女性が男児の髪を黙って触るとセクハラになるのか?

 id:ohonosakikoさんの記事が論争を呼んでいる。コメントは、大野さんの応答記事、コメント欄、ブックマーク、はてなハイクツイッターなど様々な場所でされている。大野さん側の言い分もあるだろうし、興味がある人はたどって欲しい。以下、セクハラに関連する箇所を、簡単にまとめておく。

「おばさんのフェティシズム
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20101210/1291992418

書き手である大野さんは、居酒屋で顔見知りの家族と同席する。4歳の男児の襟足をみて、大野さんはうなじが見たくなり、黙って髪の毛を持ち上げた。そのとき大野さんは次のように感じている。

 神々しいくらい白くて細くてすべすべの首筋の全貌が現れた。真ん中が少しだけ窪んでいる。せつないほどいたいけな窪みだ。いきなり、その首筋にカプリ!と噛み付いてみたい衝動が突き上げてきた。

大野さんは、この感覚を、性的欲望であるフェティシズムであるとして、記述した。
 この文章に対して、「セクハラではないか?」というコメントをした人がいる。私もその一人だ。

ショタコンの話。セクハラなんですがわかってやってんだろうか?*1

大野さんは指摘を受けて、セクハラとみなされたことについて、別の記事で次のようにコメントする。

だがセクハラの成立は、それを性的な嫌がらせだと感じた相手の表明に依っているわけだから、これはセクハラとは言えず、むしろ「子どもへの性的虐待」と言うべきではないだろうか。性的虐待はされる側の感情に関わりなく客観的なレベルで成立する点で、セクハラと異なる。ごく幼い子どもは、相手の行為を性的嫌がらせ、性暴力とは明確に認識できない場合があるからだ。

赤の他人の女が少し距離が縮まったのをいいことに、他所の幼い男の子の襟足の髪をそっと持ち上げて首の後ろを見た。それは見知らぬ人による強制的な性的接触という性的虐待であり、人権蹂躙であると。私が「性的加害者」で男の子が「被害者」ならば、そういう理路しか導き出せない。
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20101213/1292237229

しかし、大野さんは「ちょっと待って」と書き、次のように続ける。

多種多様な倒錯を含む性的欲望について、ここまではOKでここからはNGというふうに切り分けることはできない。だから社会規範や人権に照らし合わせて行為や表現が批判、断罪されるわけだが、それもここまではOKでここからはNGというふうに切り分けるのがなかなか難しいのは、都条例を巡る騒動を見てもわかる。

もちろん確実にNGとされる領域はある。私のしたことはそこに入るのかボーダーなのかOKなのか。どこから現実の「加害」となって、私とその男の子は「加害者」と「被害者」に切り分けられるのか。正直なところまだ私には(自分の性欲も含めて)わからないことばかりだ。

大野さんは、この「『加害者』と『被害者』に切り分けられる」ことがわからない理由として、外形的には他愛のないじゃれあいを男児としていたからだと述べている。大野さんはさらに別の記事で「私と男の子の間に単純にセクハラ成立の要件(受け手の不快感の表明や被害申告)がないということ。案外誤解されて広まりやすく濫用されがちな言葉なので、使用には気をつけた方がいいと思っています*2」と注釈し、自分の行動をセクハラだと判断した人たちへ疑問を呈する。

そういうことに敏感そうな人々が「セクハラ」と言い何人もの人が同意していたので、あれ?と思いました。彼らは男の子が性的不快感を感じていると、あの文章のどこから判断したんだろう? 

少なくともその判断材料は私にはありません。男の子が帰る時に母親に抱かれてバイバイしてくれたのにバイバイを返しながら*3、さっきフェチ感覚をもって接したことはすっかり忘れて「ちょっと慣れて恥ずかしくなくなったみたいね」などと呑気に思っていたけれども、それも私の思い込みかもしれないし、何とも言えない。

子どもは知らない大人(と言っても、あの場で男の子の中には最初に「この人達はばあちゃんやかあちゃんの知ってる人」くらいの認識はできていたと思う)に話しかけられた時、相手が自分にとって安全な人かどうか、その年齢なりの経験や観察力や直観で判断しようとする。あの男の子も私に対してそれをしただろうと思う。

