛の前で、問いを口に出し、何か言うこと。問うてはいけない、問いはあるのか。
 被害者は、自ら被害者になることを選んで、被害を受けることはありません。加害者は、自ら加害者になると知って、加害を加える。被害者になることに責任はないが、加害者になることには責任がある。そこには圧倒的に非対称性があります。そうでありながら、多くの加害者は自らの責任を否定し、好きで加害を行ったわけではないと主張します。加害者の生い立ちや過去、コントロールできない性癖、自他共にわからない衝動、それらの原因は加害者を理解する手助けにはなっても、「なぜ、踏みとどまれなかったのか」という一点はわかりません。「なぜ、あなたは加害者として生きることを選んだのか?」という問いは、その裏で「被害者として生きるよりはマシだから」という答えを隠し持っているのかもしれません。そして、そうでないかもしれないません。
 私は何十回も、この問いを思い出しました。もちろん、一番大きな理由は、上のようなことを考えることが多いからです。でもそれ以上に、「沈黙を破って先に進もうとすることが、学問の入口であること」を学んだ瞬間だからかもしれません。そして答えが出てないということは、まだ私は自分が学問の掟が理解できず、入口で立ち止まっているのだと気づくのです。

「誰もが掟を求めているというのに・・・」
と、男は言った。
「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」
いのちの火が消えかけていた。うすれていく意識を呼びもどすかのように門番がどなった。
「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」

カフカ「掟の門」


カフカ短篇集 (岩波文庫)

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*1:当時は今よりどっぷり被害者支援に入っていたので、「研究者は役に立たないからいらない」とか普通に思ってました(今は思ってません)