非モテは語ることができるか?

 秋葉原の事件後、犯行直前に犯人が書き込んだと思われる、文章が一部でアップロードされている。そこで語られたのは、「モテ」についてだった。
 多くの人が、この事件を心理学や社会学によって分析することに、違和を表明している。説明が過剰だという人もいる。だが、そのような分析が溢れるのは理解できなくもない。
 アップロードされている書き込みが、実際に犯人によってなされたとするならば、彼が犯行直前にこだわっていたのは「モテ」だったというこになる。「モテないから、無差別に人を殺す」そんなことがありえるのだろうか?親との不和や、精神の未成熟や、派遣労働の厳しさが理由であったほうが、よっぽど納得しやすい。実際には、私には納得できないが。
 私がこのアップロードされている書き込みをみて、瞬間的に思い出したのは、杉田俊介「無能力批評」である。

無能力批評―労働と生存のエチカ

無能力批評―労働と生存のエチカ

今、手元にないので、引用できないが、杉田さんは、次のように述べていたように思う。杉田さんは、借金を抱え、職もなく、家族に迷惑をかけ、精神的にも身体的にも追い詰められていた。そこで、一番辛かったことは、「自分が非モテである」ということだった。
 私が、この部分を読んで感じたのは、杉田さんが「非モテ」という言葉で語ろうとするのは、私が思っているような単純な「恋愛してセックスしたい」ということではない、ということだった。杉田さんが欲したのは、自分でも受け入れがたい醜い自己像を、「恋人」によって承認されることだった。一般的な言い方をすれば、これは「他者からの無条件の肯定を求めている」ということになるだろう。しかし、ここで家族でも友人でもなく、「恋人」に承認を求めている点が、ポイントとなる。だから杉田さんは、「孤独な人間」というポジションではなく、「非モテ」というポジションで語ろうとする。
 これは、若い男性のセクシュアリティに関連することではないか、と推察する。たとえば、id:kanjinaiさんは、さりげなくその点にふれている。また、もう女性は二次元で十分で、三次元の恋人はいらないと宣言した本田透や、その主張に賛同している人たちにも関連しているように直観する。
 また、秋葉原という都市にも関連するだろう。私は、あいにく、その街に一度も足を踏み入れたことがない。「非モテ」の敵は、「スイーツ(笑)」な女子のはずだ。なぜ、南青山や表参道*1、それに渋谷でナイフを抜かなかったのか。犯人が、オタク(と見られるだろう人たち)が集う場所で、ナイフを抜いたのは、なぜなのか?「非モテ」と「オタク」は同一、または同志ではなかったのか?
 もちろん、ここで「非モテ」というポジションをとる人に、外部にポジショニングしながら、私がそれを強いることは暴力とみなされるだろう。かといって、この件については、私は自らも「非モテ」のポジションに入る、ということはできそうにない。*2だから、私にとっては、これらのことは謎のままである。

追記

id:kanjinaiさんが改めて記事を書いている。
秋葉原事件と「男性性」

*1:とかが、たぶん東京のおしゃれな街なんだろう

*2:モテるからではないです。私の性愛をめぐる葛藤は、少なくとも杉田さんが語る「非モテ」のものとは、別の形をとるからです。