「小説トリッパー」に掲載されている、安野モヨコのインタビューを読んだ。長期休養中とは聞いていたが、無期限だとは知らなかった。
![小説 TRIPPER (トリッパー) 2008年 9/30号 [雑誌] 小説 TRIPPER (トリッパー) 2008年 9/30号 [雑誌]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/513gyJj6Q7L._SL160_.jpg)
小説 TRIPPER (トリッパー) 2008年 9/30号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社出版局
- 発売日: 2008/09/16
- メディア: 雑誌
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安野さんのマンガは独特の痛々しさがある。主人公の空回りを、常に脇役は観察し、批評する。主人公が、周囲の人たちに気に入られたいと思い、行動すれば行動するほど、周囲の人の目には奇異に映る。自分の想像する<私>と、他人が見ている<私>がどんどんずれていくのだ。その様子は、ときに滑稽に描かれ、ときに辛辣な皮肉として描かれる。
安野さんの、その冷たい観察者としての視線は、安野さん自身にも注がれているのだろう。安野さんの「美人画報」と題された3冊の本に、それはよく表れている。

- 作者: 安野モヨコ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/11/16
- メディア: 文庫
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安野さんは「他人からよく思われたい」という欲望を隠さない。「もっとよく思われるために」と奮闘する。その様子は痛々しいほどだ。そして、安野さんは、その自分の痛々しさを、冷たい視線で見ている。そして、その視線を送る自分の痛々しさを、無限の自己言及で痛めつけるように、冷たい視線で描こうとする。
もう言及されることは少なくなっているが、安野さんの代表作になるだろう作品は「脂肪という名の服を着て」である。

- 作者: 安野モヨコ
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2002/07/08
- メディア: コミック
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この作品は、安野さんの痛々しさが凝縮される。ゆえに、本人はその痛々しさへの冷たい視線によって、この作品を自分の代表作にあげることはないだろう。*1それでも、現代の女性の像をよく描いた作品である。
主人公は、他者との安定的な関係を持っているときには、ちょっとぽっちゃりした、のんびりした女性であった。ところが、安定的な関係を変えようと他者に働き掛け始めたとたんに、そのバランスは崩れていく。「痩せたい」という気持ちは強迫的な衝動になり替わり、主人公は過食嘔吐を始めてしまう。そして、痩せすぎで、病院に入院してしまうのだ。
最後には、拒食症から回復し「私は、周りの目にとらわれず、のんびり生きていこうと思うんです」というような主人公の姿が描かれる。その直後に、観察者となる脇役が、主人公がまた摂食障害を始めることを予言し、その理由は「心がデブだから」と言い捨てる。そうして、後味の悪いシーンで作品は終わってしまう。
ここには、他者の視線を気にする<私>の病が描かれている。摂食障害は、「(特に女は)やせなければならない」という社会のメッセージに答えてしまう病だとされることがある。しかし、そう単純に定義はできないだろう。なぜならば、私たちの姿形に向けて送られる社会的メッセージは、そう単純ではないからだ。
主人公は、あるときは「やせていなければならない」といい、あるときは「ぽっちゃりしたくらいがいい」といい、あるときは「痩せすぎは気持ちが悪い」といい、あるときは「太っているのは気持ちが悪い」というメッセージに取り巻かれる。実際、私たちが暮らしている世界でも、痩せているグラビアアイドルが持ち上げられる一方で、「もっとぽっちゃりしていたほうが魅力的」「筋肉質なほうがよい」といわれる。さらに難しいのは、現代では「体形に気をつかえ」といいながら、まるで「体形に気をつかっていない」ような振る舞いが求めるメッセージが強くなっていることだ。常にメッセージは錯綜している。
また、これらのメッセージは、場所により濃淡に差がある。「痩せているべきだ」というメッセージが強い場所もあれば、「ぽっちゃりしていたほうがいい」というメッセージが強い場所もある。これらの空間を移動すると、さらに受信者はメッセージを錯綜して受け取ることになる。主人公のように、これらは「結局、どうすればいいの?」という問いになって、呟かれる。
主人公は、摂食障害により、自分の体形を意志によりコントロールしようとする。それは、「私の体は私のものである」という実感を持つ。しかし、その障害は、「体形をこのように維持せよ」というメッセージの中で、逆向きの実感を持ち始める。痩せすぎてガリガリになっても、痩せることをやめられなくなる。それは「私はもう、意志により過食嘔吐をコントロールできなくなった」ので「私の体は、私のものではない」という実感である。「どんな私でいいの?」という問いから、「あなたの求める私ではいられないの」という叫びへと移るように描かれる。
私たちの体は「私のものでありながら、私のものではない」。哲学的に正しい言明である。しかし、これは私たちの外部にある他者との関係性の文脈で、語られるべきものであったはずだ。私たちには、外部の他者の視線を(厳密な意味では)コントロールできない。であるから、その体への視線のコントロール不可能性と、どこかで折り合いをつけなくてはならない。そして、コントロール不可能であることが、「身体を持つ人間」という、哲学にとっての重要なテーマとなってきた。
しかし、このテーマは、摂食障害においては、自己内に封じ込められ、自己内での解決が図られようとする。すなわち、自己と外部他者の葛藤であった問題が、自己と自己内他者の問題とされる。それは心理的な問題とされ、個人的な問題となる。外部他者との問題ではなく、自分を自分でコントロールするような、心理訓練を求めることで解決が見出せる問題へと転換される。これは、他者の視線を、内面化という形で、自己内に取り込む働きを示す。
安野さんのマンガは、「他人目線」を強く意識している。自己への耽溺を、厳しく戒めようとする。しかし、そのことにより、逆説的に安野さんのマンガは「他者を自己内に閉じ込めるさま」を協調して描いてしまう。どこまでも「これは私の問題です」と、他人に責任を転嫁せず、努力に奔走する人間。それは馬鹿にされたり、見下される像ではないだろう。それでも、安野さんのマンガの読後に残る「痛々しさ」は、読んでいてつらい。