津村記久子「ポトスライムの舟」(芥川賞受賞作)
「文藝春秋」に、今年の芥川賞受賞作が出ていたので、買って読んだ。今回は津村記久子「ポトスライムの舟」であった。派遣社員としてライン作業で働き、奈良で母親と生活している女性、ナガセの日常を綴った物語である。ナガセは29歳から30歳になる節目に、163万円を貯めて、世界一周旅行に行こうと決める。地道に節約生活を始めた折に、家を飛び出してきた主婦りつ子とその娘恵菜が転がり込んでくる。*1淡々と生活の糧を稼ぎ、切迫していながらも、どこか飄々としたナガセの語り口は、いかにも現代的だ。
平凡な日常を描いているだけなのに、最後まで読みきらせてしまうだけの緊張感がある。舞台を東京ではなく、奈良にしたのがよかったのかもしれない。ナガセの母親は、りつ子が転がりこんでくると、「じゃあ、この部屋を」とあっさり受け入れ、恵菜の面倒もみてやる。しかし、子どもに対して、執着があるわけでもなく「いつか出ていくからかわいがれるんやん」とあっさり言う。ナガセも厳しい状況の中で、友人や母親と、うすく繋がりながら、そこそこ楽しみを見出せるような人物造形になっている。この鷹揚さは、地方都市ならではかもしれない。私も、何人かの友人を、思い浮かべることができる。
しかし、本当に何も起きない小説である。石原慎太郎*2は「無劇性の劇」であると選評で述べている。確かに、劇的であることは小説の必須条件ではない、ということはわかっている。しかし、アンチテアトルな作品は、劇的な作品群にポツンと入りこむから、新鮮なのだ。アンチテアトルであることがスタンダードになるような日本の文藝界では、際立ちようもない。
ところで、私は、ある女性のweb上の日記を5年ほど読み続けている。彼女は現在、ピッキング作業に従事し、マダガスカル島に行くことを目標に、貯金をしている。特に何も事件は起きない日記である。なぜ私は読み続けているのか。彼女の日常生活に対する目線の置き方が、時には優しく、時には辛らつで好きなのかもしれない。それにわりと上手な文章なので、だらだら読んでいる。特に私にも理由はないし、議論をするわけでもない。
もちろん、その女性の日記より、津村さんの小説は格段に緻密で巧い文章である。しかし、日記を綴る彼女が「マダガスカル島に行く」と貯金を本格的に始めるにいたる現在まで、私は5年も彼女の日記を読んできた。彼女の日記は、もしかするとフィクションかもしれない。しかし、その決意と、彼女が節約にかける思いの機微は、5年分の重みも込みで、私は受け取っている。リアリティーが圧倒的なのだ。
webのメディアは、不特定多数の人に、日記を公開することを可能にした。私には、日記を通して、すでに他人の生活を覗き見することが、当たり前になっている。精度が高くても、やはり津村さんのような作品は、どこか「デジャヴュ」をもたらして、新鮮さに欠ける。
細やかな日常の描写を通して、見逃されがちな幸福や不幸がある、ということは、私たちはあまりにもよく知っている。その上で、あえて小説を読むということは何か。津村さんの作品に好感を持ちながら、<津村さんの>小説を読むことについて、考えてしまった。