「裁判員制度――死刑を下すのは誰か」(『現代思想』10月号)
昨日で10月も終わってしまったのだが、『現代思想』10月号の特集は「裁判員制度――死刑を下すのは誰か」であった。非常に難しい問題だが、14本も原稿が載っており、それぞれ気合いの入ったものが多かった。私としては、できるだけ多くの原稿を紹介できれば、と思っている。*1
まず、討議は安田好弘・森達也「刑事司法の死の淵から」である。安田さんは、死刑廃止論者の弁護士として有名である。オウム真理教の教祖であった麻原彰晃の弁護や、先日の光市裁判で加害者の弁護を担ったため、名前を知っている人も多いだろう。ネット上でも苛烈な批判(そして誹謗中傷)も受けている。
安田さんは、いかなる思想信条で、光市裁判の弁護を行ったのかについて、明らかにしている。それは、これまでの裁判の経験をもとに、「裁判所はこう動くはずだ」という読みにしたがっていた。奇異で無理のある主張であったとしても、裁判の過程においては、とられるべき手続きはとられるはずだ、という読みであった。ところが、実際の裁判では、安田さんがあるべきだと考える手続きは、ほとんど無理やり飛ばされてしまった。森さんは、光市裁判について、安田さんに詰問している。
森 (略)今回の安田さんたちの大きなミスは、裁判所戦術ではなく、メディアを媒介として醸成される民意についての考察や戦術がほとんど欠落していたことだと僕は思う。あまり意識になかったのではありませんか?
安田 あまりというか、まったく意識にないに等しかったです。
森 それじゃ駄目ですよ。今の裁判所の判決は、民意によって大きく左右されています。裁判戦略はそれも考えないと。
(33〜34ページ)
このあと、森さんは、安田さんが「司法を取り巻く現状」の変化についての読みが、完全に甘かったことを指摘し、猛省をせまる。安田さんははっきりと猛省の必要を認めている。
森 僕は今日、甘いとか猛省しろとか、安田さんをずっと責めています。でも責めながら、とても苦しい。だってかってかつての安田さんのやり方が通用する法廷が、本来の司法の姿なのだから。
民主主義を担保する要因として最も変わってはいけない司法が、ポピュリズムの暴風にさらされている。この流れを本当は止めなくてはならない。弁護士は闘い方を変えるべきじゃない。それは司法のこの激しい劣化を認めてしまうことになると本音では言いたいんです。
刑事司法における弁護人として、安田さんは今、シンボル的存在となっています。今後の展望を聞かせてください。
安田 恥ずかしいことですが、答えに窮しています。刑事司法は死んでしまったのだと実感させられています。だって、刑事弁護を社会に合わせたところで勝てやしない。社会に合わせても、社会は「救え」ではなく、「殺せ」と言ってるわけですから。
森 ……なぜこうなってしまったのでしょうか。
安田 やっぱり弁護士の足腰が弱かったからなのでしょう。
(35ページ)
このあと、弁護士業界の変質や、オウム事件をきっかけとした、司法をとりまく状況の変化などが話されている。安田さんは、この変化について、自らの無力さを認め、敗北宣言ともとれるように語っている。
確かに、安田さんの主張は、自らを団塊の世代と呼ぶだけあって、いわゆる人権派弁護士の論調である。率直に言うと、(たぶん、かなりの人権派よりの)私ですら、その議論にはのっていけない部分がある。しかし、いくら「こいつは馬鹿」と罵ろうとも、安田さんが非常に優秀な活動家で、ロジカルかつ現実主義的な主張を展開していることは、否定できない。安田さんの主張を批判するならば、どの部分を、どういう風に反論できるのかについて、ひとつずつ検討することが必要である。たとえ、安田さんが敗北を宣言したとしても、これからも司法は私たちの社会にあり続ける。特に、私のような世代は、司法についてどう考えるのか。
来年の五月からは、「裁判員制度」が導入される。安田さんは、これは単なる「裁判員裁判」ではなく「裁判員・被害者参加裁判」であると指摘する。裁判員にしろ、被害者にしろ、参加するのは「死刑相当」の裁判である。私たち自身が、ある日法廷に呼び出され、被告に死刑を判決を出すかどうかを迫られる。安田さんは、次のように指摘する。
安田 実は、裁判員は死刑を出すにあたって慎重になるだろうと言う人は多くいます。法務省でさえそうなるのではないかと心配しています。裁判所の中にも、あるいは死刑廃止論者の中にもそう言っている人はいます。しかし、僕はそうは思いません。もし今度の裁判員制度の制度設計がもうちょっと時間をかけて物事を見るようなものになり、被害者も参加せず、参加したとしても被害者の意見陳述があってその弁護人がじっくり時間をかけて事件を解きほぐし被告人の人となりを説明してゆく、そして評議も時間をかけてじっくりやる、という制度であるなら変わる可能性はあります。しかし、先ほども言いましたが、来年から行われようとしている裁判員制度は、事前に徹底的に整理されたうえに、拙速に拙速を重ねるものですから、裁判員が世論や被害者感情に流されるのは当然だと思いますよ。