性暴力は自衛可能か?

0.本文に入る前に

 最初にお断りをします。この記事では、直接的な性暴力の被害経験の触れています。性暴力についての記述を読んだときに、気分が悪くなったり感情がセーブできなくなったりすることがあります。被害経験がある人はもちろん、そうでない人もご注意ください。(そうした記述を、身を守るために読まない、という選択もあるべきだと、私は思っています)
 次に上記以外の理由で読む気がない人向けに、結論を書いておきます。

【結論】
 性暴力において、被害者を出さないための、決定的な方策はいまだみつかっていない。他者と信頼関係を結ぼうとする中で、加害者は被害者に性暴力をふるう。加害者が性暴力という行為に至るメカニズムは、判明していない。他者とのつながりを求める限り、親密な関係におけるレイプは、防ぎきれない。だが多くの人々は、他者との親密な関係を拒絶することを、選ばないだろう。そこで、性暴力の危険性を認知しながらも、それを避けようとする不断の努力が必要とされることになる。その努力とは、通俗的で女性抑圧的な、「夜道を歩かない」「ミニスカートをはかない」といった自衛策ではない。性教育をすすめ、性についてオープンに話をすることのできる空間を、維持することが、一つの対策となりえる。

 また、「性犯罪は自衛可能であるか」というフレーズで、議論が起きている。「性犯罪」は立件可能な性暴力というニュアンスを持つため、以下では「性暴力」と言い換えていく。性暴力の被害者の多くは、被害届を出すのも難しい状況におかれている。しかしながら、犯罪と認知されなくても、性暴力にさらされている人たちがたくさんいることを鑑みての判断である。

1.性暴力の実態

 まず、性暴力の実態について確認していこう。性暴力は、大別して二種に分けられる。一つ目が「見知らぬ者からの性暴力」であり、二つ目が「親密な関係における性暴力」である。

(1)見知らぬ者からの性暴力

 見知らぬ者からの性暴力は、ストリートレイプのイメージにより、広く一般的に認知されている。人気のない夜道を歩いている女性が、知らない男に強姦されるイメージである。露出が多い服を着ていたり、男性に対して誘惑的であったりする女性が、標的になるという言説も流布している。
 だが、実際に見知らぬ者からの性暴力を受けた被害者の服装には、共通性がない。むしろ、露出が少なく、おとなしそうな女性が狙われやすい、という傾向があるとも言われる。では、実際に見知らぬ者から性暴力の被害に遭った人は、どのような経験をしたのだろうか。小林美佳は「性犯罪被害にあうということ」で、自身の性暴力の被害の経験を、文章化している。

性犯罪被害にあうということ

性犯罪被害にあうということ

小林さんは、会社から自宅に帰宅する途中で被害に遭った。閑静な住宅街で、「治安が悪い」と言われたことのない場所だった。近くには交番もあった。そこで、道を尋ねてきた男に、小林さんはレイプされた。小林さんは、数年後にカウンセリングを受ける中で、次のように考えるようになったという。

 加害者が私に手をかけた瞬間は、加害者が、道を教えようとした私の信頼や親切を裏切った瞬間なのだ。
 私は、困っている人に手を差し伸べることは、正しいことだと思ってきた。私は、道を聞いてきた男が困っていると思ったのだ。困っている、と、信じたのだ。
 その一瞬の信頼を、裏切られた。
 私にとっては何よりも忘れられない瞬間で、ショックが大きかった。

 誰かに「裏切られた」という怒りを感じたことがあるだろうか。裏切りというのは、一対一もしくはごく少数の人間が一人の人間に対して行うことだろう。そして、裏切られた側には、相手を信じていたという前提がある。
 裏切られた人間は、大抵の場合、「非がない」と見られる。裏切った人間の「裏切る」という行為に焦点が当たり、その人の信用や評価に影響を及ぼすこともあるだろう。だから、裏切られた人間は、「あの人ひどいんだよ!」と公言することができる。
 しかしなぜだろう。
 性犯罪被害者には、それができない。
 「あなたは何も悪くない」と何度言われたことか。頭で理解できても、じゃあ、「私、人に道を教えたら、車に引き込まれてレイプされたの!」って言えるか?
 「もう誰にも話さないでちょうだいね」と母に言われた一言が、世の中の”常識”を感じさせてくれた。被害にあったと人に話すことが”恥ずかしいこと”なんだという圧力を感じた。
 『なんで?』
 『私は悪くないんじゃなかったの?』
 これが、ずっと私が感じてきた違和感なのだ。
 「人に言えない恥ずかしいことをした」という気持ちを抱えて生きることの屈辱と、理不尽な罪悪感をいつも持っていた。性犯罪の被害者の悩みは、ここなのだ。誰しもが持っている常識や習慣や文化が、こんなかたちで自分に降りかかるとは思わなかった。私も以前はその中で疑問を持たずに生きていたのだから。
(小林、141〜142ページ)

