「存在しない」サバイバー?

 大野更紗がSYNODOS JOURNALで新しい連載を始めた。題名は「『存在しない』サバイバーたち」である。

「『存在しない』サバイバーたち ― セックス・労働・暴力のボーダーで(1)」
http://synodos.livedoor.biz/archives/1814449.html

大野さんは、先日、自身の難病にかかってからの経験をつづったエッセイ「困ってる人」を出版して話題になっている若手の執筆者である。

困ってるひと

困ってるひと

私はこのエッセイを、webで連載しているときから愛読していたし、単行本も購入した。「困ってる人」は、難病にかかった当事者の視点と、難病患者を取り巻く社会状況を同時に視野にいれながら、「本人の生きづらさ」と支援制度のズレを浮き彫りにしている。読みやすくてとてもよい本だと思っている。その大野さんが、性暴力と性産業の問題を取り上げているので楽しみにして読んだ。
 しかし、ものすごく違和感がある。「困ってる人」は当事者の手記だったのだが、今回は大野さんは当事者ではない。それはそれでよいのだが、これまで大野さんは本当に性暴力や性産業の世界と縁遠かったのではないかと感じながら読むエッセイだった。書き出しはこうである。

8月、日傘越しでも皮膚に刺さるような紫外線がふりそそぐ猛暑の某日。インターフォンのボタンを押す緊張感に、思わず手が震えた。インビジブルな不可侵の地、「婦人保護施設」を前にして、躊躇を感じぬ人などいないだろう。

おそらく、大野さんにとって婦人保護施設を訪問することは「冒険」なのだろう。未知の世界。しかし、当たり前だが、ここで暮らす人たちにとっては生活の場である。もちろん当人の感じることを素直に書くことをとがめる道理はないのだが、「躊躇を感じぬ人などいない」と読者に共感を迫るのはやめてほしいと思う。まるで、躊躇を感じることが当たり前で、そうでないことが例外であるようだ。しかし、実際には大野さんも書くように婦人保護施設の所在が明らかにされていないのは、「保護」の目的があってのことである。そもそも躊躇する人の訪問のほうが例外である施設なのだ。
 「困ってる人」を読んでいるので、それが大野さんのユーモアであることは推察できる。「インビジブルな不可侵の地」と書くのも悪ふざけではないだろう。だけれど、当事者としてのユーモアと、観察者としてのユーモアは、機能の仕方が違う。私はこの書きだしだけで、大野さんが「無邪気にはしゃぐ見学者」に見えて、いい気持ちがしなかった。
 大野さんのこのエッセイは連載である。今回は昭和三十年代に婦人保護施設の入所者の記録を見ながら、大野さんが当時の様子を想像する。多くは性暴力被害や中絶の経験を持ち、精神疾患や知的障害を抱える貧困層の女性たちである。セックスワークを営んでいるところを売春防止法により逮捕され入所に至っている。そして現在の入所者のデータも大野さんは示し、やはり軽度の知的障害と精神疾患を併発している女性が多く、性産業の経験があることを明らかにする。7割の入所者は「暴力」の被害経験があるが、パートナーからの暴力と同程度の性暴力を被っており、多くは貧困層に属する。この様子を大野さんは次のように描写する。

貧困とボーダーラインの障害。幼少期からの家族内で暴力にさらされ、さらに性暴力や性産業が介在し、数多の暴力のはざまの「サバイバー」となってゆく女性たち。

私はこの表現でもつまずいてしまう。ここで使われる「サバイバー」とはどういう意味だろうか?
 「サバイバーって何ですか?」と聞かれることがある。一番ベーシックな答えは次のものだろう。

 あなたは性暴力によって犠牲者にされただけではなく、危機的な状況を生き延びてきた、力を持った尊敬に値する存在なのです。そのような多くの困難を乗り越えてきた女性を、私たちは尊敬を込めてサバイバーと呼んでいます。
「サバイバーズハンドブック」2ページ

サバイバーズ・ハンドブック―性暴力被害回復への手がかり

サバイバーズ・ハンドブック―性暴力被害回復への手がかり

 性虐待をはじめ性に関する暴力を受けた人たちを「被害者」と呼ぶことがあります。確かに彼らは、自分たちのせいではないのに、性暴力という許しがたい被害を受けました。しかし「被害者」という言葉では彼らは言い表せないのです。彼らは、被害を受けただけではなく、そこから生き抜いてきた人たちなのです。あの痛みを生きのびた人たちは、言い尽くせないほどの生きる知恵と勇気を備えているのです。その勇姿をたたえるために、いつしか彼らを「サバイバー」と呼ぶようになりました。
「性暴力を生き抜いた少年と男性の癒しのガイド」15ページ

どちらの記述を読んでもわかるように、「サバイバー」とはその人が生き延びたことを祝福する栄誉の称号である。もう少し、政治的な意味合いで「サバイバー」という言葉を使う人たちもいる。以下は支援者(第三者)と当事者との間の力関係を指摘する文脈を前提にして、サバイバー自身によって述べられている。