裁判員が目にする事件は細かいディテールが省略された事件ですし、裁判は長くても五日、早ければ一日で終わってしまいますし、現実に、被害者の意見陳述や論告求刑と弁護人の弁論とが同じ日に連続的に行われ、なおかつそのまま評決に入り結論を出さなければならないことになっているわけですから、慎重論が出てくる余地がありません。感情が先走るのは必定でしょう。しかも少人数で議論するのではなく、九人という大人数になると、強い意見や大きい声の人に全体が引きずられてしまうのではないでしょうか。しかも、裁判員裁判といえども証拠を決定するのも裁判官だし、評議のときの議長を務めるのも裁判官です。つまり実質的な主宰者は裁判官であって、裁判員はオブザーバーと言ってもよいのではないかと思います。しかもその裁判官は、いままでいかんともしがたい裁判を行ってきた裁判官です。ですからどこにも救われる要素がない。死刑が減ってほしいという期待は僕の中にもありますが、しかし、現実にこれから行われようとしている制度を見てみると、そういうものが入る余地がないのですね。
(44ページ)
この状況の中で、安田さんは終身刑の導入を提起する。森さんは、終身刑に対する疑問を発する。
森 始まってからずっとネガティヴな話しか出てこないのだけれども、そういった状況の中に追い詰められて、安田さんは窮余の一策として「仮釈放なき終身刑」というものを打ち出した。でも僕は、貧するに鈍するにならないかなと危惧しているのだけれども、その戦略について聞かせてください。
安田 結局、弁護人として、裁判官や裁判員が死刑に走るのをどこで止められるのかという問題です。
森 一〇年前だったら安田さんは終身刑をどう考えました。
安田 そんなものは絶対に不要だと言っていました。
森 でしょう?なのになぜ?
安田 何もかも、こんなに酷い状況だから、もうそれしかないと思っています。これは戦略の問題ではないのですよ。森さんは、先日、終身刑の導入は戦略の問題だと言われたけど、そんな政治的なものではありません。
森 そう信じたかったんです。死刑については理想を追いながらも実務レヴェルで考えねばならない安田さんが、戦略的に終身刑を導入する手法を選択するのだということであってほしいと思っていた。
(46ページ)
安田さんは、現況としては、「死刑廃止」は不可能だという。しかし、「終身刑」を導入すれば、「死刑以外の選択肢」が生まれる。「殺すな!」ではなく、「何も殺さなくても、一生刑務所に入っていて罪を償えばよいのではないか」(47ページ)という主張をしていくためだという。死刑を避けることに第一義があるという。
森さんは、現在、無期懲役がどんどん長くなっていることを指摘している。「去年一年間で仮釈放で出所した人の留置期間は、平均で三〇年プラスアルファ」(47ページ)であり、安田さんはそれは平均であるから実際多くの人は「四〇年を遥かに越えている」(47ページ)という。このように、日本の無期懲役は、実質的には終身刑の役割を果たしている。この見方に、安田さんは異議を唱える。
安田 それはちょっと違いますね。無期懲役が終身刑化しているというのは、運用の問題であって制度の問題ではありません。もうちょっと考えてみれば、無期がそれだけ長くなるのは、有期刑が二〇年から三〇年に一気に延ばされたからです。だから法務省の運用からすれば三〇年が基準になる。有期刑が三〇年なのに一〇年で仮釈放を認めることはできないとして、彼らは運用しているのだと思います。僕は有期刑が一・五倍になったときに、あるところで「これは死刑も向きも連動して重くなる」と言ったら、「そんなことはない」と言われたけれども、そうではない。つまり、厳罰化していくというのは、無期を死刑にはできませんから、結局、終身刑に転用しているということです。無期が三〇年〜四〇年、実際には四五年くらいが平均でしょう。しかしその話は無期の問題であって、死刑の問題ではないのです。制度として、死刑と無期との間に死刑に次ぐ重い刑罰として終身刑を置くことによって、無期の事実上の終身刑への運用を是正できるだけでなく、死刑に代わるもう一つの刑罰を選択できるようになると思います。
森 それは安田さんの見方です。世間一般はそういう認識を持っていない。死刑と現状の無期との間が開きすぎているから間に一つの刑罰を作れ、というのが今の世間の理解です。
安田 そうだと思いますよ。そのような認識に僕は何ら意義も唱えません。死刑と無期しかないから、その中間の人が厳罰化の中でみんな死刑になってしまっている。それを僕は言いたいのです。無期は運用がどのようであれ、制度上、一〇年で仮釈放の可能性がある制度なのですから。
森 制度としては、ですね。
安田 そうです。法務省の運用の現実がどうだからというのを終身刑反対の理由とするのは、どう考えても、運用の問題と制度の問題の混同です。
森 それは、方針が変わったらまた変わってしまうという危険性も含めてのことですか?
