池内靖子「女優の誕生と終焉――パフォーマンスとジェンダー」

女優の誕生と終焉―パフォーマンスとジェンダー

女優の誕生と終焉―パフォーマンスとジェンダー

 日本の近代演劇における、女優の扱われ方の変遷を、言説分析と戯曲分析から読み解こうとする一冊。
 一章では、国民国家の誕生と帝国主義と共に、日本に「女優」という存在が構築されてきたことが、明らかにされる。「女優」が近代化の産物であることは、これまで指摘されてこなかったのが不思議なほど、明確である。明治期の日本で、それまで男だけでやっていた「歌舞伎」から、演劇改良運動による近代劇の確立が試みられていたことは、よく知られている。その中で「自然」な演技を求めて、「男は男が演じる」「女は女が演じる」という性別二項対立による、性別役割分業が行われることになる。もちろん、男性の視線から、女優は「娼婦性」を求められていく。それと同時に、明治政府の検閲により、その「娼婦性」は否定されるべきものとして、規範化される。しかし、女優の側もまた、ときには「娼婦性」を売りにし、ときには遊女と女優を差別化することにより優位に立ち、自らの像を構築していく。
 また、松井須磨子ら女優側と、それをとりまく平塚らいてうや長沼ちゑらの女性解放思想のズレの指摘は重要である。松井らは、「求められた新しい女性像」を演じて、それを「女優像」として、能動的に構築する側面があった。それにより、多くの女性たちが具体的な「新しい女性像」を目にして、憧れ消費した。一方で、平塚や長沼のような思想家は「外面を取り繕っただけの、中身のない女性像」として冷ややかな視線を送っている。これは、一見、同じ「新しい女性像」を探求してたようにみえる、演劇の世界を生きる女性と、思想の世界を生きる女性が、断絶されていたことを示す。いくらイプセンの「人形の家」を上演していようとも、そこに「女性解放思想」は根付いていない。
 さらに、演劇もまた、「ヨーロッパに対する植民地/アジアに対する宗主国」という二側面の文化的状況にさらされていたことが指摘される。そこで、「ヨーロッパ/アジア」を「男性/女性」とみなそうとするヨーロッパに対しては、能動的にオリエンタルな日本性を強調する。一方で、アジアや日本国内に対しては、ヨーロッパ的近代自我としての個人の確立を目指す。この二面性をあらわにした具体例として、川上貞奴が取り上げられている。
 これらの、池内さんの分析の記述は、これからの演劇学において、教科書的に使える基本知識になるだろう。 

 二章では、近代演劇を否定した、1960年代から始まるアングラ演劇が取り上げられる。鈴木忠志佐藤信寺山修司らがとりあげられる。さらに、女性演劇家の岸田理生を取り上げ、天皇制を中心に論じている。
 アングラ演劇の脚本家のマチョイズムと、天皇制を重ね合わせて分析していく点は面白いが、私はあまり興味を持てなかった。あまりにも言説を、個人に還元しすぎていないだろうか。
 まず、評論家の言としてよく引用されている扇田昭彦だが、彼はやはりジャーナリストという枠組みで見るべきではなかろうか。扇田さんの功績は大きいが、あくまでも、大衆に訴えかける、キャッチーでわかりやすい表現を目ざしている。そのぶん、読むには演劇作品の臨場感が伝わってよいが、通俗的で批評性に欠ける。注目すべきは、扇田さんの評論にバイアスがかかっていることではなく、扇田さんのような存在を通して、演劇を需要の促進が図られたことではないだろうか。
 また、とりわけ鈴木批判に関しては、彼の演劇理論を論じるというよりは、差別発言を収拾しているような趣も見られる。鈴木さんの演劇理論は「スズキメソッド」と呼ばれ、海外でも高く評価されている。池内さんが批判的にとりあげる鈴木さんの女優論の問題は、彼の個人的な性差別意識にとどまらず、鈴木さんの演劇理論が持つ「演出家―役者」の支配関係にあるように感じる。演劇家の川村毅は、講義形式での演劇論を展開する中で、次のように述べている。