私が「サバイバー」という言葉を使って主張したかったのは、「私の問題に私を関わらせろ」という単純なことだったのだ。どんなことをするにも何らかの資格が必要だと思うから、当事者が自分の問題に関わるのに「サバイバー」という資格が必要だという発想になり、話がどんどんおかしくなるのだ。私が私であることに資格は要らない。それをするのに資格が必要なことはたくさんあるが、自分の問題に自分が関与するのには何の資格も必要ないはずだ。私がサバイバーを名乗っているのは、私がそう認識するから今のところそう名乗っているだけの話で、それは、私が私の問題に関わるための資格とは何の関係もない。
(略)
自分がサバイバーであるかどうか、サバイバーいう言葉を使うかどうか、それを誰に対してどこでどのような状況で明らかにするかしないか、それぞれが決めればいい。自分の被害を他人のと比べて、誰がより正当なサバイバーなのか競い、それによって誰が性暴力問題についてより大きい発言を得るかという発想、あるいは、みんながサバイバーなのだから、すべて一律でなければならないという発想が、事を必要以上にヤヤコシクしているのだ。私のことについては私に特権がある。あなたのことについてはあなたに特権がある。それでいいではないか。
高橋りりす「サバイバー・フェミニズム」203〜204ページ

サバイバー・フェミニズム

サバイバー・フェミニズム

 ある人が自分の受けた仕打ちは「しつけ」や「愛」や「たいしたことないこと」ではなく「暴力」だったと発見する。そしてサバイバーという言葉にであい、暴力を受けて無力だと思わされていた自分は暴力をさまざまな努力をして生きのびた創造的で力強い存在であると気づき、回復への道を進み始める。「サバイバー」とは暴力を受けた「私」にとって重要なアイデンティティである。それに対し「被害者」とは被害の経験のない「第三者」たちが暴力を受けた「私」に押し付けた立場である。暴力の責任まで押し付けられるということは「第三者」は「第三者」であれば自動的に暴力の責任を免除されるということを示している。ならば、被害者に「第三者が押し付けた暴力の責任を「第三者」にそっくりそのまま返すために「被害者」を引き受け、「被害者」という立場で思考しよう。「被害者」とは暴力をふるわれた経験のある者がこれ以上苦しむ者をつくらないために思考するときのポジショナリティである。アイデンティティであるサバイバーとは、サバイバーと語りサバイバーとのつながりの中で生きていくときに必要な「私」の自称である。ポジショナリティである「被害者」とは、被害者や無意識の加害者である「第三者」に向かって語るときの「私」の覚悟である。
マツウラマムコ「『二次被害』は終わらない――『支援者』による被害者への暴力――」『女性学年報』第26号103ページ

上のように、「サバイバー」という言葉は、当事者が発言権を奪われたときに「それは私の問題である」と主張するときに使われることがある。また、サバイバー同士の連帯の旗印となるアイデンティティでもある。
 最近は、「サバイバー」という言葉も広く知られるようになり、単なる「被害者」の置き換え語として使われることもあるようだ。しかし、その語はもともと被害を受けた人々が、誇りを取り戻して再びよき人生を歩み始めるように苦闘しながら使ってきた言葉である。しかし、先に引用した大野さんの文章では、当事者の力強さをポジティブにとらえて、その生き方を肯定するために「サバイバー」という言葉を選んだようには見えない。
 そもそも「『存在しない』サバイバー」というタイトル自体、私はしっくりきていない。暴力を生き延び、性産業に従事する女性たちはずっといたし、今もいる。もちろん、大野さんもカッコつきで「存在しない」としているので、「不可視化された」「まるで存在しないように扱われる」という意味で使っているのだろう。だけれども、今まで述べてきたように、「サバイバー」という語は、自分の存在を否定されたように感じて生きてきた人が、そこから「私は生きていていい」ともう一度思いなおす契機のなるような言葉である。そこに違和感を持つ。
 「サバイバー」って、たとえ、社会が認めなくて、誰にも知られなくて、ひとりぼっちで生きて死んでくように感じる人に対して、「いやいや、あなたはサバイバーなんだ。これまで生き延びてきたのは、本当にすごいことなんだ」と言うための言葉なんじゃないだろうか。そして、今もいつもどんなサバイバーも、社会では存在しないかのように扱われているけど、そうした人たち同士をつなぐ言葉なんじゃないだろうか。そこにどうして「存在しない」なんて修飾をくっつけてしまったのか。これはよくないんじゃないか。
 もしかすると瑣末なことに聞こえるかもしれないけれど、言葉って大事だと思う。「サバイバー」という言葉に賭けられてきた当事者たちの想いを少しでも汲みたい、と思ってきた私は言わずにおれなかった。