小林美佳「性犯罪被害にあうということ」

 上の記事を踏まえたうえで、書く。4月30日付で以下の書籍が刊行された。

性犯罪被害にあうということ

性犯罪被害にあうということ

ワイドショーでも取り上げられ、今日、すでに書店には並んでいたので、購入した。
 小林さんは、実名と顔を出し、「普通の人が性犯罪被害にあった」という経験を書いている。個人的経験が中心になり、被害後の心理的状況が、やさしい日本語で詳しく書かれているので、わかりやすいのではないだろうか。
 小林さんは、上の記事で取り上げた「被害者と司法を考える会」の代表である片山さんとつながりを持つ。(本の中でも触れている)小林さんの「あすの会」への違和感も、丁寧に読めば、伝わってくる。「かわいそうだと思われたくない」「被害者がわがままで振り回すことを隠蔽したくない」という誠実な気持ちが伝わる本である。
 小林さんは、政治活動をしたいのではなく、ただ「わかってほしい」のだと主張する。「私とあなた」の関係を見つめなおす契機として、性犯罪被害を捉えている。小林さんはMr.Childrenの「タガタメ」という曲の以下の歌詞を二度引用している。

タダタダダキアッテ(ただただ抱き合って)
カタタタキダキアッテ(肩叩き抱き合って)
テヲトッテダキアッテ(手を取って抱き合って)
タダタダタダタダ(ただただただただ)
タダタダタダタダ(ただただただただ)
タダタダキアッテイコウ(ただた抱き合っていこう)

小林さんは政局を勝ち抜き、利益を求めるのではなく、日常の関わりの中で「私とあなた」が、性犯罪被害について真摯に考えることが必要だと訴える。
 この、政治性から日常性への回帰は、政治運動のおなじみの変質である。新左翼運動が「ブント」から「声なき声の会」へ移行したように、女性運動が「ウーマンリブ」が「エコフェミ」に移行したように、激しい政治闘争から、私的領域での変革に移っていく。
 このとき、より多くの「当事者でない人たち」は、運動へと共感し、コミットしていく。政治運動の大衆化が進むのである。上の記事で、しつこく明日の判決をメルクマールに据えたのは、この移行がおきていることを指摘するためである。
 小林さんの主張を、政治的に無化された骨抜きの戦略と批判することもできるだろう。しかし、これもダイナミズムの一つである。これから、ゆっくりと今まで声をあげられなかった、生活世界で被害を胸に秘めてきた被害者が、運動へと参加していくだろう。そして、今までとは違うかたちで、「被害者とはなにか」「必要なものはなにか」が問われるようになるだろう。*1
 何が正しいか、何をすべきか、という問題はひとまず棚上げして、私はこの動きを追いたいと思っている。どこまで、何がみえるのかはわからない。その中で私が見出したいのは、「人間は暴力が行われた後に、どのように生きていくのか」という根源的な生き様である。「私たちは傷つけ/傷つけられても生きていく」というその単純な命題が、どのような構造によって維持されているのか、という疑問がいつも念頭にある。

*1:これを「歴史の発達段階」と呼ぶ人もいるかもしれないが、私は呼ばない。単なる変質のパターンとしてみている。