パゾリーニ「豚小屋」(舞台芸術センター主催)

 今日、パゾリーニ「豚小屋」の14時の回の公演を観てきた。

京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター主催
P.P.Pasolini’s PORCILE『豚小屋』
2011年6月4日(土)14時開演*/18時開演
*14時開演の部、終演後にトークを予定しております。
会場:京都芸術劇場 春秋座 舞台上(京都造形芸術大学内)
作:ピエル・パオロ・.パゾリーニ / 翻訳:キアラ・ボッタ 大崎さやの
構成・演出:川村毅
衣裳・美粧:宇野亜喜良
出演:手塚とおる伊藤キム
河合杏南、笠木誠、福士惠二、大沼百合子、伊澤勉、柊アリス、中村崇
一般発売は2011年4月6日(水)からです!!
(詳細は劇場ホームページでも近日アップいたします!要チェック!)
(http://www.kyoto-art.ac.jp/blog-theater/category/2-performance/0604pigsty/)

演出は川村毅、主演が手塚とおる伊藤キムということで、パゾリーニに知識はなかったけれど、チケットをとった。
 パゾリーニはイタリア生まれの映画監督で、1970年代に人気を博したが、代表作の「ソドムの市」を撮り終えた直後の1975年、謎の死を遂げた。事件直後にパゾリーニを殺害したとして逮捕された青年が、後から自白を撤回し、別の犯行グループがいたとも言われるが、彼の最期についてはまだ真相が明らかではない。彼はゲイであり、反体制であり、共産主義革命に対する批判者であり、右翼からも左翼からも憎まれた。エログロに注目が集まりやすいが、政治的なメッセージを発信していた作家である。
 川村はこのパゾリーニの戯曲版「豚小屋」を上演した。あらすじは単純である*1。舞台は1960年代のドイツ、ナチの残党であり戦争で大もうけをした実業家の息子ユリアン手塚とおる)が主人公である。ユリアンは25歳になるが大学もやめて実家に帰ったきり、働くこともない。現代で言う「ひきこもり」状態にある。恋人のイーダ(河合杏南)は17歳で、若者たちの左翼運動に夢中である。ユリアンは資本家である父親を尊敬もしないが、「僕は順応主義者だ」として左翼運動にも熱心ではない。
 こうした態度を<大人>(ユリアンの父親ら)は「従順でもなければ、反抗的でもない」と評する。父親は「従順であれば、私の会社を引き継いで共に発展しただろうし、反抗的であれば、私が握りつぶしただろう。しかし、何もしない息子には何もできない」と困惑する。また、母親は「父性を持つ母親」であり、父親は「母性を持つ父親」だという。父親は「厳しいだけの父、優しいだけの母であればうまく育ったのだろうか」と自問しながらも、「ヒットラーも女っぽかった」と言い、現代の家族の在り方はこれでよいのだという。しかし、会社の後継者の問題は大きく、途中からはユリアンが硬直症で動けなくなり、さらに頭を悩ませている。
 ユリアンは政治や、家族の問題に直面しながら、どこか遊離して夢想的である。実はユリアンには秘密があった。それは、16歳の時から豚小屋で豚を相手にマスターベーションしていることだ。彼は、自分をあらゆる所属から切り離し、自然の中で豚を相手に射精したときだけ世界が美しくみえる。やがて、イーダは左翼青年と結婚し、ユリアンの父親はかつての旧友でありライバルである男性社長と会社を合併させる。そうして彼を取り巻く世界が、彼を置いてきぼりに回り始めたころ、ユリアンは豚小屋で豚に食べられているところを農民に発見される。
 以上のあらすじに加え、川村は映画版の「豚小屋」にはあり、戯曲版ではカットされている「野人(伊藤キム)」のシーンを付け加えている。終演後のアフタートークで川村は、野人を「ホームレスの若者のような人間」にPPP(パゾリーニ)が乗り移ったという設定にしたと語っていた。野人はアーミー柄の衣装で、上のユリアンたちのストーリーに挿入されるかたちで、人を殺したり、人肉を食うシーンを演じる。そして終幕近くに、パゾリーニとして、ユリアンと問答を行う。
 川村自身もトークで述べていたことだが、3.11の影響はわかりやすく劇中に出ている。冒頭の野人が登場するシーンでは、ACのCM*2やマスメディアの報道が、背景に多画面で映し出される中、伊藤キムは片手を軽く差しだし歩き出す寸前のような姿勢で固まったまま黙って動かない。情報が溢れる中、関係なく静止した伊藤の元に別の若者が現れる。「自衛隊に入らないか?腹減ってんだろ?」と彼が話しかける。「お前みたいなやつができる仕事はほかにないんだ」と言うと、伊藤は突然若者を刺してしまう。まるで、震災とは関係ない貧困の中にいる若者が、震災の情報の中で、震災に関係なく逸脱している様子を観ているようで、印象に残った。つまり明白に震災の状況下にいるのに、彼は震災に関わってないかのようだったのだ。
 私は、川村のアフタートークを聞くまで、野人にパゾリーニが乗り移ったという設定は知らなかった。だから、演出家の意図とはまったく別様に野人の行動を観ていた。ユリアンは、家族や政治の中では逸脱者である。「豚を愛する」という深刻な悩みを抱えており、これはセクシュアルマイノリティの比喩でもあるだろう。しかし、あくまでも規範の内部で逸脱している。しかし、野人は規範の外部にある。だから野人は悩まずに人肉を食い、その快楽をむさぼるのである。
 「豚小屋」にはキリストの比喩が何度も出てくる。ユリアンは硬直症になったとき、貼り付けのキリストのポーズをとる。そしてユリアンは、自分の肉を豚に食わせて死ぬ。しかし、ラストシーンで十字架につるされていたのは野人である。人間の住む世界について苦悩したユリアンではなく、その外側に置かれた野人が生贄になったのである*3
 私はこの公演を「贈与」の線で読んでいた。前半では戯曲にはなく、川村が「テオレマ」から引用した会話が、東京のガード下のような風景をバックに流される。それは労働者に対するインタビューで、最初は労働の過酷さを聞いているかのように思うが、聞いているとだんだんと資本家が会社をそのまま労働者たちに贈与してしまったことがわかる。そして聞き手は労働者に「これは支配権を闘争によって奪い返すチャンスをつぶされたのではないか?」と聞く。(労働者の答えは終始流されない)共産主義では、資本家の資本蓄積こそが労働者の貧困につながっていくことが指摘され、資本家を妥当することで貧困はなくなるとされる。しかし、資本家が自らの基盤(資本家であること)を労働者に贈与したとき、労働者は資本主義に抵抗できず飲み込まれてしまう。
 公演ではわかりやすい二項対立は描かれない。父性と母性は互いが受け容れることにより、消えることもないが、はっきりと形をなすこともない。旧友であり、ライバルであるユリアンの父親と同業者は、「伝統と革新」「人文主義と科学主義」との対立軸は持つが、お互いの秘密をトレードすることで合併し、いさかいがあるまま融和する。字面だけなら、共生というようなことが言えなくもないが、そうしたはっきりとしない曖昧な確実にある断絶の中で、苦悩せざるをえないのがユリアンである。「従順でもなければ、反抗的でもない」という彼の夢想は、「資本主義VS共産主義」をはじめとした二項対立ではない、別の世界への扉を開くことであり、それが豚との性愛であり、豚に肉を贈与することである。だが、この劇中では、ユリアンが「キリストとなり、新しい世界の展望を示しつつ、自らを供物にして人びとを救うこと」はできなかった。周囲の<大人>たちは、豚に食べられたユリアンについて、もう何もその証拠(いうなれば豚にわが身を贈与する<奇跡>の証拠)がないのならば隠蔽する。ずらりと並んだ<大人>が人差し指を立てて唇にあて、「しー」と客席に向かって言う。そのあと、彼らが絶叫し幕が降りる。後ろの十字架に吊るされるのは先に述べたように野人である。私は野人が何を贈与したのかはわからなかったが、供物になるのは規範外のものであるのだなあと観ていた*4
 川村が、ラストシーンの貼り付けをどう解釈をしたのかは、今日のアフタートークでもネタバレ自粛ということで聞けなかった。私も一回観ただけだし、うまく全体像が何だったのかはわからないままなのだけれど、川村自身が今日、「演劇はどんな解釈をしてもいいんです、演出家が言うのが正解ではない」と言っていたので私は私の感想として、上のように観ていたし感じていたとメモしておく。しかし、「なんでユリアンじゃなくて、野人だったの?教えて川村さん!」という気分。私が後半うまくついていけなかっただけかもしれませんが。
 それから、川村はパゾリーニがひきこもり青年ユリアンに対する視線がとても温かいということを繰り返していた。それは本当にそうで、夢想にばかり浸るユリアンが、豚に食われるというラストは、ユリアンの自己救済ではあったように見えた。自分の性欲に振り回されるユリアンが、その対象に身をささげることで救われ、しかもそれを貧困層である農民たちが哀悼の意を表して喪服を着て駆け付けるというシーンは、暗いものではなかった。それが革命を起こすような政治運動ではないにしろ、全然別の回路で自分の人生を悩みきった青年の姿というふうに描いているようには感じた。*5もちろん、それは不満を持ちながらも政治になかなかコミットしない現代の日本の若者たちにも投げかけられる視線だろう。
 以上、整理しきれてないけれど、メモ代わりに。パゾリーニの戯曲は6本あって、どれも翻訳されていないので大変とのことだけれど、しばらく連続上演の予定だそうです。次回も楽しみにしています(関西公演もあるといいな)
 あと、関係ないけど中村崇*6さんが、とってもとっても素敵でした。

