死の瞬間を記録する

 秋葉原の事件で、そこに居合わせた人たちが、被害者の写真をケータイで撮っていたことが問題になった。今、息絶え/息絶えようとする人の前で、<報道という大義もなく>シャッターを押す人々への批判が相次いだ。
 そのことについて、id:complexequalityさんが、興味深い洞察を行っている。しかし、残念ながら記事を別の場所に移し、もうすぐidごと削除されるようだ。
 complexequalityさんは、自身のライフログへの執着について語る。ライフログとは、日々の記録である。ケータイやデジカメの写真を撮り貯め、ブログにアップロードすることも、一つのライフログの試みだろう。complexequalityさんは、このライフログに対して、強い思い入れがあることを語る。

 何のためにライフログを蓄積するのか。

 いくつかの理由はある。過去の経験を参照可能にしておくことで、あとで思い出すのに便利だから、だとか。あるいは、友達と一緒に笑いあうために、映像や残しておくと、わかりやすいから、といった理由もある。

 しかし、おそらく最も重要な理由の一つは、記録する「わたし」の実存に関わっている。

 「書かれたモノ」「記録されたモノ」は、わたしが死んでも残る。「記録されたモノ」がはわたしの生き死にとは無関係に残ったり、消滅したりする。わたしの生き死にとは無関係に、わたしの存在していたことを保障するものだ。もちろん、わたしの生き死にとは無関係にわたしの存在を記憶しておいてくれる存在は他にもあるだろう。たとえば、わたしの友人や、わたしの実名を知ることもないネット上の知人たち。彼らはわたしの存在を記録するのではなく、記憶をしていてくれるだろう。どれほど記憶していてくれるかはわからないが。

 わたしの今まで書いてきたものが燃やされてしまったらわたしは悲しい。わたしをよく知ってくれている人が死んだとき、わたしはもっと悲しいだろう。もちろん、わたしは忘れ去られていくだろうし、書いたものはいずれ消失するだろう。しかし、せめて、わたしの手の届く範囲で、わたしは自らの記録/記憶を止めておきたいという欲望がある。

http://www.critiqueofgames.net/2008/06/200806091305_wr_1.html

似た内容を、別の人から聞いたことがある。この欲望は、私にはあまりないものだ。私にとって、書いたもの、撮ったものは、全て「私でないもの」として認識されている。痕跡ではあるが、どれもこれもが(このブログも含めて)、私の延長線上にあるとは感じられず、すべて嘘のように思える。これはcomplexequalityさんと私が、記録に対して、まったく違う感覚を持っていることを示している。
 そして、私が、息を呑んだのは、この後に続く、次の記述である。

 再び、話を秋葉原に戻そう。

 もし、昨日の12時30分にわたしがデジカメを首からかけていたら?

 そして、逃げ出すときに、わたしがデジカメのムービー録画スイッチをオンにする落ち着きを持っていたら?

 

 わたしは、わたしのために、録画スイッチをオンにしただろう。

 犯人がBBSに書き込むよりも、もっと重要な確信をもって、わたしは録画スイッチをオンにしただろう。

 死の可能性を前にライフログを残すことは、わたしの実存にとっては替え難い。

その罪深さもcomplexequalityさんは理解している。それでも「きっとやってしまうだろう」と述べる。もちろん、内容に息を呑んだのもある。しかし、私がこれを通して感じたのはcomplexequalityさんの「この欲望を明らかにする」という気迫である。
 私は、この記述を読んで想像する。犯人がナイフを私に向ける。そのとき、complexequalityさんの構えたビデオを通した視線がこちらを向いている。また、私がナイフを持つ。そして他の誰かにナイフを向ける。そのとき、complexequalityさんの構えたビデオを通した視線がこちらを向いている。私は、complexequalityさんのビデオに気づいたとき、きっとそれを正しく認識するしかないだろう。「ああ、ビデオを撮っている人がいる」それでしかないだろう。なぜなら、私にはcomplexequalityさんと欲望を共有することはできず、それが欲望であることすら気づかないからだ。そして死ぬ/または殺す。最後に目にするのはcomplexequalityさんのビデオかもしれない。
 この想像は単なる虚構でしかない。私もcomplexequalityさんも、その場には居合わせなかった。そして、このような凄惨な事件をネタに、こういった虚構を編むことは不謹慎だとも思う。ただ、complexequalityさんの文章を読んで、私はそういうインパクトを受けた。応答になるのかはわからないが、今の私には、complexequalityさんが書いていることに答える言葉は、これくらいしか思いつかない。