大野左紀子「アーティスト症候群」

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

 この本で、大野さんは、「アーティストと呼ばれたがる若者」を批判的に論じている。前半では、「みんなとは違う特別な私」でありたいがために、アーティストという肩書を欲しがる若者の様を、やや冷笑的に書く。なぜ若者が、「芸術家」ではなく「アーティスト」を名乗りたがるのか、などについても論じているが、社会分析としてはいま一つ説得力を持たなかった。俗流若者論に近くなってしまっている。
 しかし、大野さんの舌鋒が活きてくるのは、芸能人アーティストを揶揄する中盤部分である。取り上げられたのは、ジュディ・オング八代亜紀工藤静香片岡鶴太郎ジミー大西藤井フミヤ石井竜也という面々である。また「誰でもピカソ」「開運!なんでも鑑定団」などのテレビ番組もアレコレ書かれている。大笑いしてしまった。「美術界のナンシー関」の称号を贈りたい。
 一方で、終盤の大野さん自身が人生を振り返る、「アーティストとして生きた経験」はどう読まれるのだろうか。大野さんは、アートを作ることとは、雨垂れが石を穿つようなことだったという。「いつかこの雨粒は地下のごうごうと流れる芸術の水路に合流するのだ」と信じることで、モチベーションがようやく保たれる。この一滴は無駄かもしれないが、「それでもやるんだよ」とつぶやきながら作り続けるという。そして、「地下の水路など、本当にあるのだろうか」「合流する日などないのではないか」と疑ったとき、アートを作るのをやめた。*1
 たぶん、こういうのは、表現系に進みたい人に共通する心理状態なのだと思う。簡単にいえば、「壮大な勘違い」だけを前に進むエネルギーとするような、状況であるである。「自分は偉業を成し遂げようとしている」という思い込みだけが、投げそうな自分を支えてくれる。私が10代で衝撃を受けたのは、蜷川幸雄の話である。

千のナイフ、千の目

千のナイフ、千の目

蜷川さんは、若い時に「蜷川天才」と表札に書いていたらしい。「オレなんか才能ないし、唐さんところで演出助手として雇ってもらおうかな」などと考えていたという。そういう自分を追い込み、追い詰め、「オレは天才なんだ!」と自己主張しまくって、いまの蜷川幸雄になったのである。もう、いろんな意味でギリギリである。「せ、成功してよかったですね……」としか言いようがない。
 私は、そこまで激しくはないが、相当思い込みが強いほうである。というか、そうでもないと、「赦しは可能か」みたいなどうしようもないことを、モゾモゾ書いていたりしないだろう。まあ、私もアーティスト症候群の患者の一人である。だとすれば、アーティスト症候群で、本当によかった!表現することで自己顕示欲が解放できなければ、私はもっと厄介なことになっただろう。*2この手の欲望はただごとではなく、あっという間に衝動に転化する。一番恐ろしいのは、表現することもできず、中にもやもやとため込み、謙虚に生きている人間の暴発だ。成功すれば「表現者」、失敗すれば「露出狂」。前者でありますように、と思いながら、日々精進の生活である。

*1:その後、大野さんは「性の問題が押し寄せてきて大変なことになった」というようなことを書いているが、そこは一文で終わってしまった。どうなったの??心配じゃん。

*2:そうえいば、「デトロイト・メタル・シティ」でも、「オレに歌がなければ殺人鬼になっていただろう」みたいな煽りがCDに入っていて、主人公がどん引きするというシーンがあったな。あれはうまい皮肉だと思う。どう考えても、主人公はルサンチマンを、メタルのコスプレをして「クラウザーさん」という人物を演じることで、発散している。「多重人格を生きる若者」そのまんまだ。