「靖国」

 映画「靖国」の公開をめぐる問題は、私はほとんど追えていないので、何が起きたのかよくわからない。能天気に「いやあ、上映中止に追い込まれるなんて、ハクがついてよかったじゃん」とか思っていた。反体制は芸術の王道ではないですか。*1
 なにはともあれ、上映劇場も決定。

東京 渋谷シネ・アミューズ:5月3日〜5月9日
シネカノン有楽町1丁目:5月10日〜(レイトショー上映)
大阪 第七藝術劇場:5月10日〜
広島 広島シネツイン新天地:5月24日〜
京都 京都シネマ:6月7日〜
新潟 シネ・ウインド:6月7日〜
沖縄 桜坂劇場:7月12日〜
http://www.yasukuni-movie.com/contents/theater.html

たしか新聞の記事では、大阪・七藝の代表は「何かあったら、何かあってから考えればいい」と言っていたはず。2年前にソクーロフ「太陽」が公開されたときには、私は偶然、東京に滞在していたので銀座シネパトスに観に行った。薄暗い(なぜか冷房が切られた)映画館で、汗ダラダラかきながら、「この映画はヤバイんじゃないだろうか」と思ってどきどきしたのを覚えている。*2こういう映画は、非日常感があって、観に行くと楽しいです。*3
 それで、気になるところは、内容。国際政治学者の村田晃嗣*4が、入手した「靖国」の映像の感想を、地味にアップしている。

 私にとって最も印象的だったのは、台湾人の女性が、靖国神社に合祀されている自分の父親について、彼は台湾人であり彼の魂を台湾に連れ帰りたいと主張することであった。「あなたの父親が台湾で死んだら、あなたもその魂を日本に連れ帰りたいと思うだろう」という彼女の問いに、靖国神社側は応えていない。
(中略)
 この作品が提起しているのは、歴史認識の問題であり、信仰の自由の問題であり、言論・集会・結社の自由の問題である。こうした問題に100%の正解はありえない。靖国神社に賛成する者も反対する者も、参拝する者もそれを忌避する者も、狭量の罠に陥ってはならない。それが、この作品の最大のメッセージであろう。
「Koji Murataの映画メモ」(http://blogs.yahoo.co.jp/kojim1964/22731432.html

あまりにも騒ぎになっているので、こけおどしの内容だったら辛いなあ、と思っていたが、興味がわいてきた。

 映画とは直結しないが、私の靖国についての逡巡もメモしておく。
 正直に書くが、私は靖国神社遊就館に行ったが、それについていまだに何も言えていない。何も言えないことは、全然良いことではなくて、私は何か言いたいとは思っているが、言葉に詰まる。私は、戦争には絶対反対の立場を取る。しかし、靖国という問題は、その立場に居座ろうとする私を揺らがすような要素を持っている。
 私は、戦争を含め、あらゆる意味で殺人を正当化する言説に与することはないだろう。ただ、その言説を選び取る/選び取れるのは、偶然にもたらされた、私の環境の問題が大きいのもわかっている。人は人を殺せる生き物である。そして、その後、人を殺した人と、どのように接することが可能なのか。
 昨日、判決が下された光市母子強姦殺人事件の加害者と、戦争で人を殺した人のおかれた環境はまったくちがう。けれど、行為だけを抜き出してみると、やはり人が人を殺すという点は共通している。その抽象化された行為の共通性と、あまりにも違う具体的な状況の差異性という二側面を鑑みながら、私は両方の殺人者を、重ね合わせることも、切り離すこともできない。
 何もいえないままでいるわけにもいかないので、これからも私は機会があるたびに、靖国について考えたいと思っている。

*1:間違った芸術理解ですね。でも、1960年代の唐十郎の一座の「花園神社で機動隊に蹴られながら、紅テントで歌ってたというエピソード」とか、ソ連時代のリュビーモフがやった「検閲にかけられた台詞を、口パクで言う演出」とか、アバンギャルドかっこいい。ミーハーですいません。

*2:結局、何も起きず、ヤバくなかったですけどね

*3:ちなみに、先日の「実録・あさま山荘」にもその雰囲気を期待したけれど、きれいな劇場にインテリのおじさんおばさんが集まってました。いや、別にいいけどさ

*4:村田さんは、政治方針的には、私とは逆ベクトルで、理念なきタカ派ということになるように思いますが、ブログでは映画評(ていうか、実質、データベース)を静かに書いておられます。「橋のない川」なんかも取り上げられていたりします。村田さんをイデオロギー的に偏見のまなざしの目でみていた私は、ちょっと反省して、できるだけフラットに映画評として読むようにしています。