小林さんが被害に遭った原因は、服装や振る舞いではない。小林さんが、加害者の標的にされたきっかけは、親切に道を教えたことだった。では、自衛のために、道に迷って困っている人を放置しなければならなかったのだろうか。こうした被害の例は少なくないはずだ。こうした実際に性暴力の被害に遭った人の経験を知りながら、どうすれば性暴力を防げるのかについて考えなければならないだろう。
 なかには、性的な活発な女性を標的にするような、性暴力加害者もいるだろう。しかし、それは一般的事例ではない。まとめておこう。見知らぬ者からの性暴力において、女性の服装の露出が過多であるかどうかや、性的に活発であるかどうかは、重要な問題ではない。

(2)親密な関係における性暴力

 2008年に実施された「男女間の暴力に関する調査」*1で、次のようなデータが出た。異性から無理やりに性交された経験のある女性は、20代において11.4パーセントを占める。10人に1人以上の割合で、性暴力の被害を受けた若年女性がいることになる。さらに、被害者と加害者の関係性についての調査は、以下のような結果が出た。

その出来事の加害者との面識の有無を聞いたところ(図5−2−1)、3人に2人は「よく知っている人」(66.7%)と答え、「顔見知り程度の人」(19.3%)という人は約2割で、『面識があった』人は9割近い。「まったく知らない人」(9.6%)という人は約1割である。
http://www.gender.go.jp/dv/pdf060424/h18report2-5.pdf

上のデータを見ると、90パーセント近くの性暴力は、親密な関係において起きている。森田ゆりが編集した「沈黙をやぶって」は、日本における性暴力被害告発のパイオニア的な書籍である。

1992年に刊行されたこの本では、匿名・実名の被害者たちが、自らの経験を語っている。また、この本の特徴は、パート1「近親からの性暴力」、パート2「知人からの性暴力」と題し、親密な関係における性暴力にページを多く割いていることでもある。
 この本の中で、Mさんという高校3年生の女性は「体を切り離してしまいたい」というタイトルで、自らの被害経験を文章化している。Mさんは、中学2年生の時から拳法教室に通っていた。そこの先生から、高校2年生の時に被害に遭う。彼女は、上下関係に厳しいが冗談を良く言う先生を尊敬し、慕っていた。だが、先生が彼女に寄せる好意は過剰になっていき、つらさも感じていた。そんなある日、先生と二人で稽古した後、彼女はお金を無理やり渡される。以下は彼女の手記である。

