「幸せになりたい」と言うことへのハードル

 先の事件で、「なぜ、秋葉原だったのか」という問いを立てた。それについて、自分をオタクで非モテであるというポジションに置いて書いている人がいる。

秋葉殺人犯が殺したかったのはオタクでは?

 id:heartless00さんは、オタクが「脱オタク」することの困難さに触れている。オタクだが、やはり恋愛したい。オタクだから恋愛できないのであれば、オタクであることをやめよう。そう考え、奔走するのだ。しかし、脱オタクしても/しようとしても、やはり恋愛できないこともある。そのとき、オタクは、「オタク差別」が原因で恋愛できないのではなく、自分自身に問題があるから恋愛ができないという結論を出すことになる。そのとき、オタクは「オタク差別」を内面化するという。
 すなわち、それは、自分が「本質的に恋愛できない存在」であると規定することである。自分が自分であるかぎり、恋愛を諦めなければならない。この差別の内面化による自己否定によって、加害者は「気が狂った」のだと、heartless00さんは分析する。
 そして、次のように提言している。

「二次元だけで〜」は恋愛できない人が恋愛圧力や脱オタ圧力と戦うための理論武装である事をもう認めたほうがいい。たしかにこの理論を使えば、恋愛できない恋愛至上主義者にオルタナティブを提示できるし、自分のルサンチマンも相対化できるが、それは一時的な慰めしか得られない単なるツールなのだ。人は人を差別するクズだし、その人もそんなクズの一人なのかもしれない。しかしその人はそんなクズでありたくないと悲しむ人であるべきで、不細工が差別されていいわけないし、非モテは愛されるべきだし、その人は幸せを望むべきなのだ。要するに負ける戦を泣きながら楽しむべきで、一生ぶれぶれぶれぶれぶれまくるのが正解なのだ。

ぶれている間も愛を忘れてさえいなければ自分が誰かを愛する事はできるのだ。例えばキャラクターへの能動的な愛、永遠の片想い、次元を超えた遠距離恋愛。キャラクターの幸せが僕の幸せなのだ。誰と戦うか、もしかしたらそんなキャラを不幸にする物語を書きやがる作者かもしれないが・・。そもそもモテないから愛されない、という設定も疑問だ。id:p_shirokuma先生ではないが、恋愛しているように見えるリア充の恋愛が本当に恋愛なのか怪しい。世界は愛を忘れかけているのかもしれない。「恋愛は死んだ」「愛がすべてだ」(by本田透)。オタクは三次元にもガチで愛を求めてキモがられると言う。知り合い曰く「愛?はっはっはwwないないw。ケータイ小説じゃないんだから」。今まで「オタクは社会に同化するべき」と言われてきた。愛に殉じるオタクのあるべき主張は「社会をオタクに同化せよ」ではないだろうか。

この「幸せを望むべきだ」という言葉を、私は少なくともheartless00さんからは受け取りたいと思っている。こうした思いを抱える人たちが、バカにされたり、傷つけられない社会を作る責任があるだろう。そして、「恋愛しているように見えるリア充の恋愛が本当に恋愛なのか怪しい。」という疑念も、私はまっとうだと思う。
 そのうえで思う。恋愛っていったい何なんだろうか?私自身よくわからない。少なくとも、「男と女が(一対一で)愛し合う」というような、古臭い定義では描ききれないものがある。友愛でも親子愛でも同士愛でも、ついでに性愛でもなく、恋愛。私はヘテロモノガマスな関係を継続中なので、「異性愛にとらわれているのか」「モノガミーにとらわれているのか」と悩んだりもする。だが、私にとって、これは、どうも答え切れない。
 なぜ、インターコースではなく「恋愛」を問題にするのか。そうさせる何かが、現代社会にはあるんだろうなあ、とは思う。