死刑判決の妥当性ではなく

 光市母子強姦殺人事件の被告に、死刑判決が下った。上告するようだが、予想通りはてな村では、たくさんの記事が書かれている。私は、前の記事の文脈もあって、この件については、時間をかけて考えようと思っている。
 たとえば、素朴に率直にこのような気持ちを持っている人がいる。

私が反対出来ないのは、「もし自分が被害者の立場となった時、犯人が生きる事を許せる」と言い切れないからです。

もし、自分がその立場になったら「社会的な影響?判例?そんなのはどうでもいい、とにかくあいつを裁かせてくれ!」となってしまうであろう事が想像できます。
(略)
あちこちで本村氏が批判されているのを見かけるけれども、氏は非常に理性的に、かつ合法的に犯人に対する最大限の報復を成功させています(言い方は悪いですが)。

しかも、本来ならば失う筈も無かった9年もの歳月も掛けて。

m-bird「だから死刑に反対しない」『m-birdの日記』(http://d.hatena.ne.jp/m-bird/20080423/1208975653

このような感情から、本村さんを批判することに躊躇する人は、多いように思う。それは、礼儀正しい態度だとも思う。自分の大切な人たちを犯され、殺され、その後を生きていくことに絶望する中、「犯人を殺したい」と主張することを否定することは、私にもできない。
 しかし、同時に、私には「犯人を殺したい」と主張することもできない。なぜなら、私は大切な人たちを、被告に殺されたわけではないからだ。本村さんの気持ちに寄り添おうとすることと、本村さんと同じことを主張することはまったく違う。
 私は被告に会ったことがない。人生上、直接の接点は何一つない。その人を、殺すべきかどうかなど、判断できない。そこで、司法に判断をゆだね、司法は私の代わりに事実関係を調査し裁判を執り行う。これは、近代司法の骨子である。法治国家に住む以上、刑事事件に対し、私たちは犯人に憤ることはできるが、殺すべきかどうかを判断することはできない。
 今回の死刑判決が妥当であるかどうか、検討の余地はあるだろう。なぜか「死刑が妥当!」と言い切る人がネット上にはたくさんいる。しかし、判決文を精査し、判例と照らし合わせる作業が、これから法律家によってなされるだろう。そうして、一年もすれば、今回の判決についての議論がジュリストや判例時報に載るのではないだろうか。そうして、初めて、法的に今回の判決が妥当であるかどうかの、法律家の意見が出揃う。あくまでも、司法の判決は、法体系の中でしか妥当性を問えないだろう。死刑の妥当性を、現時点で判断することは難しい。それこそ、沈黙せざるをえないだろう。
 では、法律家ではない(私も含めた)人たちが、本村さんに共感したり、加害者に憤る気持ちはどこに持って行けばよいのだろうか。それはやはり、倫理の問題に移行していくだろう。「殺したい」と叫ばなければならないような被害者の苦しみを、社会を構成する一員として受け止めるとはどういうことなのか。人を犯し、殺した人たちと暮らすとはどういうことなのか。
 裁判はスポーツではない。勝ち負けで、どちらが正しいのかを決めるわけではない。応援席で、好きなチームに声援をおくるのとも違う。司法にカタルシスを求めてはいけない。たとえ、死刑判決が下りても、本村さんの苦しみがなくなった、というわけではない。大切な人を奪われた事実は、何も変わらず、私たちは、「このような事件が起きる社会にしてしまった」という責任から逃れられない。
 m-birdさんは、本村さんが9年という歳月を失ったと、上の記事で述べている。そうだろうか?本村さんは、「死刑にできないのならば、自分の手で犯人を殺す」とテレビに向かって主張した。けれど、今の本村さんは「この事件で(加害者を含めて)3人が死ぬことになる。この事態を社会は重く受け止めて欲しい」と主張する。テレビの画面を見ているだけでも、私は本村さんはずいぶん変わったように感じる。
 本村さんの9年、私の9年、あなたの9年。みんな時間の流れで生きている。被害者は特別だけれど、特別でないような、相反する性質を持っている。本村さんは、大切な人を奪われ、それでも9年間生きてきた。そこには、出会いや別れもあったことだろう。被告に対する感情の揺れもあっただろう。思い出したように、本村さんに興味を持つ私たちに、本村さん(とその身近な人たち)の気持ちなんてわかるわけはない。それは、彼が被害者だからではなく、私たちはみな別の人生を送っているからだ。
 本村さんの言葉に心を動かされたならば、それはそれとして、受け止めるべきだと思う。しかし、それで終わってはいけないのだ。私には被害者の気持ちはわからない。それでも、被害者の主張に賛同しないこともあれば、批判することもある。あなたの気持ちがわからない、と言いながら、あなたの隣に居続けること。それが他者と暮らすということだ。