 その後のことは書きたくないです。最後までじゃないけど、その一歩手前までされました。何が何だかわけがわからなくて、家に帰ってすぐお風呂に入りました。
 でも汚いんです。
 私の体が。
 洗っても洗ってもおちないんです。体を切り離してしまいたかった。吐き気がするほど汚くて、でも私の体なんです。一生、私の体なんです。
 次の日、私は家に帰らずに友達の家にいました。家に居ると、練習の時間には親が進んで娘をさし出してしまうんです。何も知らずに。先生を信じて。夜おそくに帰ると、練習はどうしたの、と親に言われました。何も言わずにだまっていると先生から電話がきていて、後で電話させるように言っていた、と言われました。できるわけ、ありません。次の日も、おなかが痛いといって行きませんでした。
 友達に相談したら、逃げていてもどうしようもない、先生にハッキリ言うべきだ、と言われます。どうしてその時、もっと死ぬ気で抵抗しなかったのか、っても言われました。たしかにそれは正論でしょう。けれど、どうしようもなかったんです。先生にはむかうなんてことは、今まで「拳法をやる者の礼儀」をたたきこまれた私には、できないんです。精一杯抵抗しても、先生の「俺を怒らせるな」っていう、それだけの、たったひと言で、体がいうことをきかなくなりました。何かが崩れていった気がしました。
 もともと力では、いいえ、それだけではなく、すべてのことにおいて、私は先生に勝てないんです。それは、弱かったっていう事は、私の罪ですか?ただの「逃げ」なんですか?自分から友達に相談したくせに、あんたに何がわかるっていうの?!って思ったんです。誰も守ってくれない、自分しかいない、って実感しました。先生に会うと絶対また何かされそうで、練習を休み続けました。それだけじゃなく、自分から練習にでていく、ということは、先生のしたことをゆるす、という風にとられそうで、同時に認める、というようにとられて、しょっ中されそうで…何より先生に会いたくなかったんです。心の底から、会いたくなかったんです。
 突然練習に行きたがらなくなった私を見て、母も感じ取ったのでしょう。けれど、直接私に聞くことができなかったのだと思います。母の想いは「生理きてるのかい?」という形で私にきました。その時の私の気持ちはとても説明なんてできやしません。くやしくて、はずかしてく、やりきれなくて、たまらなく、みじめで…。涙が止まらなかった。母が先生に私はもう拳法をする気がないようなので、やめさせると電話してくれて、最後のあいさつに菓子折りを一緒に持って行くように言われましたが、どうしても行けませんでした。
 四年も習っていたのだし、礼儀に反している、ケジメがつかない、と自分を説得しようとしましたが、私の体も、心も、すべてが拒絶していました。とにかくお金を返そうと、封筒に入れ、それと一緒に手紙を書きましたが、そのことについては何も書けず、「体を大事にして、いつまでも皆から尊敬される先生でいて下さい」と、それだけがやっとでした。そのひと言に私のどんな想いがあるか、先生ならわかるだろうと思いました。母にその封筒を渡して、ついでに先生に渡してきてくれるように頼みました。
 これですべてがおわったかと言うと、何もおわってないのです。私の体は汚いままなのです。「狂犬にかまれたのだと思って忘れなさい」なんて、よく言うけれど、そんなの不可能です。四年かけて信頼し、尊敬していた相手です。あんな怖い思いをしました。体を切り離してしまいたいくらい汚いと思いました。親とあんな会話をするなんて夢にも思いませんでした。けど相手は信頼して、尊敬していた恩師なんです。社会的地位もあり、経験もあり、お金もあり、家族もあり、力もあり、計算もある。私は忘れようとしてもがくしか手はないんです。こんなことになっても先生を尊敬している自分が憎いんです。
 先生には私と同い年の娘さんがいて、学校はちがうんですが、私と仲のいい人のうちの何人かと仲がよくて、みんなで遊ぶと娘さんも来たりします。その子には何の罪もないんですが、その子を見ると思いだしてしまいます。その子に対して怒りを感じることもあります。たまらないんです。たえきれません。やりきれないです。けど、言えない。その子にとったら、先生は一生の、信頼していく父親なんですよね。絶対、知られちゃいけないんですよね。
 今、先生の会社がホテルを建てています。通学バスは毎朝ホテルの前を通ります。会社はうまくいっているようです。拳法を習っている人達も、なにも知らずに純粋に先生を尊敬しているのでしょう。
 時間が傷をいやしてくれるんでしょうか?半年たちますが、なかなか私の所に時間は訪れてくれません。時間というのはどんな人なんでしょうね。被害者意識が強すぎるのでしょうか?どうして私だけがとり残されて、先生はどんどん先に進んでゆくんだろう、って、それは考え過ぎでしょうか?
 もう完成間近のホテルを見る度に、ぶちこわしてしまいたくなります。
(森田、107〜110ページ)

この性暴力は、親密な関係において、はっきりとした権力差がある中で起きている。尊敬する先生との関係で、MさんはNOが言えなかった。それは、性暴力が起きる前からある、固定された支配関係に原因がある。こうした師弟関係の問題点を批判することも可能だろう。だが、Mさんは今も継続して、先生を尊敬し続けている。それを洗脳であるとしてネガティブに言うべきなのだろうか。もし、性暴力が起きなければ、Mさんは先生と良好な関係を持ち続けただろう。こうした師弟関係が性暴力の温床となりやすいとしても、それ自体が悪いわけではないのだ。*2むしろ、Mさんにとって二人の関係は、信頼関係としてポジティブなものとしてとらえられるはずだったのだ。
 Mさんを苦しめているのは、師弟関係ではない。友達から「どうして抵抗しなかったのか」ことが、打撃になっている。そして、ここから先も、先生を含めた人間関係の中で、誰にも言えずに生きていかなければならないことが、彼女を苦しめる。忘れられない自分を責めている。トラウマそれ自体が苦しいのではなく、トラウマを乗り越えられない自分であることが苦しいのだ。
 Mさんは、どうすれば性暴力被害に遭わずにすんだのだろうか。先生を尊敬せず、信頼しなければよかったのだろうか。ここで、(1)で参照した小林さんの文章と重なる部分が出てくる。もちろん、性暴力それ自体は悲惨で残酷である。Mさんは、「体が汚い」という感覚に襲われ、苦しんでいる。だが小林さんやMさんの語りを読むと、「信じた人に裏切られたこと」も、性暴力被害に遭った人の苦しみに、大きく寄与していることがわかる。


 (1)と(2)を併せて考えると、次のようなことがわかる。まず、性暴力の9割は親密な関係において起きる。次に、性暴力の標的にされる原因は、服装や振る舞いではない。最後に、性暴力に遭った被害者は、「信じた人に裏切られたこと」の苦しみを語っている。