でもその内容は、誰にも(もちろん私にも)代弁できない。一部始終を客観的に観察していた人が、男の子の表情や仕草などから類推することはできても。

男の子が成長した後、もし仮にネットで偶然私の記事を見つけたり、見つけないまでも突然思い出された幼い頃のあるひとこまが、性的な意味を帯びていたのではないかと思って不快感を抱いた時、私の行為は彼にとってセクハラになるでしょう。その可能性は否定しません。

しかしあれを性的加害行為だとするならば、受け手依存のセクハラに当て嵌めるのは今のところ無理であり、受け手、特に判断能力や抵抗力のない子どもの感情や意思は関係なく第三者が認定できる、「性的虐待」(子どもへのセクハラも含まれる)の一種「見知らぬ人による強制的な性的接触」というふうにしか言えないはず。
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20101219/1292761263

そして、セクハラだと判断した人たちの精神的状況を次のように類推する。

確かにフェチな欲望について書かなければ「セクハラ」とまでは言われなかったかもしれないし、それを受けてこちらも「性的虐待」「強制的な性的接触」などという大袈裟な、この事例に当て嵌めるには違和感のある言葉(と感じるのは私だけではないと思うが)をわざわざ持ち出さなくて済んだでしょう。

"おぞましい"内心がなまなましく書かれていたことによって、読んだ人の中に「気持ち悪い」「自分がその子だったら厭」「私の子どもだったら看過できない」「痴漢と同じだ」という感情が起こり、その中で私は「加害者」、男の子は「被害者」になった‥‥のではないかと思います。

そして、次のように締めくくる。

私の文章表現自体、秘匿すべき(と普通は考えられるような)自分の心理を態々文章にして公開した表現行為そのものが、性暴力だったということです。

誰にとって? あれを読んで性的嫌悪感や不快感や怒りを抱いた人々にとってです。あの文章は、その人々にとってセクハラと同じ効果をもったのです。だってそうでしょう。出来事だけを取り出せばいささか無神経でマナーに欠ける程度のもの(上の書き換えバージョン参照)を、その時の内心の描写にポイントを置きあからさまに記述したことによって、強い不快感を生じせしめセクハラだと言われたのですから。

「これは性暴力。あなたは加害者。子どもは被害者」、それは「この文章は性暴力。あなたは加害者。私は被害者」ではないでしょうか。「子どもに酷いことをしたという自覚をもってほしい」は、「私に酷いことをしたという自覚をもってほしい」になるのでは。

「だから私のあの行為は大したことではない。私は悪くない」と言いたいのではありません。あの男の子が私について"本当は"何をどう感じていたか、その内心を知ることはできないからです。

 以上が、簡単に大野さんの主張を私がまとめたものだ。先に事実を述べておくが、私(セクハラだと判断した側)は、大野さんの内心の内容を「おぞましい」「気持ちが悪い」と思ったことはない。一方的に性的欲望を持ち、妄想することは、ありふれたことだからだ。もちろん、私自身がそうした自分を「おぞましい」「気持ちがわるい」と思うことがある。しかし、それこそが内心で起きていることであり、私の心の動きでしかない。私がどんな欲望を持とうと(私と性的行為をしたいと思う相手以外は)どうでもいいだろう。問題は、それを他人に向けるかどうかである。
 さて、年配女性が若い男性に向ける欲望を指摘し、分析した論者に信田さよ子がいる。私は本文を読んではいないのだが、id:kanjinaiさんが記事を紹介し、次のように書いている。

これからの時代、性的主体となったオバサンと腐女子の数はますます増大するばかりである。それに比して、麗しき男子の数は相対的に減るばかりであろう。ちょうど企業におけるオジサンの群れと、希少未婚女子、という図の、まったく逆転した光景が、社会のあちこちで形成されていくのだろう。その結果として、男子は中学・高校に入ったと同時に、母親くらいの年齢の女性も含むあらゆる年齢の女性たちから、シャワーのように性的欲望の視線を浴びるという状況に直面しながら、自我を形成しないといけなくなるであろう。つまり、いまの10代女子が置かれているのと類似したような環境に、男子もまた置かれるようになっていくということだ。もちろん現在でもこのような側面はあるが、今後はこれがさらに一般化し、顕在化し、露骨化していくようになるだろう。人間である前に、性的男であるということを外部からの性的視線によって自覚せざるを得ない、という時代を生きなければならない将来の男子たちは、いったいどのような性的主体形成をしていくことになるのだろうか。彼らもまた自分の性的身体を自傷し、援助交際への渇望を見せるのであろうか。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070807/1186412993

