「マイダネク収容所を見た」ということ

 マイダネク収容所跡は、ポーランドの西側にある小さなルブリンという街の側にある。規模の大きな収容所だが、首都ワルシャワから2時間かかる場所にあり、訪れる見学者は多くない。
 私は、マイダネク収容所跡に行く数日前に、アウシュビッツ収容所跡を訪れていた。あいにくの嵐のような雨風の中、ツアーガイドに連れられてのグループ見学だったので、落ちついて見ることができず心残りだった。また、アウシュビッツの収容所跡の、膨大でわかりやすい展示の情報を必死に吸収しながらも、「なぜ、私はポーランドまで来て、収容所をめぐることにしたのか?」という疑問が、自分に常に付きまとっていた。日本にいても、ナチの虐殺について学ぶことはできる。しかし、私はヨーロッパまで行き、収容所をめぐることにした。その理由は不明確だった。
 ポーランドの古都クラクフでは、ポーランド人の若い女子学生と話す機会を得た。彼女は、「なぜ収容所をめぐるのか?」と何度も私に問うた。「ポーランドには、もっと別の側面もある。美しい観光地もある。収容所以外のものも見てほしい」と彼女は言った。そして「どうして、ホロコーストに興味を持つの?」と私に聞いた。彼女は、私より年下で、これからのポーランドで生きていく。その彼女の前で、私は「なぜ、ポーランドの歴史、それも暗い歴史の痕跡だけを求めて旅行をしているのか」について、うまく答えられなかった。問われる度に答えるが、自分の中でも言い切れたという気がしなかった。
 旅行の最中で、何度も「私は『誠実に歴史に向き合う人』ぶりたいのか」「ここまで見にくるというコストをかけた、というアリバイが欲しいのか」ということが、頭の中をよぎった。私は歴史家ではなく、調査をしに収容所に行きたかったわけではない。また、なぜ、中国ではなく、韓国ではなく、ヨーロッパのナチスの収容所だったのか。私は虐殺した側にも、虐殺された側にも、直接のルーツを持たない。もちろん、プリモ・レーヴィの詩、ジュルジュ・アガンベンの哲学、映画「ショアー」……私と収容所を結び付けるような印象深いテキストはいくつもある。だが、わざわざ、現地まで足を運ぶ理由は、自分でもうまく言葉にできなかった。

 マイダネク収容所跡は、ルブリンの街から、バスで20分だった。バスの中でも、降りてからも、ポーランド人らしき年配の女性が、ポーランド語で熱心に道を教えてくれた。私がガイドブックとカメラを持って、フラフラしていたからだろう。言葉はわからないが、気持ちが伝わってありがたかった。
 収容所跡は緑に覆われていた。あいにくの小雨が降る天候だったが、草原が広がり遠くに古いバラック(収容所だった建物)がみえ、一つの風景をなしていた。大きなモニュメントから見下ろし、一望すると、とても美しかった。私は、そう感じた瞬間に、自分がいたたまれなくなった。ここで、数万人が殺されたのに「美しい」とはどういうことだろうか。でも、眼前の風景はやはり美しかった。
 ぐるりと草原の道を歩くと、バラックが見学できるようになっている。バラックの一つはガス室で、そのまま残されている。壁にはチクロンBの青色が染みついている。ちょうど、誰もいない状態でひとりでその部屋を歩いた。バラックを出ると、草むらに杭が打たれたままになっていた。おなかがすいたので、そこに座ってビスケットを食べた。目の前に、ガス室があるのに、私はビスケットを食べた。
 ほかのバラックのうちのいくつかは、展示室になっていた。犠牲者の靴が何列かの棚になり、天井まで積み上げられているバラックもあった。棚の間を通ると、埃の匂いがした。多量の靴に圧迫されるような感覚に陥った。展示室には、死者78000人という表記があって、立ち止まった。こんなことがあったのに、数字でしか表せない。ディテールを追おうとしても、78000人の数字が頭をよぎる。それだけの人は、もう死んで、帰ってこない。
 バラックを出ると、なだらかな上り坂になっている。草が茂っている広大な土地は、収容所のバラックがあった場所だ。一部は残されているが、草がぼうぼうと生えているだけの場所もある。私は「なんにもわからない」と思った。「こんなところまで来て、なんにもわからないのか」と思う一方で、「こんなところまで来たから、なんにもわからないことがわかった」と思った。
 どうしようもなく断絶しているからだ。私はずっと、収容所跡を眺めていた。自分が存在する、ということすら忘れそうで、目だけがあるような感覚だった。精いっぱい想像力を働かせ、ここにいた人たちの死や苦痛の重みをかけらでも受け取ろうとした。だが、私は眺望を美しいと感じ、ガス室の前でビスケットを食べ、数字の前で数字しか理解できなかった。
 収容所跡は痕跡だ。そこから何かを想起するためにここまで来たのだと、私は自分で最初思っていた。だけれど、この場所には痕跡しかないこと、つまり、「どんなに忘れないでおこう」「過去を知ろう」としても、過去は過去で、何もなく、風化し、忘れられるしかないことを、私はここで味わった。私はなんにもわからなかった。
 そう思って、歩いていると、修学旅行らしい学生のグループとすれ違った。知らない言葉で話し、熱心に見学している。その中の一人の学生に"Are you Japanese?"と聞かれた。"Yes"と答えると、「僕も日本人です」と日本語で返ってきた。高校生くらいの男子学生は「お父さんは日本人、お母さんはイスラエル人です」*1と言った。イスラエルから、修学旅行に来ているらしい。「ユダヤ人がここで殺されたことを知って勉強になった」と彼は続けた。私は「そうなんですか」と答えて、それ以上何も言えなかった。私は、短い会話を切り上げて、そそくさと彼の傍を離れた。
 上り坂をあがりきると、霊廟がある。犠牲者の灰が丸いドームの中におさめられている。赤いバラが供えられていた。霊廟からは、長いまっすぐの一本の道で、最初にみた大きなモニュメントに戻るようになっている。坂はなだらかにくだっていて、私は黙って一人で歩いた。草原が目の前に広がり、バラックがポツポツ見える。
 そのうちの一つのバラックは焼け落ちていた。実は、私が訪れる一か月弱前の8月11日に、マイダネク収容所跡ではバラックの火事があって、おさめられていた犠牲者の靴が焼けたらしい。ビジターセンターのブログでは、お金がなくて防災設備が整えられないため、こうした火災が起きたとの説明だった。火事のあとは、そのままになっていた。
 モニュメントに戻ってくると、雲が晴れて太陽の光が差してきた。私はカメラを出して、シャッターを切った。モニュメントが青い空に映えた。そして近づいて行くと、青い制服の学生のグループがモニュメントの前に整列を始めた。学生の数人は、イスラエルの青い国旗を持っていた。風で旗がはためいた。

 映画のような一連の出来事だった。過去はここにない、と感じたその数分後、現在と過去を結び付けるために訪れるイスラエルの学生に遭遇した。それも、強い政治的意図があって、結びつけられるさまを見たのである。「『ユダヤ人の犠牲』が記憶され、そのときパレスチナの虐殺は忘却される」というような。私の「なんにもわからない」という非政治的感傷が、政治的現実に引き戻される。
 それでも、そのときもまだ、私はやはり目だけの存在のように、マイダネク収容所跡を見ていた。
 私は、これからも、またナチの虐殺についての資料を読むのだと思う。学び続ける。そしてまた、収容所をめぐりに行くのだろうと思う。「なぜ?」という問いの答えはまだ言葉にできていないけれど。

*1:もしかすると父母のナショナリティは逆だったかもしれない