安田 そういう意味もありますが、無期・終身刑・死刑と言って議論をしているのは、制度設計としての刑罰です。運用としての刑罰を言っているのではありません。運用としての刑罰を持ち込んで、それで制度としての議論をしようとしているからおかしなことになる。無期が終身刑のように運用されているのは、無期の運用の問題であって、それ自体直させるべきです。転用なんてさせるべきではない。
(48ページ)
さらに、安田さんは次のようにはっきりと死刑の残酷性を述べる。
安田 また、法務省は、「終身刑は人間を破壊する」とか、「死刑と同等か、それ以上に残酷だ」という議論を展開して、何としてでも終身刑の導入を阻止しようとしていますが、終身刑が人間を破壊するというのは、全く事実に反するデマゴギーと言うほかありませんし、自由を奪う問題を命を奪う問題にすり替えています。命を奪うこと以上に残酷なことはありません。自由の剥奪を命の剥奪と同等に捉える考え方と死刑廃止の考えとは大きな距離があります。結局は、生を弄んでいるんですよね、彼らは。
(50ページ)
上の発言は、死刑相当の裁判において被告を弁護してきたうえで為されている。その重みを受け取るとともに、この言葉をどう聞くのか。さらに、安田さんは終身刑には、再審制度と恩赦の導入が条件になるという。
安田 もっと開かれた恩赦、当事者性を持った恩赦にしなければならないと思います。つまり、恩赦の審査の場に、本人が当事者として出頭し、直接主張立証できるように変える必要があります。二〇年三〇年経って、中で一生懸命贖罪の人生を歩んできた人が、審査の場に出てきて「赦してくれ」と訴えるとき、「赦そう」とうい話に変わると思いますよ。死刑の場合は特に、赦すか赦さないかの話になってくると、もう一度死刑にするかどうかという話に入れ替わることになりますから、そして、激しい憎しみや悲しみは冷静になってきていますから、恩赦の機会は増えるだろうと思っています。ところが、現在は本人に何らの権利を認めず、恩赦をお上の恩恵として、密室で行っていますから、三〇年以上も死刑に対する恩赦を全く認めないという現状になっているわけです。
これはなかなか説明しづらいのですが、最近思うのは、「死刑にしてしまえ」と決断する場合と、「殺さなくてもいいじゃないか」と思う場合とでは、人間の意識のネジの巻き方、テンションが違うのではないかと思うのです。上手に殺せばみんな拍手喝采するのかもしれないけれども、殺し方に失敗し、何度でも首に縄をかけようとすれば、「こんな残酷なことは止めようということになる。だから、殺すという決断と、殺すと決まった人をどうするのか時間をかけて考えるのとは違っていて、後者ではもう一度白紙から、しかも冷静に考えることになるのではないかと思うのです。断罪する結論と断罪行為とでは、少し次元が違うだろうということです。
(51ページ)
まず「恩赦」という言葉自体、現在の社会状況では、ヒステリックに非難される可能性が高いだろう。そう見越した上で、後半の問題は、誤解を避けずに言えば、とても面白い問題だ。
もちろん、司法を考えるとは重たいし、暗くなるし、ハードな問題である。その上で、論じるには奥深く、自分を試されるような、議論の題材向けの側面を持っている。論理ゲームで、死刑を論じることは、冒涜的な行為であろう。しかし、感情的に「これはいい」「これはひどい」と言い放つような、素朴さがもてはやされる現況では、むしろ論理的に検討する訓練としては適していると思う。