上の記事では、年上女性たちが、10代男性に一方的に性的欲望を向けるさまを、これまで10代女性が置かれてきた状況と構造的に似ている点を指摘している。私はこうした問題について、どう考えるか書いたことがある。

 少なくとも、私は今まで、「女の子は性的に魅力的でなければ愛されない。愛されなければ幸せにならない」というメッセージを浴びて育ってきた。この社会は、愛されなければ、孤独で味気ない人生になるのだ、という価値観が重視されている。そして、女の子はお勉強ができて、仕事で有能さを発揮できても、性的魅力がなければ愛されないと言い聞かされている。男の子は社会的成功が愛される条件だとみなすかもしれない。しかし、女の子たちは、社会的成功が必ずしも愛されることに有利には働かないと、(言葉ではなくても)身に沁み込ませている。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071022/1193061545

私が、kanjinaiさんの記事で印象に残っていることは、「これまで自分と被害者を重ねてきたが、これからは加害者側にも重ねなければならない」ということを、強く思ったからだ。私がこの記事を書いたのは3年前で25歳のときである。ちょうど、二十代後半に差し掛かり自分が年を重ねるごとに、力関係で年下男性より上に立つことがあることを自覚し始めた時期だった、というのもあるかもしれない。*3
 大野さんの記事は、4歳の子どもであり、性器結合の欲望ではないという点で、上のような信田さんの指摘する事例とは異なるかもしれない。けれど、私が懸念し、kanjinaiさんが経験してきた*4ような、年上女性が性的欲望を一方的に年下男性に向けるような構図には当てはまるように思う。
 大野さんが最初に書いたエピソードでは、男児は4歳であり、性的欲望がなんであるのか*5を学ぶ機会があったとは考えにくい。また、大野さんも多型倒錯を含めて、性的欲望について教えようとした経緯も見られない。大野さんが彼に性的欲望を向けているとき、彼がそれが何であるのかわからなくて当然である。しかし、「何か分からないが、向けられたもの」として、彼の成長の中にその経験は蓄積していく。もしかすると、大きな影響を与えないかもしれない。女性の中にも、年上男性から一方的に性的欲望を向けられたことが、自我形成に影響がないと感じるひともいるからだ。だが、経験させるべきことなのだろうか?大人の自由な欲望を守るために?
 私はこれまで書いてきたように、欲望は禁止できないし、裁けないと考えている。*6大野さんは次のように書く。

自分にさえ混沌としている内心が具体的にどういうものだったか確認したくて、言葉にしてみた。欲望に言及していたからマナーの話では済まず、性暴力だということになった。

では、マナー違反の範囲を越えて性暴力となるか否かは、その人が内心で抱いている欲望の「善悪」で判断されるのか。

そんな馬鹿な話はありません。欲望が行為や表現となって実害や悪影響をもたらした時に、その行為や表現が「悪」として断罪されるのです。
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20101219/1292761263

