「不幸萌え」のためのケータイ小説
濱野智史が『恋空』について分析している。
『恋空』を読む(1):ケータイ小説の「限定されたリアル」
『恋空』を読む(2):ケータイに駆動される物語、ケータイに剥奪される内面
『恋空』を読む(3):果たしてそれは「脊髄反射」的なのか――「操作ログ的リアリズム」の読解
『恋空』を読む(番外編):宮台真司を読む ― 繋がりの《恒常性》と《偶発性》について
濱野さんは、『恋空』の中で、ケータイ電話が、リアリティを感じさせるために、非常に重要な役割を果たしたという。着信履歴、受信したメール、登録アドレスなどの情報は、小説の進行と共に堆積されていく。宮台真司は、『恋空』には時間による関係の堆積されず、その場その場の脊髄反射的な関係性しか描かれないと指摘した。濱野さんは、確かに<内面的な>記述による関係の堆積は描かれないが、情報の堆積という量化された<外面的な>記述による関係の堆積が描かれていることを指摘する。それは、内面の記述によってリアリティを付与した近代小説と、ケータイ小説との差異だと分析する。
濱野さんの文章の大筋は、上のようにメディア論になっているのだが、私は別のことを読みながら考えていた。それは、なぜ、『恋空』を始めとするケータイ小説では、内面の記述ではなく、「不幸な出来事」の羅列が好まれるのか、ということである。ケータイ小説とは、不幸のデータベースであり、「不幸萌え」のための素材だと私はみなしている。
宮台さんは、ケータイ小説の編集者側の、次のような証言を書いている。
携帯小説の編集者によれば、情景描写や関係性描写を省かないと、若い読者が「自分が拒絶された」と感じるらしいんです。情緒的な機微が描かれていない作品、単なるプロットやあらすじの如き作品が望まれる。「文脈に依存するもの」を語らず、「脊髄反射的なもの」だけを描く作品です。
宮台真司「昨年の映画を総括しました〔一部すでにアップした文章と重なりますが…)」
これは、ケータイ小説が不幸のデータベースであることを、如実に表すような言であるだろう。ケータイ小説では、物語の中にある、登場人物固有の不幸ではなく、誰でもアクセス可能で、好きな時に出し入れできる不幸が必要とされている。
近代(私)小説は自己告白の形式により、「私の不幸」を物語った。その「私の不幸」が、人間にとっての普遍的な不幸であるとみなされたとき、それは「私たちの不幸」として共有され、近代読者を作りだした。他者の不幸を通して、普遍的な「<私>の不幸」は生まれるのである。そして、このとき、近代(私)小説の「私の不幸」は、登場人物に固有の不幸でありながら、普遍的な「<私>の不幸」である両義性を保とうとする。近代(私)小説は、その不幸を、私のものではないと確定しながら、それは私のものであるという予感を抱かせる。
ところが、ケータイ小説で描かれる、固有性を剥奪された不幸は、その普遍化のプロセスを踏まない。簡単に自己同一視の素材にできる。データベースから取り出し、まるでそれが「私の不幸」であるかのように、味わい堪能し、必要がなくなればもう一度データベースにしまっておく。しかし、ケータイ小説の読者は、現実と小説を取り違えたりはしない。それはあくまでも登場人物の不幸である。作品を読む中で、どんなに「レイプされた私」「中絶した私」「がん闘病を支える私」と自己同一化をはかったとしても、それはファンタジーの中でのことにすぎない。読み終えれば、それらは「全部お話の中のこと」であり、この私は「レイプされた私、でない私」「中絶した私、でない私」「がん闘病を支える私、でない私」である。ケータイ小説は、その不幸を完全に虚構の中に追いやり、この私を「〜でない<私>」として構築する。不幸に実際に苦しむ具体的な他者の存在は、登場人物としてさえ忘却される。
ケータイ小説で必要とされるのは、「〜でない<私>」を構築するための他者のイメージである。「〜でない<私>」の構築は、異性愛者が、自己の異性愛を聖域化するために、同性愛者を利用し、「同性愛者でない<私>」を確立するように、被差別者を自己構築のために搾取・抑圧することで行われるのだ。そこに表象される他者は、自己を強者とする、圧倒的な権力関係を前提とした上で、利用できる他者のイメージにすぎない。それは、「私の存在に関わらず存在する他者」すなわち「他者としか言えない他者」という他者性を、剥奪されている。自己によりコントロールが可能な、他者の残骸でしかない。その意味で、ケータイ小説は、他者を排除した小説である。ケータイ小説は、「これは私であること」と「これは私でないこと」の反復作用を生むが、「私でないものが、私である」ような近代(私)小説的感慨(カタルシス)はもたらさない。あくまでも、「私と<私>」の緊密関係を保持し、他者に回路が開かれることはない。
私はこう論じることにより、「他者への興味を失った若者」というような話がしたいわけではない。私は、「なぜ、ケータイ小説が若者に人気なのか」という問いを反転させた、「なぜ、ケータイ小説は若者にしか人気がないのか」という問いへの答えを出そうとしている。
私は、現在20代後半にさしかかっている。私の周囲の友人の中には、いわゆる「女子」として暮らし、おそらく『恋空』の読者層となるような「現代的な若者」がたくさんいる。ところが、彼女らは、誰も『恋空』に興味を持たない。それは、コーホートの差ではなく、世代の差でしかない、と私は考えている。私の友人たちは、実際に「レイプされる」「中絶する」「がん闘病を支える」といった、周囲から見て不幸な出来事に見舞われている。たぶん、30代に突入する前に、みんなこの手の「いわゆる不幸」は、一度は経験するだろう。
私の10代から20代はじめにかけて、「あいのり」という番組が流行した。(今もやっているようだが)毎週、「自分の恋愛かのように」楽しみ、放送された次の日の教室で、「あいのり」について、いかに自分が感動したのかという話をしていた。もう私も、友人たちも「あいのり」をみない。観たとしても、あれが「自分の恋愛かのように」楽しむことは、難しい。つまらない言い方をすれば、大人になってしまい、年をとってしまった。
もちろん、メディアが変われば、小説の形態は変わる。だから、濱野さんの分析は非常に興味深いものだった。社会の動きと文学作品の動きの連動について考えるためには。しかし、若者と文学の連動について考えるとき、ごくごく平凡な結論しか出ないように思う。ケータイ小説が、大人からみてのけぞるようなヘンテコな見かけをしているのは、それが青春小説だからだ。「飛び出せ!青春」を私は観る気にはなれないが、たぶん当時の若者は真剣に楽しんで、号泣したのだろう。
「だからケータイ小説なんて、放っておけばいいじゃないか」と言いたいわけではない。大人がすべきなのは、そのようなイメージとして垂れ流されるしかないような、レイプ、中絶、看護の問題を、具体的な他者の問題として言及することである。「最近の若者は現実がわかってない」のではない。大人だって、わかっていない、もしくは、みないふりをしている。苦慮すべきは、これらの不幸を、社会が「私の内面的な問題」に追いやってきたことにより、具体的に解決してこなかったことである。若者が、自分のことで精いっぱいで他者に開かれないのは、仕方ながないことだ。問題は、大人になりきれず、いつまでも自分のことで精いっぱいである、私たちのほうにこそある。