*1:とは言うものの、自分がメモも取らずに観てたのを思い出して書いているだけなので、相当記憶違いがあるとは思います。

*2:もちろん、例の「ぽぽぽぽ〜ん」

*3:どっちでもいい話だが、最後に幕が降りた時、吊るされたシャケの図像が投射されていた。一緒に観ていた同居人に「なんで最後に新巻鮭?」と聞かれたが、あれは「キリスト」の隠喩である。私が大嫌いだった学部時代の図像学の授業の一番最初に習う。「魚」はキリストを意味している。しかも半身になった鮭は受難を表す。

*4:ここは半分は嘘です。劇中は、手塚とおるより、伊藤キムのほうが裸体は素敵なのでよかった、と思いました。男の裸体にはさっぱり興味がないけれど、伊藤キムだけは別枠で好きなので。

*5:でも、そんなパゾリーニの暖かさを強調するなんて、川村も(失礼を承知で言うけど)歳なんだなあーと思う。10年前、私が行き場のない若者だったころ、川村は「ニッポン・ウォーズ」という超ハードな作品を上演していた。テロの証言の演劇だったんだけど、9.11以降に作られたこともあって、「加害者の不在」「裁くことのできない犯罪」の問題が挙げられ、個人が匿名化されシステムとして駆動する戦争が作品で描かれていた。もう希望も出口もなくて、「救いは……どこにもありません」みたいな気持ちで観終わったのを今でも覚えている。それから10年……なんかもう、目線は<大人>ていうか養育者の側なんですね

*6:http://ameblo.jp/magatta/