唐組「夕坂童子」

 2008年4月26日に、大阪精華小学校で、唐組「夕坂童子」を観て来た。演劇に行くというより、唐組にいく。廃校のグラウンドに赤く薄汚れたテントが劇団員によって張られる。制服姿の女子高生から60代の年配夫婦、一人からグループまで、思い思いの格好で集まった観客が、暗いテントの入り口に吸い込まれていく。約350人が、ぎゅうぎゅうづめに身動きもとれない桟敷の上で、膝を丸めて開演を待つ。まだ冷える春の夜だが、テントの中は息苦しいくらいに熱い。ここには、アングラ小劇場演劇が、健在である。
 唐十郎の世界というのは、全体主義の快楽に身を任せる部分があって、私はいつも批評精神をもぎ取られてしまう。唐突に感傷的な音楽が流れ出して、脈絡もなく観念的な台詞を役者が詠じると、理由はなくとも、いきなり引き込まれてしまう。物語の筋や、会話の妙は、ほとんど読み取れない。新作だけれど、明らかに舞台は昭和20〜30年代の東京下町。役者は唐十郎の文字で書かれた脚本を、演劇作品にまで昇華する依代であって、たとえ私と同じ20代の役者が演じていても、同世代感覚はまったく感じない。観客はそういった表層的な現代性の部分が共振するのではなく、普段、理性的に行動しようとしている抑制している、生々しい情念が共振する。狭いテントの中で、座ったまま、言語化できない感情の澱の部分が、浄化される。要するに、祭りであり、儀式である。
 終わった後に、何か構造を読み解いたり、表象を分析することが、あほらしく思えてしまう。「あー、面白かった!次も来よう。」これだけである。私は「演劇はナマだから面白い」*1といった陳腐なキャッチコピーは嫌いだけれど、唐組にはつい使ってしまう。「なにが面白い?」と聞かれても、「とりあえず、行ってみなよ」と言ってしまう。批評家泣かせの演劇で、私は唐の魅力を、唐の芝居以上に引き出せた批評を知らない。せいぜい、オマージュを捧げて終わってしまうのだ。*2

 と、敗北宣言して自己憐憫に浸っていても仕方が無いので、私が得たインプリケーションをメモしておきます。

 新作「夕坂童子」の主人公は、浅草・花やしきのお化け屋敷でトロッコを押している奥山六郎。作品中に奥山はストリップ劇場の「奥山劇場」から、六郎は今はなくなった「浅草6区」からとられていることが明かされる。もちろん、これらは単純なメタファーの寄せ集めで、奥山は、「現代で失われていく東京下町」という過去から訪れた、亡霊という名の来客である。そしてヒロイン的存在である谷朝子*3は古ぼけた時計を持って登場する。谷を追って出てくる男は、谷が夜から朝に巻き戻してしまった時間を「戻してくれ」と懇願する。谷はやり取りの結果、時間をすすめようとするが、そこに3人の女性が登場し「そのままでいいじゃありませんか」と主張する。彼女らは婦人会を名乗る。これらは、作品の冒頭のシーンのほんの一部の要素を抜き出したに過ぎない。それでも、この作品は、過ぎ去った過去を巻き戻してみせ、失われた世界を現在に招聘する試みだということはできるだろう。
 物語は怒涛の勢いで進む。重要なモチーフとなるのは、舞台上にすえつけられた4メートル以上の高さにもなる、急な坂である。坂の向うから夕陽がさすとき、登場人物たちは手袋をかざそうとしている。彼らの共通する意識の志向は、夕陽に設定されている。中盤では、ある男女が墓場に咲いた一輪の夕顔を手に入れ、人々の意識を夕顔に集めようと苦慮する。また夕方という時刻に魅入られた主人公の奥山は、夕闇が夜に変わる瞬間に、「笛吹童子」に会ってしまった経験を語る。
 クライマックスでは、夕顔に見立てた蓄音機のホーンをくわえた奥山が、水槽の水の中に入っていく。ところが、周囲の人々は、突然に「銀行が激安ローンを組んだ」という情報が入り、その場から去っていく。取り残されたのは、物語の中盤から周縁化されていたアルコール中毒の女性と、元婦人会の女性(男性が演じている)と、奥山である。そして、人々が帰ってくると、蓄音機のホーンと奥山が水に沈んでおり、見逃してしまった夕顔の開花に見立てられている。
 この奥山が水に入る前に、男から女になった情夜(唐が演じている)という登場人物とのやり取りがある。奥山が、再会し、一体化しようと取り憑かれている「夕暮童子(=笛吹童子)」の幻影についての会話である。

奥山 (情夜に)涙子さん、夕暮童子にはなれないよお
情夜 それ見たら帰れないと言ったな
奥山 うん
情夜 生活に戻れず死に体になっちまうみたいに
奥山 それが?
情夜 だったら死なん術はそれしかない。なっちまうことしか
奥山 そしたら、それ見たあんたは、死ぬかよお
情夜 少し見る、そのために、この連中も手袋をかざすんだ
奥山 (周りの衆に)少し死ね

(125ページ)