だが、「実害や悪影響」は外形的にあらわれて計測できるのだろうか*7。私が問題としている点は自我形成に関するものである。大野さんの言葉を借りれば、「内心」にあたる。大野さんは内心が「自分にさえ混沌としている」としているとする。では、やはり、男児の内心も「自分にさえ混沌としている」だろうし、ずっと混沌とし続けるかもしれない。では、男児がはっきりと「内心」において「それが嫌であった」もしくは「自我形成にかかわる経験だった」と認識しなければ、「実害や悪影響」はないとされるのだろうか。
 答えは、やはり「わからない」だろう。当たり前だが、自我形成は意識無意識を問わず瞬間瞬間に変化している環境の中で行われる。どの要素が自分の自我形成に影響を与えたとはっきりといえるものではないだろう。仮に自我形成に悪影響があったとしても、大野さんの経験を、男児が後になって抽出するかどうかはわからない。また「それが嫌であった」かどうかも、はっきりしないからもしれない。多くのセクハラ被害者は「嫌だった」と言いながら、「嫌でなかったかもしれない」と思い続ける。これは私の感覚だが、人間の「内心」は常に混沌としているのではないだろうか。「嫌だった」と思った次の瞬間「嫌でなかった」と思ったとしても、不思議はない。もちろん、公的な証言の場では、外形的に一方を主張する振る舞いが求められるが、「内心」の問題にしてしまえば、常に迷いはあり続けるだろう。*8だから、問題は「迷わざるをえない状況をどう避けるか」だろうと、私は思う。
 もちろん、避けようとして避けられないことではある。好意を持つこと、誰かと同じ時間を過ごすこと、コミュニケーションをとること。その中で、滑り込むように性的欲望は人の「内心」に生まれる。もちろん、こうした性的欲望をお互いにぶつけて楽しむことはある。いつのまにか、欲望同士が結びついて共鳴するような感覚に浸ることもある。だが、それは注意を払い、相手が「性的欲望を向けられる準備ができているかどうか」を見極めながら行うことである。目の前にある身体を、自分の性的欲望を満たすために使った後、「嫌だったかわからない」ような状況に置くべきではないだろう。
 私が、それを批判するときに「セクハラなんですがわかってやってんだろうか?」という言葉を使ったことが、適切であったのかどうかは、検討の余地があるかもしれない。確かに「セクハラ」要件は満たさない可能性が高い。しかし、世の中のほとんどは告発できない、すなわち「セクハラ」要件を満たしている(すなわちはっきりと「嫌だった」と外形的にみなされる)セクハラは多くはなく、たいてい申し立てはされない。確かにセクハラという語の濫用は問題である。しかし、もちろんこの場で大野さんは「これはセクハラではない」と申し立てできる。けれど、そこがポイントではなのか。そこがポイントならば、私のしてきた話をすべて「性的虐待」に置換してもよいだろう。私が「セクハラ」という語を用いて言おうとしたことは、外形的な合意のあるなしではない。だから、私の語の選択は不適だったかもしれない。もちろん、「セクハラ」という語を用いずに最初からこうやって丁寧に書いたほうがよいのかもしれない。しかし、私はまさかこんな長いやり取りに発展するとは夢にも思わなかった。直観的に、「これはセクハラだ」と思ったから書いたのである。その直観が、もしかすると大野さんの言うとおり、「私に酷いことをしたという自覚をもってほしい」という気持ちから生じたものかもしれない。繰り返すが「内心」は混沌としており、自覚しない感情があっても不思議ではないからだ。それはそれでよいだろう。
 大人が、子どもに一方的に性的欲望を向けてはいけない。なぜなら、彼らはそうした欲望から自由になる権利があるからだと、私は考ている。そして、大人もまた、欲望を持つ自由はある。創作物の中で発散する人もいれば、欲望を変化させる人もいれば、禁欲する人もいるだろう。しかし、その欲望を現実に生きている子どもたちに一方的向ける自由は、制限されてもよいのではないか*9。私はそう思っている。

*1:この後フェティシズムについてもコメントしているが、別の議論なので割愛

*2:http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20101219/1292761263

*3:自覚したから、加害行為をしないわけでもなく、私は失敗を繰り返しているし、私が気づかないだけで、今まさに加害しているという可能性もあるのだろうけれども

*4:ほかにも同じような経験をしてきたことを今回ネット上で表明した人もいるし、私も個人的にそうした人たちを知っている

*5:たとえば「自分の体にタッチする/しないは、あなたが決めていい」「いやなときにはNOと言おう」といったこと

*6:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080214/1202980795

*7:たとえば、臨床心理で問題となるような症候として現れる可能性はあるかもしれない

*8:これは、法廷で強姦罪で証言する被害者にもあることだ

*9:大人→子どもだけではなく、すべての人という話なのだけれど、大人同士・子供同士の話はもうちょっと書き足さないといけないかな、と思う