2.性暴力を防ぐために

 性暴力から自分の身を守るためにはどうすればいいだろうか。「自衛する」ためには、攻撃してくる敵を見定めなくてはならない。ここでは、データ上多いことが分かった、「親密な関係にある人」が対象となる。信頼関係を結ぶ相手こそを、疑わなければならない。
 多くの女性はこのことを知っているのではないか。男性と親しくなる際に、「この人は自分に暴力をふるわないだろう」という確信は重要である。そこで、男性に対して簡単に気を許すことなく、暴力の予兆に目を凝らし監視しなければならない。*3このような男性に対する心理的なガードを実行するかどうかは別として、多くの女性は知識として持っている自衛策だろう。痛くもない腹を探られる多くの男性にとって、愉快ではない自衛策である。だが、もっと愉快でない思いをしているのは女性自身である。好意を抱いた相手に、率直に心を開くことができないのだ。女性は、「男性を警戒する」という作業に労力を割かなければならない。男性より多くコストを支払うことになるのだ。
 性暴力をふるわない男性は、性暴力加害者ではない。それは明白である。だが、「信頼したい相手を、警戒する」というコストを支払わずに済む点で、男性は女性より優位にある。もちろん、男性であっても、信頼関係について不安や恐怖を持ち、相手を警戒する人はいるだろう。そうした男性は、性暴力において女性が支払わされているコストが、どれほど大きいものか理解できるだろう。そして、その原因が「女性である」ことの不条理さも想像できるのではないか。本来、「男性である」ことと「女性であること」とは、性暴力において重要な要素ではない。親密な関係において、どうやって暴力を避けるのか、という問題である。だが、現行社会においては、女性が性暴力にさらされやすく、自衛策をとらざるをなくなる。この不均衡があることが、男女平等ではなく、差別があるということである。そして、男性が女性に「コストを支払え」と要求することは、この差別を強化することになるのだ。
 ところで、性暴力問題の根本的な解決策は「性暴力を撲滅すること」だろう。では、どうすれば性暴力をなくすことができるのだろうか。この問題の答えは出ていない。なぜ男性が女性に性暴力をふるうのか、という理由がはっきりしないからである。男性の支配欲や嗜虐欲が原因であるという説が支持されたこともある。これらは「パワーレイプ」や「アンガーレイプ」と呼ばれ、「男性が女性をレイプするのは、性欲が原因ではない」という主張がなされた。

セックス神話解体新書 (ちくま文庫)

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だが、この説には、統計による証明が不十分であるとの反論も出ている。
レイプの政治学

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また、ホルモンであるテストテロンの影響や、遺伝学上の問題とされることもある。先に述べたように女性が加害者となる性暴力の事例はあるのだが、やはり数字上は男性が加害者となる性暴力の事例が圧倒的に多い。この謎に対する、クリアーな解は確定されていない。
 性暴力を撲滅するためには、三つの仕事を同時にしなければならない。一つ目は、いまだ不確定な性暴力が起きるメカニズムを明らかにすることである。二つ目は、男性の性暴力加害者が多い理由を考えることである。このことは、一つ目の普遍的な性暴力が起きるメカニズムを解明する糸口になるかもしれない。三つ目は、謎が解けてないにも関わらず、性暴力を減らすための努力をなすことである。一つ目、二つ目の問題は研究者に解明する責務があるだろう。三つ目については、すべての人が担うべき課題である。
 どうすれば、性暴力を減らす努力ができるのだろうか。私が考えうる次善の策は、性教育の場を持つことである。以前に子どもに対する性的欲望について論じたときにも書いたが、性についてオープンに話し、考える場が必要である。好意を抱く相手と、どうやって暴力のない関係性を作るのか。私自身が、いつも迷っていることである。「私―あなた」の二者関係に閉じないことが一番大事なのではないだろうか。性的関係において、第三者を排し、密着状態になる過程に魅力を感じる人は多いだろう。だが、そこで常に別の場に回路を開いておくことが大事ではないか。つまり、性的関係の固有性や一瞬である部分を、普遍的に抽出し、他者と話すスキルを身につけるのである。それは、「セックス=コミュニケーション」と定式化するような、単純なリベラル契約主義とは違うかたちでの、性暴力を減らす方策になるのではないか、と私は考えている。

*1:PDFで閲覧可能である。(http://www.gender.go.jp/dv/0604reprt.html)男女間の暴力に限定された不十分なデータであるが、この議論の文脈上においては有用だと考えて提示した

*2:師弟関係以外においても性暴力が起きることを考えれば、明白である。

*3:実際には、女性から女性への性暴力もある。また女性が男性へと性暴力をふるうこともある。なので、この認識は問題をはらんでいる。典型的でない性暴力被害者をより抑圧する原因となる。しかし、圧倒的に男性から女性への性暴力の事例が多いことから、この意識が生み出されていることも書き添えておく。