私は詳しく知らないのだが、唐の演劇活動の出発点である「状況劇場」の公演では、麿赤児が「笛吹童子」をやっていたようだ。他でもない唐自身が演じる登場人物が語る童子は、過去に置いてきたものたちだろう。
 教科書的に述べるならば、唐は1960年代のアングラ小劇場ブームの立役者であり、当然、1968年革命にもコミットしていた。*4先日、私が批判した「実録・連合赤軍」が執拗にこだわる「あのころ」を生きた、団塊の世代である。*5この公演の観客で、古株と思しき年配客の数組は、公演前や休憩中に「実録・連合赤軍」について話していた。唐が、奥山や奥山が取り憑かれる童子になぞらえている過去には、かつてのおのれも含まれていることだろう。
 唐はマスメディアへのインタビューで「夕坂童子」はフォークロアを織り込んだと話している。東京下町の人々の間に伝わる都市伝説を、折り重ねて、一つの物語に束ねている。しかし、そこから私が垣間見たのは、「やってくるはずの夕暮れ」と「見逃してしまった夕暮れに咲く花」というメタファーに象徴された、「忘却されつつある過去」に対する現代人の郷愁、というよりは強烈な負い目である。そこには、「私たちは、あんなに追い求めた大事な瞬間を、見逃してしまったのだ」という、過去を突きつけ、さらに忘れようとしている私たちの現在を突きつける、唐の鋭い視線がある。
 似たように「あのころ」を扱った映画として「ALWAYS 3丁目の夕陽」がある。こちらは、懐古趣味による過去の美化の側面が強い。「あのころは良かった」という過去を見ようとする傾向がある。ところが、唐の「夕坂童子」には「あのころ、起きたことが忘れられていく」という現在をみようとする傾向がある。
 ここには、一つの逆転がある。「ALWAYS」に登場する役者は、レトロな衣装を身に着け、昔の風景を再現しているものの、喋り方や感性は明らかに現代風にアレンジされている。古臭くならないように、工夫を重ねて、現代を生きる私たちの延長線上に、違和感なく、過去を再現してくれる。対して、「夕坂童子」の役者たちは、明らかに古臭く、現代の私たちから断絶されている。過去の私たちが、そのような様式で生きていたとしても、現代の私たちからみると異様な服装、所作である。
 一見、現在性を担保しながら、過去を再現しているようにみえる「ALWAYS」と、過去に没入し、現在を放棄しているように見える「夕坂童子」。しかし、実際の作品は、過去に耽溺する傾向のある「ALWAYS」と、現在の私たちを撃とうとする「夕坂童子」という対比をなす。唐は、「あのころ」の政治姿勢を批判したわけではない。ただ、「あのころ」を生きた私たちも、今を生きる私たちもつながっていることを見落とさない。奥山に取り憑いた童子の幻影のように、忘れていたはずの過去は、どこかで笛を吹いており、私たちも空耳のような過去からのメロディから解放されることはないのだ。
 最後に、奥山が夕暮れの中、水槽に入っていなくなり、夜になってしまったあと、谷と情夜は次のような会話を交わす。

谷  でも、あの日の夕方が、その日の頁を閉じないんです。夕顔が、まだそこに浮かんで揺れてるようで。
情夜 でも行こう、谷さん。この夜の人波越えて。どこかで崩折れ、眠りの底に這いつくばって……朝まだきの朝子の時間を待ちながら。
谷  わたし、います
情夜 じゃ

唐の描く世界は、過去が過去として完結しない。私たちは過去を忘却していく。それは時に残酷なことではあるが、摂理でもある。「過去を忘れないでいよう」というスローガンがむなしいものでありながら、時折回帰する過去の亡霊に取り憑かれる。唐は、そうやって生活していく人々を追うのだ。
 友人や、ネット上の評で、「実録・連合赤軍」が、大学卒業のインテリという、ほんの一部の(しかし、声の大きい)人たちの「あのころ」を描いたにすぎない、という指摘があった。唐が作品で描く人たちは、そのような層とは限らない。だから、テントに集まる観客の層も、「実録・連合赤軍」を観に行く層よりずっと多様なのだろう。(少なくとも、私には多様にみえた)もちろん、唐の作品に登場する人物が、世の中の人たち全てを代弁しているというわけではない。唐が描こうとするのは、もっと抽象的で典型的な「大衆」だというのだ。
 これぞ、芸術の真骨頂であろう。

 もちろん、以上の評は、唐の作品の一部を抜き取り再構成したにすぎない。ここまで苦労して書いても、やはり、唐の作品は観に行くに限る。まだ、5月、6月に東京公演が予定されています。オススメです。*6

参考:

夕坂童子

夕坂童子

*1:避妊したくない男子じゃないんだからさー

*2:だいたい、私は丸山厚人さんにメロメロになって帰ることになる。私も夕子になって、貢ぎたいわ。

*3:谷はパーマネントの赤いオカマを被って登場する。まるで赤軍派赤ヘルのようである

*4:ただし、唐の非政治性について、扇田明彦らの言及がある。

*5:厳密に言えば、唐が「団塊の世代」とくくられるコーホートに入るのかどうかは、微妙な問題ではある。

*6:テント芝居なので、ぎゅうぎゅうづめにすれば、なんとか入れますが、当日券だと立ち見の可能性もあります。前売りを取っておくほうがよいです。