関数としてのセクシュアリティ

 杉田俊介が今月の『現代思想』に書いている「性と障害をトランスするためのノート」を読んだ。

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

正直、よくわからない。杉田さんはしばしばこういうノートを公刊するが、毎回よくわからないし、数年がかりで本にする予定*1だということなのでそちらを待つことにする。
 フランス現代思想家みたいなとにかくアイデアが密度高く詰め込まれているが、革新的なような陳腐なような、海のものとも山のものとも言えないような、というのが私の感想で、そこまで杉田さんの思考に付き合って解読することもしなかったのだけれど、いくつかのキーとなるアイデアは私がここのところ考えていることとオーバーラップしたので楽しく読んだ。特に、セクシュアリティの可塑性、介護とセックスとの微妙な相似形、愛ゆえに暴力をふるう(というタイプの)性暴力などは、私もなんか言いたいけれど形にできていないので、刺激を受けた。
 それで、一つアイデアをメモしておく。私はここ1年〜2年でセクシュアリティに変化があった。と書くと、自分の中でも違和感があるので、実際の感覚としては自己内の「性的行動のガイドライン」を変更したというもののほうがしっくりくる。何がどう変わったのか、ということは、自分の中でもまだはっきりしないし、この経験をどう言語化すればよいのかもわからない。
 今考えていることというのは、「”私のセクシュアリティ”というものは存在するのか?」というものだ。言おうとしていることは、そんなに難しいことではなく、セクシュアリティというのは個人に埋め込まれたものではなく、関係性の中で現象するものではないか、ということだ。「私の定数(身体タイプ・好み)」を他人(もしくは他人の不在)という変数と掛け合わせたときに、明らかになるものがセクシュアリティなんじゃないか。こういうことは、現象学の人が言っていそうだけど、よく知らない。
 私がずっと考えていたことは、「私の身体タイプや好み」と実際に行うセックスとの間の乖離である。「性的欲望」と実際の性行動とのギャップとも言えるかもしれない。そこにある距離のようなものが、とても気になる。(私は距離があることを否定的には捉えていない)
 なんにせよ、セクシュアリティの可塑性は、他者との関係性の中で生まれていくのだろうなあとは思う。たぶん、キーは個人の内省的掘り下げや信念ではないだろう。
 私はずっと、男性学の人のいう「性暴力は(社会的な男尊女卑もしくはポルノによる学習で)男性が女性の人格を否定していることが問題だ」ということに賛同できずにきた。いや、そういう一面もあるかもしれないと思う。けれど、それ以上に、男性だけでなく、悪意のない性暴力(愛ゆえの性暴力)を暴発させる加害者は、上に書いた距離に耐えがたいのではないかと直観的に思っている。自分の中で思い描くセックスが、他者という変数によってかき乱されることに耐えがたいのではないか、と。
 それは、セクシュアリティの誤認というようなもので、実際には他人(もしくは他人の不在)という変数を通してしか現れないものとしてセクシュアリティを再セットすると、別の見え方ができるんじゃないかと思う。それが私がさっき述べた「性的行動のガイドライン」という奇妙な言い回しに関連している。私は「本当の<私>なんてないんだよ」という言葉で自分探しを否定するのがナンセンスだと思うのと同様に、内省的に性について考えることの意義を否定しない。ただ性について考えるという方法として、「自分の中で性的に何をすることにして、何をしないことにしているのか」を明らかにすることというのは、使えるのではないかと思っている。「いや、それがセクシュアリティについて考えるってことの本義だよ」と言われると、「ああそうだったのか、気づいてませんでした」ということになるのだけれど。
 まったくまとまらないが、私もノートとして残しておく。