児ポ法おぼえがき

 児童ポルノ法についての、自民・民主の合意がなされたという報道が流れている。しかし、それに関しては「持ち越しになった。まだすべて合意したという段階ではない」との証言*1がある。政局に左右されるというのは不本意ではあるが、事実なので状況が気になっている。ここ二週間ほど、インターネットに接続する時間が減っていて、ネット上の議論も追えていない。もう少し整理した記事を書きたいが、いまのところ考えている部分だけメモしておく。

(1)単純所持規制に関しては原則支持

 私は、単純所持規制に原理的には賛同する。いったん記録された児童性虐待の静止画・動画が自由に閲覧できる状態で放置されている現状に対し、なんらかの被害者救済を求めなくてはならない。しかし、法がなくては、被害記録の回収もままならず、被害者は泣き寝入せざるをえない。単純所持を規制することには賛同する。
 だが、「単純所持規制が犯罪抑止につながる」との主張や、「小児性愛撲滅が必要」との主張には賛同しない。

(2)児童ポルノの定義について

 児童性虐待と、そうでない児童の性的静止画・動画を区別するのかは非常に難しい問題である。
 まず、ポルノの定義について考える。「あからさまな」「露骨な」という言葉が挿入されることもあるが、「あからさま」「露骨」に性的であるとはいったいなんであろうか。児童性虐待の場合、被害者が自ら進んで被写体となり、心からの笑顔で登場することも少なくない。それが性的搾取であることを知らないことが理由であったり、大人の歓心を買うことが理由であったりして快く応じる。しかし、そうして進んで性的対象となった/ならされたことこそが、大人になったとき、被害者の心を痛めつける。*2
 そもそも、ポルノ全般に言えることだが、暴力であるかそうでないか、犯罪であるかそうでないかの線引きは曖昧である。話を広げれば、ポルノだけではなく、記録されない性行為にもこの曖昧さは問題となる。そうした曖昧さに関しては、私は今後、自分の課題として研究していこうと思っている。現在、結論はまだ出ていない。
 次に児童に関しての定義について考える。私は、児童に関しては性の自己決定を理由に、児童ポルノ出演を可能とすることには賛同しない。ただし、児童の定義を12歳または15歳に引き下げて禁止する案もありえるだろう。その際、法的に12歳または15歳で線引きする根拠が必要となるが、それは私は持ち合わせていない。なので、主張には足りない。
 なんにせよ、児童ポルノとはなんであるのかの議論が十分であるとは言えない。今必要なのは、法案の議決ではなく、性に関する議論ではないのか。その点はもう一度確認しておく。

(3)ヴァーチャル児童ポルノに関して

 この点は、ブログで何度か議論してきた。*3ヴァーチャル児童ポルノの単純所持規制は拙速であり、法案ですら避けられている。しかし、ヴァーチャル児童ポルノと児童性虐待の関連についての研究を進めることが明言されている。
 私は、この問題について研究すること自体には大賛成である。しかしながら、政治が介入すると、研究がゆがめられたり、虚偽の報告があげられることが多くある。*4研究者にとれる立場は三つである。「国の研究に参与する」「国とは別に研究を進める」「研究しない」私はいずれの立場をとるのかまだわからないが、幸か不幸か私の実績では国に呼ばれることはまずないので、後者のうちのどちらかだろう。研究者でない人がとれる立場も三つである。「独自に研究する」「研究者を監視する」「無視する」いずれかの立場を選ばなければならない。

(4)被害者に対してどうするか

 率直に言うが、私が性暴力被害者支援に関わっているときに、ユニセフから協力を求められたことがある。その中で、「もう日本という国は外圧でしか動かないのではないか」との意見があった。私は、外圧に頼る規制に反対したが、多くの団体のメンバーはユニセフに好意的であった。当然であろう。性暴力被害者が捨て置かれ、次々と被害者が死んでいっていくなかにいれば、たとえ拙速であっても政治的解決を望む感情は出てくる。そこまで言わせたのは誰か。そして、私が、支援団体を抜けた理由には、いつまでも慎重論をとなえ、あげくは「赦し」について議論しようとする私の態度に、周囲が違和感をもったこともある。(もちろん、それだけではない)なんにせよ、こうした切迫した思いと、どう対峙していくのかは、絶対に迫られる問題である。

 こうした点を踏まえた上で、何をするのかは問われる。もちろん、インターネット上で社会運動は可能かもしれない。しかし、その運動を大文字の政治にどう結び付けていくのか。法案が通る時は、一瞬である。議決に向けて動き出してしまえば、政治家以外にできるすべはほとんどない。あえて、今回「マスメディア」の問題は無視して、ここまで書いてきた。「マスメディアを利用する」という戦略は、政治の入口では耳が腐るほど聞かされる。私は、こうした戦略は信じていない。マスメディアほど風見鶏で信頼に足らない協力者はいないからだ。
 児童ポルノ法については、多くの人が疑問を持ち、意見を持っているだろう。だが、心の中でいくら唱えていても政治は変わらない。もちろん、変えないという立場も一つだろう。ただ、ひとつわかっていることは、自由とは闘わなければ得られず、奪われ続けるものだということだ。