 鈴木は演出に批評を大胆に導入した恐らく最初の演出家だったのではないか、そもそも演出という行為にはどんなに慎ましやかな演出かも扱おうとする戯曲なりテキストに対して何らかの批評の、言葉、態度、立場表明なくしては演出できないものですが、その批評の強度の圧倒的な大胆さにおいては鈴木は他の追随を許さなかった。別の言い方をすれば、こんなにまで我が強く、稽古場で自信に満ちた専制君主ぶりを発散させている演出家がこれまで日本にたいだろうか、恐らくいたかも知れないが、威張りぶりの根拠がそれまでの演出家にない独自さに裏打ちされているということです。
(略)
 稽古場で俳優が何をどう考えているかなどということはまったく関係ないし、舞台に現れるのは最初から最後まで一貫してシェイクスピアの世界というわけではなく、鈴木の読んだそれなのであって、鈴木にまるで興味のない人間は見ていてもちんぷんかんぷんな印象を受けざるを得ない。
川村毅「やさしい現代演劇 第二章 にっぽんの旅」『舞台芸術07』229ページ)

以上を読んで類推することは、鈴木の演劇理論の持つ、専制君主制を維持する部分が、女性に対し働きかけている部分が、「女優論」においては、女性差別的に発露していただろうことだ。もちろん、性差別の部分は重要ではあるのだが、より大きな枠組みで捉えなおす必要があるように思う。

 三章では、「ダムタイプ」「イトー・ターリ」「劇団態変」というマイノリティ運動と密着した舞台芸術を取り上げている。この本で、抜群に面白かったのは、この三章である。特に「ダムタイプ」を論じている箇所は、他のどの部分とも異なっている。
 正直に言うと、池内さんの文章は読みづらい。池内さんは、常に女性差別にたいして怒りながら文章を書いているのだろう。それが、この本を通して伝わってくる。それ自体は悪いことではなく、うまくいけば、むしろウーマンリブの宣言した、「怒って、何が悪いのだ?」という怒り芸となる。私も、この芸風は好きだし、自分でもよくやる。しかし、この本に関しては、池内さんが先に怒るので、読み手は怒るタイミングを逃してしまう。書いている内容よりも、池内さんの怒りのほうが勢いよく流れ込んででくるので、イマイチ、本の世界に入り込みにくくなる。
 だが、「ダムタイプ」を論じる池内さんは、少し様子が違う。この部分には「撹乱するセクシュアリティ」という小見出しが付けられている。そして、まさに池内さん自身が撹乱されながら、この部分を書いているのが伝わってくる。「ダムタイプ」の「S/N」は、エイズ渦の中、「生きているHIV陽性者」が語りだす作品である。セックスワーカーのBUBUによる、まんこから万国旗が出てくるパフォーマンス。HIV陽性者でゲイの古橋のドラァグ・クィーンとしてのパフォーマンス。そして「私は死んでいくのだが、今は生きている」という、死から生を照らし返す作品の構成。それらに、池内さんが、演劇表現の、そして、「<私>が生きていく」という強さの可能性を見出そうとしているようにみえる。
 一転して、イトー・ターリの分析は、やや凡庸である。やはり「女として」という、フェミニズムの分析枠組みに戻ってしまい、新鮮味は薄い。
 そして、「劇団態変」の金満理を論じたとき、池内さん自身が、「女優」という枠組みを超えた演劇論を構築しようとしているように見える。それは、金さんが男装してパフォーマンスすることに何かを見出す、というような具体的な点ではない。金さんを論じようとするとき、「男/女」という枠組みだけでなく、「障害者/健常者」の枠組みが明確になってくる。このとき、この本を覆っている池内さんの「女性差別への怒り」を突き抜けて、別の批評のあり方の可能性がみえるように感じた。
 それは、同時に、ここ10年、日本の現代演劇を覆う「もう演劇で表現することは何もない」という暗さを突き抜ける光のようにも感じられる。90年代末から、現代演劇は「絶望」と「不可能性」を語ってきた。そろそろ、その言説の先に進んでもよいように思う。近代演劇における、これまでの女性差別の歴史は、絶望にたるものである。しかし、その先を、見通そうとする批評も、きっと可能だ。最後の最後で、そういう希望の光をみた演劇論であった。