特にネットのブログ上では「個人的な意見ですが」という枕詞が繁用される。私自身もよく使う。しかし、これは「公的な意見」とセットでなければ、単なる批判を恐れた逃げ口上である。私的/公的というのは対の概念である。「私的領域でないところ」が「公的領域」であり、「公的領域でないところ」が「私的領域」である。両者は区切り線でわけた同じ平面上にあるはずだ。そのため、公的な意見を持たないということは、公私の境がなくなる。すなわち、私的な意見も公的な意見と同一平面に立ち、区切られなくなってしまう。「個人的な意見」が垂れ流される単一的な場所になる。それは、逆にいえば、「個人的な意見」の「私性」が失われ、何を言っても公にさらされ、愚痴のひとつを言っても、政治的態度とみなされることとなる。
死刑に対して、「肯定的感情」や「否定的感情」を私たちは持つだろう。自己内の感情を切り崩し、どこまで理性的な思考で詰めていくことができるのか。私たちは、被害者、被告、それを取り巻く司法関係者の感情を知り、振り回され、揺らぐ。そのつど、「個人的な意見として」愚痴を吐いたり、感情を吐露したりすることはあるだろう。しかし、社会の制度設計を考えるとき、私たちは「公的な意見」の表明を求められる。「個人的な意見」と「公的な意見」の間をどう埋めるのか、また、埋めないのか。
死刑の論じ方について、森さんと安田さんは次のように述べている。
森 (略)僕の感覚は理念なんです。もっと率直に言えば理屈。現場の感覚ではありません。それは承知しています。だからスパンをどこに置くかということなのだけれども、現場にいて実利を取る人たちは、自分の目の前にいるこの人を何とかして生きながらえさせたいと覆うことは当然だし、終身刑制度に縋ることもわからないではない。でも原理主義者、つまりイズムを前面に出そうと決意する立場としては、あっさりと同意はできない。
安田 死刑廃止というのはそういうリアリズムがあって、それをスタートに置かないと、観念論になってしまう。良い死刑廃止と悪い死刑廃止というかつての革命論と同じ次元の話になてしまって、死刑廃止のものが欠落し、内実を失っていくと思います。
(中略)
死刑廃止原理主義というのは、どうも死刑廃止を革命運動と同じように考えているのではないかと思いますよ。死刑廃止は文化運動であり改良運動であって革命運動ではありませんからね。
(52ページ)
安田さんの主張は、1960年代の革命運動への反省から、市民運動が生まれてきたことがふまえられている。両者の議論のスタイルは、この雑誌にも混在している。たとえば、前者は郷原佳以「デリダにおける死刑の問題」であり、後者は坂上香「死刑とメディアと陪審員」である。どちらも面白い論考であったので、後日できればとりあげたい。当然だが、両者は一人の人の中でも混在し、拮抗しうる。しかし、ポジショニングとしてどちらかを選ばなければならないこともある。私は、どうするのか。
いくつかの論点をあげてきた。私が、両者の対談で一番笑ったのはここである。
森 一番いいのは安田さんがメディアをもっとうまく利用することなんだけど。
安田 人には能力というものがあって、やっぱりなかなか難しいんです(笑)。カメラをカッと向けられるとすぐ睨みつけてしまうし、すぐ演説調になってしまう。
森 顔もどちらかといえば悪役面だし(笑)。お互い様ですが。
(54ページ)
メディアへの露出をコントロールすることが、最大の戦略となった現在では、安田さんはウケの悪い活動家かもしれない。また、主張も、批判すべき点があるのかもしれない。それでも安田さんのこれまでの実践を踏まえたうえで、安田さんの主張にどうこたえていくのかが、特に若い人たちにとっての問題である。
蛇足だけれど、こうした議論は、当然、若手の弁護士によってけん引されていくべきだろう。法曹界でも、なかなか若手がやっていくのは厳しいみたいだけれど……。若手内の動向はどうなんでしょうか?>若手の弁護士さん(読んでないかな?)
*1:あとで、自分の資料にもなるしね。