みんなの「初音ミク」

 「ちくま」3月号に伊藤剛ハジメテノオト、原初のキャラ・キャラの原初」が掲載されている。伊藤さんは、「初音ミク」という「キャラ」を取り上げている。
 「初音ミク」とは、女の子のイラストと、肉声をサンプリングした素材集から構成された、CGキャラクターである。*1初音ミク」を愛好する人たちは、素材を組み合わせて、映像を作って、「ニコニコ動画」にアップロードする。そして、不特定多数の人が、アップロードされた「初音ミク」の映像にコメントを書き込み、そのアイコンを楽しんでいる。その中で、愛好者は「初音ミク」に「人格・のようなもの」を感じるという。この「人格・のようなもの」を、伊藤さんはキャラと呼ぶ。

 「キャラ」という言葉が出てきたのは、おそらく1990年代末からではないかと思う。「ぼけキャラ」など、若者の間で良く使われる言葉となる。「キャラ立ち」「キャラがかぶる」というような、使い方もする。
 私は、この「キャラ」という言葉を、伊藤さんとは違う定義で使うことがある。私は「キャラ(クター)」と「パーソナリティ」を分ける。
 「キャラクター」とは、他者関係の中での、「<私>の振舞いのパターン」の集積である。たとえば、「男性に対し、尊大に接する女性の振る舞いのパターン」の集積が「女王キャラ」、「男性に対し、受容的に接する女性の振る舞いのパターン」の集積が「お嫁キャラ」*2という風に、「キャラクター像」を結ぶ。あくまでも、観察可能な振る舞いのパターンであり、<私>にとって「外的自己」と認識される。
 一方で「パーソナリティ」とは、<私>にとって「内的自己」として認識される。これは、他者に対する振る舞いを決定している<私>であり、しばしば<本当の私>とも称される。
 現代の若者の問題として、この「キャラクター」としての「外的自己」と、「パーソナリティ」としての「内的自己」の断絶があげられることがある。しかし、この二項対立は、19世紀のアメリカの小説にも見られる。たとえば、マイケル・T・ギルモアが、ホーソーンの小説における登場人物の「内的自己」と「外的自己」の分裂に対する苦悩を分析している。近代自我の発達とともに、この<私>の二側面の分断は始まった。

 さて、私たちは他者について、常に「外的自己」しか目にすることができない。他者の「キャラクター」を観察し、パターンを集積する。そこから、見えない他者の「パーソナリティ」を想像する。
 「初音ミク」に話を戻そう。「初音ミク」は、CGキャラクターであるので、「内的自己」は存在しない。そこで、愛好者は「キャラクター」から、その「パーソナリティ」を自由に想像できる。さらに、その振る舞いのパターンも、愛好者自身によって操作することができる。そこで、自分が欲望する「パーソナリティ」を想像しやすいような、振舞いのパターンをプログラミングする。その行為を、愛好者たち自身が「調教」と呼んでいる。
 このように自分で自分の欲望を喚起させるようなプログラミングは、人工知能の開発では、もうずっと前から可能になってきたことである。しかし、このプログラミングは、あまりにも不確実性がなく――つまり「初音ミクがこんなことをするなんて!」という刺激的な驚きがなく、すぐ飽きてしまう欠点があった。ところが、「初音ミク」の場合は、このプログラミングは、自己のみで行うわけではない。インターネット上の「ニコニコ動画」を通じた、ネットワークに放り込まれる。そこで、似た欲望をもった者同士が、プログラミングを交換することで、「小さな不確実性」を持たせることができるようになった。ネットワーク内では、規範があり、「初音ミクらしくない」とされるような、「大きな不確実性」は、批判され淘汰される。自分の欲望を喚起させる範囲の「小さな不確実性」だけが歓迎されるのだ。
 このような「調教」の欲望は、古くから男性が女性に向けてきた視線に似ている。ただ、違う点は、女性は主体であるので、「内的自己」を発露させ、「あなたの捉えている私のキャラは間違っている」と主張することだ。しかし、「初音ミク」は、主体になりえない。振る舞いのパターンは自律的にシステム化されているが、そこから想像される「パーソナリティ」は虚構である。その虚構を、伊藤さんは「人格・のようなもの」と呼んでいるのだろう。
 その虚構は、ネットワークによって生み出され、ネットワークによって維持される。そして、愛好者は、ネットワークにアクセスしたときだけ、「初音ミク」の虚構である「パーソナリティ」に触れ、それを他の愛好者と共有する。「初音ミク」は「みんなのもの」として共有される虚構である。
 伊藤さんは、この虚構に対し、その虚構性に感情を揺さぶられるという。伊藤さんは、次のように述べる。

 私たちは「ミク」が実在しないことをよく知っている。それがデータの塊でしかないことも分かっている。にもかかわらず、ただ「いる」という存在感だけは受けとってしまう。逆にいえば、そこには「誰もいない」、いや「何もない」ことを知悉している。だからこそ、この圧倒的な空虚、絶望的な孤独の前に、あるいは、ただ世界に「存在すること」だけがむき出しのまま放り出されているという事実の前に立ちすくみ、涙するのである。
(41ページ)

なんだか大げさな感じもするが、この「ミク」を「祖国」と置き換えると、伊藤さんの気持ちが汲めなくもない。人は実在を恐れ、非在を愛する、ということかもしれない。少なくとも、私にはその傾向がある。「初音ミク」のすばらしさは、さっぱりわからないけれど。

*1:発売元はこれを「VOCALOID」として売り出している。「VOCALOID」は次のように定義される。「「録音された人間の声を元に、極めてリアルに音声合成された歌声」…、フォルテシモやクレッシェンド、ビブラートまでも的確に表現し、歌詞に合わせて歌い方や声質も変化させながら歌う世界最先端のボーカル音源が、このVOCALOID 2(ボーカロイド)です。/まるで実際に歌手をプロデュースしているような感覚で歌を歌わせるこのVOCALOID 2は、全く新しい可能性を持ったバーチャル・ボーカリストと呼べるでしょう。/VOCALOID のリアリティの秘密は、長年にわたってYAMAHA株式会社にて研究開発されてきた“Frequency-domain Singing Articulation Splicing and Shaping”(周波数ドメイン歌唱アーティキュレーション接続法)の最先端技術が採用されています。/これにより、VOCALOIDの歌声(母音/子音)は滑らかにつながり、実際の人間と変わらないような流暢な日本語を発音します。」http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/

*2:これらのキャラは適当です。